第82章 目的地到達と調査開始
正午を過ぎた頃。
〈MIZUHO〉は緩やかな斜面を下り、北東の窪地へと進入していた。目標座標まで残り0.8キロ。フロントカメラの映像は、赤褐色の砂に点在する白い斑点を鮮明に映し出していた。太陽光は薄く濁った空を通って届くため、陰影は淡い。しかし窪地の底に広がる氷の輝きは、異質な冷たさを放っていた。
「残距離八百。ナビゲーション誤差二%以内」藤堂が報告する。
「速度を四に落とす」葛城は操縦桿を軽く引き、前輪に制動をかけた。サスペンションが柔らかく沈み、車体全体がゆっくりと傾斜に合わせて動く。
外は静かだった。風速は毎秒二メートル未満。粉塵はほとんど舞い上がらず、ホイールの跡がそのまま赤い地表に刻まれていく。車体の影が細く伸び、その端に霜が光を返す。藤堂はスキャナーの画面を確認し、周囲の放射線量が背景値に収まっていることを確認した。数値は「緑(=正常域)」だが、安心という言葉には遠い。
「地表レーダ、深度スキャン開始」藤堂が操作する。パルスが発射され、窪地の地下へと潜っていく。返ってきた波形は、明瞭な二つの層を示していた。深度2.8メートルに氷床、さらにその下に強い反射面。自然の地質境界とは思えない直線的な立ち上がり。
「人工的な平面か、あるいは空洞。反射率は金属に近い……」藤堂の声が低くなる。
葛城は短く答えた。「全周を一度回る。接近はその後だ」
〈MIZUHO〉は窪地の縁をなぞるように進んだ。カメラが周囲360度を撮影し、地形モデルがリアルタイムで構築される。崩落の危険がある斜面、風下にできた砂丘の吹きだまり。すべての情報を地図上に重ね合わせ、帰路のルートも同時に更新された。
「磁場センサー、異常パターンを検知。変動幅0.3ナノテスラ。背景に対して有意だ」藤堂が告げる。
「自然磁鉄鉱にしては整いすぎてる」葛城は眉をひそめた。
窪地の中心部に近づくと、地表の砂に混じって黒い鉱物片が散らばっていた。破片は角ばっており、自然の風食だけでは説明できない形をしている。藤堂はロボティックアームを伸ばし、サンプルキャニスターに数片を回収した。
「硫酸塩か、酸化鉄か……それとも未知の複合鉱物。成分分析は帰還後だ」
午後二時。窪地の中央付近に到達。〈MIZUHO〉は速度を落とし、安定した地盤を選んで停止した。
「座標一致。到達確認」葛城が宣言する。
すぐに周辺調査の手順に入った。
1. 放射線測定:ポータブル線量計を地表に設置し、バックグラウンド値を記録。
2. 地磁気測定:三軸磁力計で周囲の磁場変動を観測。一定の周期で強弱を繰り返していた。
3. 地表試料採取:コアサンプラーで10センチ深の砂を回収。表層の氷片も一部採取。
「数値はすべて安全域。ただ……周期がまた出ている。七分十一秒」藤堂が小声で言う。
葛城は短く応じる。「記録だけ残せ。結論は急ぐな」
夕刻が迫る。太陽は傾き、窪地の内側に長い影が伸びていた。赤い砂と白い氷の境界線が、夜の訪れとともに濃くなっていく。〈MIZUHO〉は岩陰を選び、宿営モードへ移行した。外部センサーを三本展開し、振動・磁場・温度の連続観測を開始。
藤堂は最後に窓越しに窪地の中心を見た。氷の斑点が夕日を反射し、一瞬だけ緑がかった光を放った。
「自然にしては……出来すぎている」
葛城は答えなかった。ただ視線をその光から逸らさず、短く言った。
「明日、掘る」
火星の夜が迫っていた。
赤い静寂の中で、彼らは初めて未知の扉の前に立ったのだった




