雪風出撃――首里への密航路
昭和二十年四月十一日、未明。東シナ海、伊平屋島西方沖合三十海里。
海面は重油の粘りつくような黒さをたたえ、低く垂れ込めた分厚い雲が夜空の星々を完全に覆い隠していた。海上自衛隊第4護衛隊群の旗艦であるヘリコプター搭載護衛艦「いずも」の司令部作戦室(FIC)には、張り詰めた沈黙の中に、コンピューターの冷却ファンが奏でる乾いた打鍵音と、冷え切った空調の風切り音だけが規則正しく流れていた。
近代戦における電磁波統制(EMCON)とシギント(電波情報収集)の観点から、敵味方の電磁波放射は生存を左右する生死の境界線である。レーダー波を発射すれば逆探知され、無線を開けば方向探知によって位置が暴露される。
「……電波情報収集装置(ESM)、新たなシグナルを検知」
ヘッドセットを片耳に強く押し当てた電子戦士官・三条律二尉が、疲労の滲む硬い声でディスプレイの数値を更新した。
「奄美大島南方から九州南岸にかけて、米軍の哨戒機と思われる長波・中波レーダーの放射を確認。波形パターンから、米陸軍航空軍のB-24改造電子偵察機、ならびに海軍のPB4Y-2プライバティアと推測されます。我々が前日までに展開したジャミングの周波数帯とサイドローブ特性を特定すべく、広域のシギント哨戒線を敷いています」
「敵の学習速度が速すぎるな」
作戦卓に両手を突いた艦隊司令・片倉一佐が低く呻いた。
那覇沖での上陸船団撃破からわずか数十時間。米太平洋艦隊は、海自が放った電磁妨害(ECM)の痕跡や電波指紋を迅速に定量分析し、早くも受信機のフィルタリング拡張や周波数ホッピングなどの対抗策を模索し始めていた。これが物量と科学技術の底力を誇る米軍の恐るべき適応速度であった。
「さらに深刻な情報が入っています」三条がコンソールのモニターを切り替える。「九州方面の防空監視哨から旧海軍呉鎮守府、ならびに大本営へ送られた短波通信を傍受しました。昨夜半より、マリアナ基地群から発進したB-29の大編隊が、史実より二週間以上も早く九州各地の軍需工場および港湾施設への夜間焼夷弾爆撃を開始したとのことです。熊本、鹿児島、そして八幡の製鉄所が炎上中……」
「前倒し空襲、か……」
戦術幕僚の神谷一佐が苦渋に顔を歪めた。
ミリタリーオタクや戦略家であれば容易に推察できる通り、沖縄沖での米軍の足踏みは、太平洋戦域全体の航空戦略スケジュールを根本から書き換えた。米軍は沖縄の背後にある補給線――すなわち日本本土の継戦能力の根を断つため、通常なら沖縄戦の推移を見極めてから本格化させるはずだった戦略爆撃のスケジュールを一気に前倒ししたのである。
「我々が沖縄で敵を押し返した分だけ、本土の都市が前倒しで火の海に呑まれている……」
神谷の言葉は、FICに詰める全自衛官の胸に鉛のように重く沈んだ。
彼らは戦艦大和を救い、本来なら歴史の波間に沈むはずだった将兵数千人の命を繋ぎ止めた。だが、その「過去の改変」が引き起こすバタフライ効果は、より巨大な質量となって本土の無辜の市民へと跳ね返っていた。未来を知るがゆえに背負わされる、歴史の復元力という名の十字架であった。
その時、FICの気密扉が開き、薄汚れた作業服を着た整備幹部が足早に入室してきた。
「司令、航空機および機関燃料の最新集計が出ました」
手渡された帳票に、片倉は鋭い視線を走らせる。
「……F-35Bの稼働機は?」
「二機が限界です」整備幹部が頭を振った。「坊ノ岬沖での高G機動と低空侵入により、リフトファン駆動軸の軸受け部に微細なクラックが発生しています。三次元非破壊検査装置の部品がなく、これ以上の無理な運用は空中分解のリスクを伴います。何より、航空燃料(JP-5)の残量が二回のスクランブル分しか残っていません。無人機MQ-9Bも同様です。空からの偵察の傘は、もう維持できません」
さらに、水上艦艇の燃料事情も破綻寸前だった。
ガスタービン推進の「まや」や「むらさめ」が要求するのは、硫黄分や不純物を極限まで取り除いた現代規格の高品質軽油(JP-5や専用ディーゼル油)である。旧海軍が沖縄や奄美に備蓄している粗悪な重油をそのまま高圧縮の燃料噴射ポンプに流し込めば、ノズルが瞬時に目詰まりを起こし、ディーゼル機関は焼き付き、ガスタービンはタービンブレードの破損という致命的故障を引き起こす。簡易な遠心分離と蒸留を試みる計画はあるものの、艦隊が自由に機動できる時間は、残り四十八時間を切っていた。
「洋上に浮かぶ『無敵の現代艦隊』は、ここで終わりだ」
片倉は静かに帳票を机に置いた。
「敵はマリアナからの爆撃を激化させ、慶良間諸島に集結した戦艦部隊による首里への艦砲射撃を再開する構えだ。迎撃ミサイルを撃ち尽くし、燃料を失った我々がこのまま洋上を漂っていれば、待っているのは潜水艦による雷撃か、電波を逆探知されての絨毯爆撃による全艦沈没だけだ」
「司令、では……かねてより検討していた『座礁要塞化』に踏み切るおつもりですか」
神谷の問いに、片倉は力強く頷いた。
「そうだ。航行不能となった艦艇をあらかじめ自沈・座礁させ、砲台および固定レーダーサイトとして陸上戦力に組み込む。だが、それを行うには、首里城地下に籠もる第32軍司令部――牛島満中将、ならびに八原博通高級参謀との間に、寸分の狂いもない連携ラインを構築せねばならん」
暗号通信だけでは不十分だった。
陸軍は海自の提供する情報を「天啓」と受け止めつつも、依然として自衛隊という組織の実態を測りかねており、陸海軍の伝統的な不信感も根強い。何より、これより始まる泥沼の地上戦において、民間人の保護や、米軍の圧倒的な火炎放射・装甲部隊に対する陣地配置を正確に指導するには、直接現場に入り込む「人間の眼」が不可欠だった。
「情報幕僚・山名三尉」
片倉の声が、作戦室の端に控えていた山名に向けられた。
「はっ」
「貴官に特別任務を命ずる。大和の直衛を務めていた第一水雷戦隊の残存艦――駆逐艦『雪風』に座乗し、夜陰に乗じて沖縄本島へ突入せよ。第32軍司令部へ出頭し、我々の意図を牛島司令官に直接直訴するのだ」
山名は直立不動のまま、硬い面持ちで敬礼を返した。
「了解いたしました。……持参すべき情報は?」
「米軍の次なる陸上攻勢ルート、シュガーローフおよび嘉数高地周辺のキルゾーン設定図。そして――『いずも』『むらさめ』、ならびに第二艦隊残存巡洋艦を海岸線へ座礁させ、陸の要塞として砲火を統合する『座礁艦隊作戦』の全容だ」
午前四時。
「いずも」の右舷に、煙突から微かに灰色の排煙を吐き出す一隻の駆逐艦が横付けされた。
幾多の死線を潜り抜け、いまだ無傷の奇跡を誇る名艦「雪風」。
山名三尉は、携帯端末と耐衝撃ケースに収めた数台のアナログ無線中継機を抱え、荒れる波を飛び越えてその甲板へと降り立った。
甲板で迎えた雪風の水兵たちは、ヘルメットに身を包んだ未来の士官を、畏敬と緊張の眼差しで見つめていた。
「面舵一杯、前進微速。これより沖縄本島、牧港沖へ向かう」
艦長の低く引き締まった号令とともに、雪風は静かに護衛艦の巨躯を離れ、闇深い沖縄の海へと艦首を向けた。
水平線の彼方では、首里の空を焦がす曳光弾の赤い光条が、途切れることなく瞬いていた。
未来の兵器がもたらした戦術の光と、歴史の激変が引き起こした破滅の炎。その二つが交錯する最前線へ向け、一隻の旧式駆逐艦が漆黒の波間を滑るように進んでいった。




