第10章「なぜ人類だけが火を使えたのか」を講義シーン
大学の大講堂。停電で照明は部分的に落ちていたが、非常灯の明かりとプロジェクタの光がかろうじて教壇を照らしていた。電力供給はまだ不安定だった。それでも学生たちは席を埋め、教授の言葉を待っていた。
スライドには、古代の焚き火を囲む人類祖先の復元図が映し出される。
「今日は、なぜ人類だけが火を使えるようになったのか、について話そう」
灰色のスーツを羽織った古人類学の教授・真壁は、板書用のタブレットを操作しながら切り出した。
最前列の学生が手を挙げる。
「先生、チンパンジーやオランウータンも道具は使いますよね。どうして火だけは使えなかったんですか?」
教授は頷いた。
「いい質問だ。まず一つめは因果関係の理解だ。火は危険だ。触れれば熱く、燃料が尽きれば消える。これを“利用可能な現象”と見抜くには、観察から因果を抽出する力が要る。チンパンジーも火を恐れはしないが、維持や利用に踏み出せない。観察がそこまでつながらないんだ」
教授は次のスライドを示した。落雷で燃えるサバンナの草原。
「二つめは環境。アフリカ大地溝帯やサバンナは落雷による自然火災が頻繁に起きた。人類の祖先は火を見慣れていたんだ。たとえば、焼け跡に残る動物の死骸から『火で肉は柔らかくなる』と学んだ可能性がある」
後方の学生が口を挟む。
「でも、火を維持するのは大変ですよね」
「その通りだ」教授は頷いた。
「三つめは未来志向だ。火を絶やさないために、薪を集め、燃料を補給する。これは『今すぐの利益』ではなく『明日の安全』を見据えた行動だ。未来を想像し、行動を組み立てられる能力こそ、人類の飛躍だった」
スライドは「手の進化」を映し出した。
「四つめは身体的特徴。二足歩行で自由になった手と、精密な把握力。火は燃料を選び、組み合わせ、調整する必要がある。単に恐れないだけでなく、扱う手が必要なんだ」
教授の声はさらに強まった。
「そして五つめは社会性。火を絶やさないには、誰かが見張り、誰かが薪を集める必要がある。これは単独行動では難しい。分業できるほど社会性が発達していた人類だからこそ、火を文化として持ち運び、継承できた」
一瞬の沈黙のあと、学生たちの視線が食い入るように教授へ注がれた。
「まとめると――」教授はスライドを閉じた。
「人類は火を単なる自然現象として恐れるのではなく、未来を想定し、共同体で守り、道具として文化化した。この複合条件が揃ったのは、ホモ属の祖先だけだったんだ」
後ろの席から、別の学生がぽつりと呟いた。
「……つまり、火を使えるようになった時点で、人類はもう“ただの動物”じゃなかったんですね」
教授は静かに頷いた。
「そうだ。火は暖を与え、食を変え、夜を切り開き、やがて冶金と文明を生んだ。火を手にした瞬間こそ、人類が未来を生きる存在になった瞬間だ」
大講堂の外では、復興作業の重機の音がかすかに響いていた。廃墟と化した都市の中で、学生たちは自らの遠い祖先が火を手にした場面を想像していた。
「火を恐れず、しかし制御した」――その行為が、今も人類を未来へ押し出しているのだ。




