第18章 火を恐れず、維持し、そして点ける力
東京壊滅後の臨時キャンパス。大講堂の天井にはまだ鉄骨が剥き出しで、瓦礫を避けて組まれた仮設の机に学生たちが集まっていた。外の風が鉄板を鳴らすたびに微かな唸りが響いたが、学生たちの視線は前方の黒板に集中していた。
真壁教授は古びたチョークを握り、二本の線を描いた。一本には「歩行」、もう一本には「火」。
「今日は――人類が火を恐れず、維持し、さらに“点ける”に至った道筋を考えよう」
ざわめきが走った。火の使用は人類進化の大きな分岐点だと誰もが知っている。しかし、「なぜ私たちだけが火を自在に扱えるのか」と問われれば、明確に説明できる者は少なかった。
1. 前提 ― 二足歩行と手の自由
教授はまず500万年前へと話を遡った。
「二足歩行はアフリカ東部のサバンナで始まった。森が縮小し、平原が広がると、猿人は立ち上がり、視野を確保し、長距離を歩き始めた。そして両手が自由になった。この“自由な手”が、やがて火を扱う前提条件となった」
黒板に「二足歩行 → 手の自由」と記す。
「だが注意してほしい。前提は前提にすぎない。自由な手があっても、火を拾えるとは限らない。多くの動物は炎を見れば恐怖で逃げる。燃え木を持ち運ぶどころか、近づくことすらできない」
2. 火を恐れず“観察”する脳
教授は次に脳模型を掲げた。
「決定的な違いは脳の拡大だ。200万年前、ホモ・エレクトスの脳容量は1000ccに達した。彼らは火を単なる脅威ではなく、“利用可能な現象”として観察できた。火は明るさをもたらし、肉を軟らかくし、捕食者を遠ざける――その価値を見抜いたのだ」
スクリーンにはワンダーワーク洞窟の発掘写真が映る。黒い炭層と焼けた骨片。
「洞窟奥の層から、焼けた骨や木炭が見つかった。自然火災では説明できない配置だ。火を恐れず内部に持ち込み、長期的に維持していた証拠だ」
教授は黒板に二つの箇条書きを残した。
1. 火を観察し、利用価値を理解する認知能力
2. 恐怖を抑制し、群れで維持する社会性
3. 火を“維持する”社会性
「火を維持することは容易ではない。薪が尽きれば消える。夜間も、雨の日も、交代で見張り続けなければならない。当時の人類には着火技術がなかったからだ。次に自然火を得られるのは稲妻か山火事を待つしかない。だから火を守ることは生存そのものだった」
学生の一人が呟く。
「……火を守るために、社会が強まったんですね」
教授は深く頷いた。
「そうだ。火を守るには役割分担が必要だ。誰かが薪を集め、誰かが見張り、子供たちも灰をいじりながら火を学んだ。火は共同体を結束させ、恐怖を共有し、克服する力となった」
4. 着火 ― 火を“点ける”段階へ
教授は次に「着火」と黒板に大きく書き足した。
「火を観察し、維持できるようになっても、決定的な壁が残っていた。“点ける”ことだ。証拠が示すのは、火の持ち込みと維持が約100万年前、着火技術の確立が50万年前以降だということだ」
スクリーンにはイスラエルのゲシュール・ベノト・ヤアコフ遺跡の写真が映る。
「ここでは約78万年前の層から、繰り返しの焚き火跡が出土している。単発ではなく、何十回も。これは自然火ではなく、自力での着火を示唆する」
学生が手を挙げた。
「着火はどうやって?」
教授は石器の写真を指差した。
「火打石と黄鉄鉱を打ち合わせて火花を散らす方法。あるいは木の棒を摩擦して熱を生む方法。これらは高度な認知と忍耐を要する。偶然ではなく、意図的に火を“創り出す”能力が芽生えたのだ」
さらに続ける。
「重要なのは、火を点けるには“抽象的思考”が必要だということ。目に見えない摩擦熱がやがて炎になる――この因果を理解しなければ続けられない。ホモ・エレクトスや後のホモ・サピエンスは、実験と失敗を繰り返し、火を呼び出す術を確立した」
5. 火と社会、未来への示唆
教授は最後に黒板に三段階を書き残した。
- 観察(脳の拡大)
- 維持(社会性)
- 着火(抽象思考)
「火を恐れず、利用価値を見抜き、群れで守り、やがて点ける――これが人類を他の動物から決定的に分けた。二足歩行や手の自由は舞台を整えただけに過ぎない。主因は脳の発達と社会性、そして抽象思考の力だ」
学生たちはしんと静まり返り、瓦礫に囲まれた東京の仮設キャンパスと、百万年前の洞窟の焚き火とを重ねて想像していた。
真壁教授は静かに結んだ。
「火を点けることは、人類が“自然を観察する存在”から“自然を創り変える存在”へ変わった証だ。だから火の物語は、ただの進化史ではなく、今の我々の生存戦略そのものに繋がっている」




