第8章 「歩き出す影」—講義
臨時キャンパスの講堂は、梁が露出したままだった。非常灯の白い光が斜めに差し、壁に貼られた耐震補修のテープが風にかすかに揺れている。ガラス越しの遠景には、東京湾の鈍い水面と、その上に黒い影のように横たわる〈大和〉の艦影。だが今、壇上のスクリーンに映し出されているのは、まったく別の大地――アフリカ大地溝帯だった。
「五百万年前から四百万年前にかけて、東アフリカは大きく乾いた。森は痩せ、草地が広がった。樹上に適応した四足の祖先にとって、それは“地上へ降りる”圧力になった」
古人類学者・中村教授の声は静かだが、よく通った。スライドが切り替わり、アウストラロピテクス・アファレンシスの骨盤と大腿骨の復元図が現れる。広い腸骨、内側へ傾く大腿骨。教科書に刻まれた定番のシルエットだ。
「骨盤の形は体幹をまっすぐ支えるために変わり、大腿骨は膝を身体の中心へ寄せるように角度を持つ。これで一歩ごとに重心が真下に落ち、左右の揺れが抑えられる。二足歩行の効率を上げる、古典的な解剖学的根拠です」
次のスライドには、ラエトリの火山灰に残った足跡。約三百七十万年前の“歩み”が、砂の上に固定化されている。
「ここまでは、皆さんが知っている話。環境変動、解剖学、そして足跡が、二足歩行の成立を語る。しかし——」
教授は指先で画面を払う。拡大された顕微鏡像が立ち上がる。脛骨の薄片標本、その外層部。層板状の骨組織の上に、微細な六角形の粒子が、数十ミクロンの間隔を保ちながら帯状に並んでいる。
「最近、アファール低地で見つかった四百五十万年前前後の脛骨です。二足歩行に適合した形態であることは疑いない。問題は、骨の“表層に乗る”この六角結晶です」
前列でノートを取っていた大学院生が手を挙げた。「地下水由来の沈着では?」
「最初は私もそう考えました。しかし、通常の珪酸沈着は不均一です。ところがこれは、骨の繊維配向――つまりコラーゲンの層板に“沿って”整列し、しかも一定の間隔で繰り返す。偏光顕微鏡、ラマン分光、そして結晶方位の解析(EBSD)をかけると、六角格子の配向が骨の力学方向と有意に一致する」
教授は別のスライドを示す。骨組織の模式図だ。ハバース管を中心に同心円状に並ぶ層板、オステオン、そしてリモデリングのフロント。
「ここで押さえておきたいのは、骨は“履歴媒体”だという事実です。骨はただの棒ではない。力がかかると微小な損傷が生じ、それを修復するために骨芽細胞と破骨細胞が動き、古い骨を削って新しい層板を積み直す。これがリモデリングです。負荷の方向や頻度が変われば、コラーゲン繊維の配向も、層板の厚みも、再配列される。つまり、繰り返しの力学的“リズム”が、顕微鏡スケールの模様として残る」
「歩行のリズム、ですか?」と別の学生。
「そう、まずは最も保守的な説明から始めましょう。二足歩行は四肢の使い方を根本から変える。上肢は運搬や操作に、下肢は全荷重支持に特化する。下肢の骨には、歩幅・歩調に応じた周期的な負荷が続く。リモデリングはそれに追従し、層板に周期性を与える。骨に刻まれた“リズム”とは、この生体力学の履歴だ、というわけです」
教授は一度区切り、教室を見渡した。空気がわずかに緩む。ここまでは誰も反対しない、堅実な道筋だ。だが、スライドはさらにもう一枚進む。青黒い海の闇。ライトに照らし出された人骨の断片。出所は、相模トラフ深海。
「次に、この標本を見てください。東京壊滅後の調査の過程で、相模トラフの海底から回収された未知の人骨。年代は環境が複雑で特定できていない。しかし骨表面には、アファールの脛骨と同じ六角結晶の帯が、やはり“繰り返しの間隔”を保って出てくる」
ざわめきが走る。学生の視線がスクリーンに吸い寄せられる。誰かが小さく呟いた。「同じ……?」
「そこで、私たちは三つの仮説を立てています。**第一に、純粋な地球化学仮説。**地下水や海水中の珪酸が、温度・圧力・pHの変動に応じて沈着を繰り返した、というもの。ただしこの場合、骨の繊維配向と結晶格子の配向が一致する説明が難しい。流体の出入りは骨のマイクロ配向には従わないからです。
**第二に、生体起源・自己組織化仮説。**骨表層のバイオフィルムや細菌外多糖(EPS)が、コラーゲンの配向を足場にしてシリカの核形成を促し、結果として六角格子が“テンプレートに沿って”整列した。これは、骨という“生体の秩序”が結晶の秩序を呼び込む、というメカニズムで、実験的再現も理論的に不可能ではない。
第三に、外部入力仮説。ここから先は、諸君の好奇心に委ねたい。だが事実だけ言うなら、相模トラフ標本の六角結晶の帯には、“往復”する位相の反転が確認されている。つまり、帯が一定間隔で成長と停止を繰り返すだけでなく、時折、進行方向が反転したような配置を示す。これは自然の季節変動や潮汐では説明しづらい。外から周期信号のようなものが与えられ、結晶成長が前進—停止—逆行—再前進と“記録”されたのではないか、という仮説です」
教室の空気が一段と重くなる。誰かが乾いた咳をした。教授は声のトーンを落とし、逃げ道を作る。
「誤解のないように。私は“宇宙人が骨に何かを書き込んだ”と言いたいわけではない。外部入力とは、電磁・機械・化学の周期場のことだ。地震微動、低周波の圧力波、あるいは人工の振動源――いずれにせよ、周期場が結晶成長を制御し得ること自体は、材料科学では珍しくない」
「では、“歩行のリズム”という比喩は――」と前列の院生。
「二層に分けましょう。第一層は生体力学的リズム。歩行・走行・静止といった行動の繰り返しが、骨リモデリングの“拍”を作る。これは保守的で、誰もが受け入れやすい。第二層は環境場のリズム。もし相模トラフ骨のように、骨配向と無関係な位相反転が存在するなら、生体の外から“拍子”が与えられた可能性を検討する価値がある。二足歩行の成立そのものは環境適応(森の退潮・視野の確保・手の解放)で充分に説明できる。ただし、その成立過程を“加速”したり“同期”させたりした要因があったかもしれない——という、慎重な言い方なら許されるはずです」
教授はスクリーンを消し、黒板に三行の箇条書きを書いた。
1) 骨は履歴媒体(Wolffの法則/リモデリングによる力学履歴の定着)
2) 六角結晶帯(配向一致・周期性・位相反転)
3) 仮説の層(生体力学/自己組織化/外部入力)
「検証計画も併記しておきます。実験室でコラーゲン基材に希薄な珪酸溶液を流し、周期的な微小荷重や低周波の圧力波を与える。成長した結晶の配向と間隔、位相を測り、アファール標本と相模トラフ標本のパターンと照合する。もし荷重のみで配向・周期性が再現されれば第一層で説明できる。もし荷重+外部周期場が要らなければ第二層は退けられる。逆に外部周期場がないと位相反転が出ないなら、第三の仮説に重みが増す」
後方で聴いていた通信士・野間が、そっと鉛筆を置いた。彼の脳裏には、東京湾の底から引き揚げられた破片の映像、相模トラフの暗い水圧の気配がよみがえる。皆が忘れたがっているあの夜の連鎖と、今日の講義が一本の線で結ばれる。
中村教授は最後に、最初のスライド——草原を歩く祖先の想像図——をもう一度映した。
「人類が歩き出したとき、骨にはすでに“リズム”が刻まれていた。これは詩ではない。骨という材料に残る、荷重と修復の周期のことだ。まずはその意味で理解してほしい。だが、そのリズムが生体内のメトロノームだけで打たれていたのか、あるいは外の世界の拍子にどこかで同調していたのか——その判断は、これからの検証に委ねたい。二足歩行の“必然”という物語と、外部からの“入力”という可能性は、対立ではない。層を違えて、同じ石板に二つの文字が刻まれているのかもしれないからだ」
講堂は静まり返った。非常灯がわずかに瞬き、遠くで発電機が唸る。誰も拍手はしなかった。かわりに、ノートの紙が一斉にめくれる音だけが、静かに積み重なった。
——歩き出す影。その輪郭線は、砂の上だけでなく、私たち自身の骨の中にも残っている。




