第46章 識別の技術
仮収容所の一角には「識別班」と呼ばれる区画があった。
簡易の仕切りで区切られたスペースに、照明が眩しく灯り、机の上には鑑定用の器材が並んでいる。指紋採取用のインク、歯列を撮影するデジタルカメラ、DNA採取キット、そしてラップトップに繋がれた小型スキャナ。すべてが、亡き人に「名前」を取り戻すための道具だった。
最初に試みられるのは指紋照合だった。
警視庁の鑑識係が収容袋のジッパーを開き、膨張した指をアルコールで拭う。だが腐敗が進んだ皮膚は弾力を失い、インクローラーを当てると指紋の模様は滲んでしまう。時には指先を切除し、薬液に浸してから型を取ることもあった。
「記録可能、左手親指」
鑑識係が声を上げ、スキャナに読み取られたパターンが画面に映し出される。自動照合システムにかけられるが、結果が出るのは数時間後だ。
指紋が使えない場合、次に重視されるのは歯牙だった。
歯科医師会から派遣された歯科医たちは、遺体の口を開き、歯列を一つひとつ確認して記録した。歯の詰め物や治療痕は個人識別に極めて有効である。
「左上七番、銀インレー。下顎右二番、欠損」
カルテを読み上げる声が響く。助手が専用カメラで撮影し、記録はデータベースに入力される。東日本大震災でも数千人が歯牙照合で身元を特定された実績があり、今回も歯科医師たちの役割は大きかった。
だが、核爆発の衝撃波と津波の泥に晒された遺体の多くは、歯すら失われていた。高熱で焼けた頭蓋は歯列が崩壊し、水中で長期間漂った遺体は顎ごと脱落している。識別は一層難航した。
最終的な手段はDNA鑑定だった。
法医学研究所から派遣された技師が、骨や歯、あるいは髪の毛から検体を採取する。綿棒で粘膜を採るのは腐敗が進んだ遺体では不可能なため、硬組織が唯一の頼みとなった。採取された検体は冷蔵ボックスに入れられ、専門施設へと送られる。
「一検体あたり解析に一週間。これ以上増えれば待機列は数千に膨らむ」
技師の声には焦りが滲んでいた。遺族から提供されるDNAと照合するため、全国の警察庁舎に採取窓口が設けられ、家族たちは長蛇の列を作っていた。
識別は技術の問題であると同時に、時間との戦いでもあった。
腐敗が進めば指紋は消え、歯も脱落し、DNAの品質も低下する。識別班の人々は、毎日何十体もの亡骸と向き合いながら、その「時間の壁」と格闘していた。
ある日の作業で、一体の遺体から無事に歯牙データが採取された。照合の結果、都内在住の会社員であることが判明した。報告を受けた識別官は深く息を吐き、「名前が戻った」と呟いた。周囲の作業員たちも一瞬だけ安堵の表情を見せた。膨大な遺体の中で、ようやく一人が「数字」から「人」へと戻った瞬間だった。
一方で、身元不明のまま残される遺体も多かった。
タグ番号だけが存在し、家族に繋がる手掛かりはない。検視官の机の上には「識別不能」と書かれたファイルが積み上がっていく。誰も口にはしないが、それは「名を失ったまま葬られる可能性」を意味していた。
夜、識別班の作業が終わると、机の上に残されたのは白い検体ケースと数十枚の歯牙写真だった。冷蔵庫のモーター音が低く響き、外では発電機の唸りが途切れ途切れに聞こえる。
作業員の一人がつぶやいた。「これでまた少しは家族に帰れるだろうか」
答えは誰にも分からなかった。だが、数字を名前に変える営みを止めることだけは、誰にも許されなかった。




