第87章 第二の掘削点
赤い砂漠のただ中で、掘削リグの脚が氷床に沈み込んでいた。高さ四メートルほどの鋼製フレームに取り付けられたドリルユニットは、夜明けから休むことなく低い唸り声を上げている。氷点下数十度の薄い大気の中、外に立てる人間はいない。操縦はすべて、居住モジュール内の遠隔コンソールとロボットアーム経由で行われていた。
最初の掘削で得られたコアから未知の生物片を検出して以来、探査隊の緊張は途切れることがなかった。だが同時に、さらなる検証が必要だという一致した認識も生まれていた。副艦長の葛城は安全第一を繰り返していたが、科学主任の藤堂は「もう一度、別の地点で確かめなければ科学にはならない」と主張を譲らなかった。
掘削は慎重に進められた。ビットには特殊合金が用いられ、摩擦熱が氷を溶かさぬよう、窒素ガスが絶えず循環している。削りかすは真空ポンプで回収され、サンプルカプセルに収納されていった。やがて、長さ一メートル、直径五センチほどの氷コアが掘削管からせり上がり、密閉ケースに収められる。
「第二コア、回収完了。内部に縞模様、観測される」
オペレーターの報告に、艦内の視線が一斉にスクリーンへ集まった。
透明度の高い氷の中ほどに、暗い筋のような影が横たわっていた。規則的に湾曲した帯が並び、まるで縞模様を持つ柔らかいリボンの断片のようだった。顕微鏡観察の準備が整い、モジュール内の隔離ラボへと搬送される。
藤堂が顕微鏡の焦点を合わせた瞬間、声を詰まらせた。
「……これは……」
モニタに映し出されたのは、長さ数センチに及ぶ扁平な構造体だった。全体は楕円形に近く、表面には細かな分節が規則正しく並んでいる。各セグメントは左右対称に広がり、まるで体全体が緩やかに呼吸しているかのような印象を与えた。
「ディッキンソニア……」
藤堂が名を呟く。
南オーストラリアやロシアで発見されてきた、先カンブリア時代の代表的なエディアカラ生物。その化石は砂岩の印象としてしか残らず、三次元的な構造は長らく謎とされてきた。だが今、火星の氷コアの中に封じ込められたこの存在は、柔らかい組織の輪郭すら保っていた。
「細胞壁の痕跡も残っている……これは化石じゃない。組織がそのまま残っているんだ」
藤堂の声が震えた。
医務官の星野はすぐに警告を発した。
「加温するな。封鎖を維持しろ。もし代謝が再起動すれば、未知の病原体になる可能性がある」
顕微鏡映像を前に、ラボ内は静まり返った。誰もがその異様な姿に引き込まれつつも、同時に恐怖を覚えていた。通信士の野間は小声で言った。
「地球で絶滅したはずの生き物が、どうして火星に……」
葛城は冷徹に遮った。
「推測は後だ。まずはデータを蓄積しろ。映像、分光、蛍光応答、全ての測定を完了させる」
やがて、スキャナーが微細な構造を映し出した。細胞らしき区画が連なり、内部には有機分子に反応するシグナルが残っていた。炭素主体の骨格に加え、シリカを含む複合組成が観測される。地球のどの既知生物とも一致しないが、基本パターンは確かに「生命の設計図」を踏襲している。
藤堂はスクリーンを凝視したまま呟いた。
「偶然では説明できない。地球と火星で、同じ種が存在したとしか……」
星野が即座に否定する。
「断定は早すぎる。これは未知の物質反応かもしれない。少なくとも、人間が触れることは許されない」
だが全員が心の底で理解していた。この瞬間、人類は地球以外で初めて「多細胞生物」を発見したのだ。そしてそれは単なる保存ではなく、生きた状態に近いまま眠っていた。
野間は端末に震える手で打ち込んだ。
――「第二掘削点より、ディッキンソニア類似構造体を発見。状態、未化石化」
送信ボタンに触れる前、彼は一瞬ためらった。この言葉が地球に届けば、世界は変わる。熱狂か、恐怖か、あるいはその両方か。
氷の中に横たわる古代の生命は、数億年の眠りから目覚めることなく、ただそこに存在していた。だがその存在だけで、人類の歴史を揺るがすには十分だった




