第95章 「医療と倫理」
冷却ケースの中、氷コアはわずかに曇った層を抱えていた。温度を数度だけ上げたその瞬間、顕微鏡下で細胞らしき区画が収縮と膨張を繰り返すのを、誰もが息を殺して見守った。結晶に閉じ込められていたはずの組織が、眠りから目覚めたかのように動いたのだ。
星野医務官の声が鋭く響く。
「代謝の再起動だ。これは“生物学的ハザード”に他ならない」
彼は防護服越しに額の汗を拭った。微弱ながら、ATPに似た分子の反応がセンサーに検出されている。酸素をわずかに取り込み、二酸化炭素を排出している兆候まである。これは死んだ化石ではなく、生命だ。
「人類はいつも感染リスクを過小評価してきた。過去の歴史を思い出してください。天然痘、ペスト、未知のウイルス――地球の病原体ですら制御に苦労してきた。我々は今、地球外の細胞構造を相手にしているんだ。解放すれば、何が起こるか予測すらできない」
彼の声は激情ではなく、冷徹な警告だった。
数分後、軌道上のYMATO医療班から返信が届いた。通信画面に映る白衣の医師たちは、一様に険しい表情をしていた。
「星野医務官の判断を支持する。検疫ルールを最優先とするべきだ」
主任医官が低い声で続ける。
「解析はリモート顕微鏡と自動プローブのみで実施しなさい。人員が直接触れることは禁止。試料は二重三重の封鎖下に置くこと。防護レベルは地球の生物兵器規制を上回る体制を取れ」
地表のラボに重苦しい空気が流れた。科学主任・藤堂は唇を噛み、葛城副艦長は無言で腕を組んだ。星野だけが、迷いのない表情で頷いた。
「未知の細胞は未知の脅威です。もし感染経路があるなら、空気でも、皮膚でも、想像もしない形で人類に影響を与えるかもしれない。だから、我々の任務は“命を守ること”。科学の好奇心よりも優先すべきです」
その言葉に、藤堂が抑えきれず声を上げる。
「だが、この発見は歴史を変える! 南極の試料と酷似している。もし繋がりを証明できれば、人類の進化史そのものが書き換わるんだ!」
星野は静かに首を振った。
「進化史を知る前に、我々自身が絶滅しては意味がない」
管制室の沈黙を破るように、軌道上の医療班が重ねた。
「科学的価値は否定しない。だが解析は“安全の檻”の中で進めろ。全てのデータを遠隔で積み上げろ。人間が直接触れることは絶対に禁ずる」
通信が途切れると、ラボの中には再び低い機械音だけが残った。冷却ケースの奥で、氷に閉じ込められた多細胞の組織は、微かなリズムを刻み続けていた。
科学か、安全か。未来を知ることか、生き延びることか。
その狭間で、隊員たちの胸には重い天秤がのしかかっていた




