第45章 腐敗と冷却
仮収容所の空気は、日ごとに重くなっていった。
湾岸の倉庫や体育館、臨時に接収された展示場に並ぶ収容袋は、すでに千単位を超えている。冷却設備は足りず、発電機の燃料は尽きがちで、夏の熱気に押されるようにして腐敗は急速に進んでいた。
「昨日収容したばかりなのに、もう臭気が漏れている」
検視官がマスク越しに顔をしかめた。袋のジッパーを閉じていても、ガスの膨張で布が膨らみ、独特の匂いが漂う。作業員は消臭剤を撒くが、焼け石に水だ。防護服を着ていても、鼻の奥に染み込む臭気は消えず、夜になっても幻のように残った。
冷却のために、各所からあらゆる資材がかき集められた。アイスアリーナは臨時の遺体保管庫に転用され、漁協の冷凍庫や食品工場の冷蔵室も次々と解放された。だが、収容規模に対して能力は圧倒的に不足していた。ドライアイスも全国から搬送されたが、需要は追いつかない。
「ドライアイス、一体あたり五キロ。持って三日が限界だ」
環境省の担当官が記録用紙を叩く。供給ルートは寸断され、軽油不足で搬送トラックの稼働も制限されている。
ある収容所では、体育館の床に防水シートを敷き、その上に袋を並べ、上から氷を覆う方法が試みられた。しかし氷は一晩で融け、翌朝には床に冷たい水溜りができていた。電源の限られた発電機で冷蔵コンテナを動かそうにも、容量オーバーで頻繁にブレーカーが落ちた。
「電源が持たなければ、ただの箱だ」
施設担当者の声は苛立ちと絶望の入り混じったものだった。
腐敗は衛生リスクとなり、現場にさらなる圧力をかけた。袋から漏れ出した体液が床を汚し、消毒用の次亜塩素酸水を撒いても追いつかない。蚊やハエが群がり、感染症の危険が高まっていた。防疫班は必死に薬剤を散布し、殺虫灯を設置した。
「このままでは、遺体が生者を脅かす」
その警告は作業員の心を冷やした。尊厳を守るために収容した亡骸が、いまや衛生上の脅威になりつつある。
現場の心理的負担は計り知れなかった。収容袋の中身が膨張して破れ、作業員が慌てて新しい袋に入れ替える場面もあった。白い防護服は体液や泥で汚れ、作業員は互いの顔を直視できなくなることも多かった。
「これは人の姿をしていたものだ」
心の中で繰り返し念じなければ、ただの廃棄物を扱っている感覚に陥ってしまう。作業員は交代制で短時間勤務に切り替えられたが、心的外傷を訴える者は急増していった。
一方で、識別作業は腐敗の進行と競争していた。指紋は膨張で判別不能となり、顔の認識も困難。歯牙記録やDNA採取だけが唯一の手段となった。だが、腐敗が進めば歯も抜け落ち、サンプルも失われる。識別班は「時間との戦い」に追い込まれた。
「一体でも多く、名前を残さなければならない」
警視庁の識別官は声を荒げた。その横顔は疲れ切っていたが、目には焦りと責務が同居していた。
夜、収容所の外に並ぶ発電機は轟音を響かせ続けた。燃料タンクを確認する係が呟く。「あと一日分しかない」
冷却が途絶えれば、すべてが崩壊する。都市の中心で、亡き人の保管と識別を維持するには、膨大な資源と人手が必要だった。だがそれは、生き残った人々への支援と常に奪い合いだった。
腐敗と冷却の戦いは、人間の尊厳を守ろうとする最後の抵抗だった。
だが現場の誰もが理解していた。これ以上の遺体が流れ込めば、その抵抗さえ維持できなくなる




