第93章 「科学の主張」
数分の通信遅延を挟みながら、火星地表の掘削拠点と軌道上のYMATO管制室の間で、映像と声が行き来していた。画面には藤堂科学主任が映し出されている。ラボの背後には、冷却ケースに封じられた氷コアが整然と並んでいた。その一本一本の中に、常識を越えた“何か”が潜んでいる。
藤堂は呼吸を整え、しかし声はわずかに震えていた。
「これは偶然ではありません。自然堆積の産物ではなく、明らかに保存・配列された“進化のアーカイブ”です」
彼の指がコア断面の映像を指し示す。六角格子を描く結晶の並び。その隙間に絡みつくような多細胞組織。顕微鏡下で観察された網目状の構造は、まるで情報を刻み込むかのように規則的だった。
「見てください、この周期性。南極氷床で見つかった試料と酷似しています。しかし、こちらはより鮮明で、保存状態も良好だ。単なる偶然では片づけられない。これは――」藤堂は言葉を探し、口を結んだ後、強く言い切った。
「進化史そのものを保存するための“装置”と考えるべきです」
管制室の空気が一瞬凍りついた。彼の言葉は、科学者の理性を超えて響いていた。
軌道上の科学班主任が応答する。白衣姿の女性で、静かな口調を崩さなかった。
「藤堂主任、あなたの熱意は理解します。しかし、その結論をこの段階で口にするのは早すぎます。私たちの知識体系では、まだ“未知の結晶成長”と“異常な有機残滓”の域を出ません」
別の研究員が画面に重ねて表示される分光分析データを指差す。
「コア内部には炭素同位体比の異常があります。代謝起源の可能性はありますが、断定は危険です。加温や刺激によって不意に活動が始まれば、我々が制御できる保証はありません」
藤堂は首を振る。
「だからこそ解析を進めるべきです。これが真に保存装置なら、我々は進化史の根源に迫れる。生命がどのように枝分かれし、どのように選別されてきたか――その“設計図”がここに眠っているのです」
「主任」軌道側の科学班主任が静かに遮った。
「あなたは科学者として正しい。だが我々は研究所にいるのではない。ここは火星であり、最前線だ。未知の生物を不用意に覚醒させることは、科学的探求の名を借りた自殺行為になり得る」
管制室の別の科学者が補足する。
「加温実験は一切禁止とします。観察は低温下でのみ継続。顕微鏡や分光器、ナノスキャナによる非接触的な分析を徹底してください」
藤堂は拳を握りしめ、深呼吸をした。だが瞳の奥の輝きは消えていなかった。
「わかっています。ですが、このデータを地球に伝えるべきではないのですか? 人類史に匹敵する発見です。世界が知るべきだ」
再び沈黙が走る。数分の遅延は、意見の衝突をさらに鋭くした。
やがて軌道側の科学班主任が言った。
「速報は危険です。曖昧なまま報告すれば、地球は熱狂と恐慌の渦に飲み込まれるでしょう。政治的にも、宗教的にも、そして軍事的にも。我々はまだデータを積み上げていない。誤解を招く発表は、科学を殺すことになる」
藤堂は悔しげに唇を噛んだ。
「では、いつ伝えるのですか。全世界が、この瞬間を待っている」
「今ではない」軌道上からの声は揺るがなかった。「あなたの使命は、記録を積み重ねることです。確実な証拠を得てから発表すべきです。たとえ数ヶ月先になろうとも」
映像の向こうで、藤堂は目を閉じ、深く頷いた。
「……了解しました。解析を続けます」
通信が途切れ、管制室は静まり返った。科学者たちの心は一様ではなかった。進化のアーカイブを目前にして冷静でいられる者は少ない。しかし、それを守るためには冷静さこそが必要だった。
外壁のモニタに映る半透明のゲルは、依然としてゆっくりと収縮していた。まるで議論を見守るかのように




