第96章 「決断の先送り」
管制卓の上、通信士・野間は端末に向かって指を止めていた。画面には送信待ちの報告文が点滅している。
――「火星氷床にて多細胞組織を確認」
その一文で終わらせるべきか。あるいは続けて書くべきか。彼の胸の内では、言葉が重くせめぎ合っていた。
「“生物発見”とだけ書けば、地球は熱狂するだろう」野間は小さく呟いた。声は誰にも届かないほど低かった。「だが“代謝再起動”と加えればどうなる? それは興奮ではなく恐怖を呼ぶ。そして“外壁付着反応”まで報告すれば――パニックだ」
周囲の空気は張り詰めていた。藤堂科学主任は報告の完全性を望んでいた。星野医務官は感染リスクを理由に最小限の報告を主張していた。葛城副艦長は沈黙を守りながらも、視線は常に「安全」の一点に据えられている。
やがて通信が遅延を経て、軌道上の片倉大佐の声が届いた。
「協議の結論として、速報は“火星氷床にて多細胞組織を確認”のみに限定する」
その一言に、ラボの空気が揺れた。藤堂は悔しげに拳を握り、星野は安堵の吐息を漏らす。葛城は表情を変えず、野間だけが硬直したまま画面を見つめていた。
片倉の声が続いた。
「外壁の半有機体については、公式には触れない。記録は“継続監視中”として秘匿する。全データは暗号化・封印し、船内サーバに隔離保存せよ。外部回線に流すことは禁ずる」
その指示は、明確な境界線を引いた。科学者の好奇心と軍の懸念。そのどちらにも偏らない、しかしどちらにも不満を残す決断。
野間は端末に視線を落とした。指が震える。たった一行を送信するだけで、人類の歴史が変わるのだ。彼は心の中で繰り返した――「真実を削ぎ落とした報告に意味はあるのか」。だが同時に、「恐怖を煽る報告に意味はあるのか」とも。
葛城の声が静かに響いた。
「命令は出た。従え」
その冷徹さは、議論を終わらせるものだった。野間は息を詰め、送信ボタンを押した。データは暗号化され、光の束となって宇宙を渡っていく。数分後、地球は“火星氷床にて多細胞組織を確認”という一文を受け取るだろう。
ラボに再び沈黙が戻った。だがそれは安堵ではなく、重苦しい空気だった。削ぎ落とされた真実の重さが、全員の胸にのしかかっていた。
そのとき、外壁監視カメラが自動的に切り替わった。映像に映るのは、ソーラーパネルの接合部に張り付いた半透明のゲル状の物質。周期的に収縮と膨張を繰り返し、淡い光沢を放っていた。
オペレーターが思わず声を漏らす。
「……呼吸している?」
誰も答えなかった。映像の中でゲルは、まるで生き物のようにリズムを刻んでいた。その周期は偶然なのか――いや、違う。
モニタの片隅に表示される乗員の生体データ。心拍モニタの波形が、ゲルの収縮とほぼ一致していたのだ。
野間の喉が鳴った。藤堂は言葉を失い、星野は青ざめた顔で画面を見つめる。葛城でさえ一瞬だけ目を細めた。
「……呼吸しているのは船か、人間か」
誰も口に出さなかったが、その問いが会議室を支配した。沈黙は、通信遅延よりも重く、永遠にも思えるほど長かった。




