第25章 ハイパーインフレ前夜
再固定から三か月。1ドル=200円のラインは、もはや形骸化していた。
大阪の避難所では、人々が配給用のパンや缶詰を「円」ではなく「ドル」や「金」で取引し始めていた。ある主婦は言った。
「給料は円で振り込まれるけど、スーパーじゃ物が買えない。闇市では“1ドル=280円”でしか通じないんです」
闇レートは急速に広がり、公式200円、闇280円、現実は300円――その乖離は誰の目にも明らかだった。
大阪の日銀地下シェルター。首相、財務大臣、日銀総裁、そして外務大臣までもが揃っていた。
財務大臣が顔を覆うように言った。
「もう支えられません。ドル売り介入は一日で200億ドルが消えていく。外貨準備は残り2000億ドル。あと数週間です」
総裁が低い声で続けた。
「G7の追加支援も足踏み状態です。米国議会では“日本の戦争にどこまで支援するのか”と反発が強まっている。もし次の審査が通らなければ、我々は“通貨の崩壊”を認めざるを得ません」
首相の目が険しく光った。
「つまり、変動相場に戻すということか」
室内の空気が一気に重くなる。
外務大臣が口を挟んだ。
「総理、それは国際的な敗北宣言に等しい。円が暴落すれば、一夜で1ドル=400円、500円になるでしょう。輸入は止まり、国内はハイパーインフレに突入します」
財務大臣が机を叩いた。
「だが、もう隠せません!国民は知っているんです。市場で卵一パックが千円、ガソリンがリッター千五百円になっていることを!」
首相は深く目を閉じ、重々しく言った。
「……では、選択肢はあるのか?」
日銀総裁が資料を差し出した。
「一つだけ。二重通貨制です。公式の円はそのまま残す。だが並行して“戦時ドル決済口座”を認める。ドル建ての決済が国内で合法化されれば、闇レートを正規の流通に吸収できます」
外務大臣が眉をひそめる。
「つまり、自国通貨を見捨てるのか?主権を放棄するに等しいぞ」
財務大臣が声を荒げる。
「もうとっくに闇市場で見捨てられている!我々が公式に認めなければ、国民はますます政府から離れていく!」
首相は震える手で資料を握りしめた。
翌日、国民向けの緊急放送。首相はやつれた顔でカメラの前に立った。
「国民の皆さん。円の価値は大きく下がりました。政府はこれを隠すことなく認めます。本日より、国内でのドル決済を一部合法化します。給与や年金は円で支給を続けますが、輸入や国際取引にはドルを併用します。これは屈辱ではありません。生き延びるための決断です」
街中に衝撃が走った。「円は死んだ」という噂が一気に広がったが、同時に、ドルで物を買えるようになったことで配給の混乱は一部収まった。
深夜、シェルターの会議室で首相は独りつぶやいた。
「円は血を流し尽くした。だが、国家はまだ死んではいない。……次は、この屈辱をどう耐えるかだ」
窓のない部屋に沈黙が広がる。その沈黙は、円の終焉を告げる鐘の音のようでもあり、同時に国家がなお生き延びようとする執念の証でもあった。




