第80章 宿営 ― 火星の夜
夕刻。
〈MIZUHO〉は宿営予定地点の緩やかな盆地に到着した。周囲は風食で削られた低い岩丘に囲まれ、遮蔽効果がある。ナビ画面には標高差と風速のデータが重ねられ、ここが候補地として選ばれた理由が数字で裏付けられていた。残り距離は十一キロ。予定どおり、初日はここで泊まり、翌朝に目的座標へ向かう。
「日没まで二十八分。ここでキャンプに移行する」葛城が決断を下す。
「了解。車体を固定する」藤堂が操縦系を切り替え、四輪のモーターをロック。サスペンションを最低地上高に調整し、転覆リスクを減らす。
ローバーは停車モードに入った。外気温マイナス三十度、粉塵指数 τ は〇・五八。キャビン内の環境制御は自動で作動を強め、外壁の断熱シールドを展開する。ヒートポンプが駆動し、放熱ループからの余熱を室内に回す。湿度は四〇パーセントに調整された。
「宿営プロトコル開始。手順は NASA-MAR-2-15 に準ずる」葛城が読み上げ、二人で復唱した。
まずは電力配分。原子力電池からの出力を六割に絞り、余剰はバッテリーに充電。夜間は消費が少ないので、これで八時間稼働が可能だ。次に外部アンテナを自動追尾モードに切り替え、基地との通信を維持する。
「バイタルチェック前」佐伯医官の声が着陸船から落ちてきた。
「心拍九十、八十六。血中酸素九七パーセント、九八パーセント。問題なし」葛城が応じる。
「幻視や耳鳴りは?」
「無し」二人は同時に答える。
次に睡眠環境の準備。キャビン後部の収納から、断熱ブラインドを取り出し、窓を覆った。火星の夜は容赦なく冷え込み、外気はマイナス七〇度に落ち込む。その輻射冷却を遮断するのがブラインドの役割だ。
「ベッド展開」藤堂が操作すると、キャビン壁面から折りたたみ式の簡易寝台が引き出された。幅六十センチ、長さ一八〇センチ。硬質フォームの上に薄い断熱マットが敷かれている。寝袋型の睡眠ユニットを広げ、内部の空気循環チューブを接続する。これにより呼気中の二酸化炭素が吸着フィルタへ送られ、酸素濃度が一定に保たれる。
夕食は簡素だった。加熱パックを小型ウォーマーで三十分温め、チューブ状のスープと乾燥パスタを摂る。飲料水は再生水に電解質を加えたもの。味気はないが、栄養と水分は十分に計算されていた。
「基地、こちらローバー。夕食終了。睡眠準備に入る」葛城が報告する。
「了解。ログに記録」野間の声が返った。彼の声にはわずかな羨望が混じっていた。
就寝前チェックは入念だった。まず、キャビン内圧を一二・三ヘクトパスカルに維持しているか確認。次に酸素濃度二一パーセント、二酸化炭素〇・四パーセント以下。湿度四〇パーセント、温度一六度。すべて「緑(=正常域)」。だが二人とも、数字に完全な安心は抱けなかった。
「睡眠スケジュールは八時間。二時間ごとに交代で軽い覚醒チェックを行う」葛城が割り振る。
「俺が前半をやる。二時刻目で起こす」藤堂が応じた。
寝袋に体を滑り込ませると、全身がじわりと温かさに包まれる。循環チューブから微かな風が流れ、呼吸が均一に管理される。だが眠気は容易に訪れなかった。船体を伝わる低い唸り、外壁で砂が擦れる音、そして――脳裏にこびりつく七・二分周期のリズム。
藤堂が不意に口を開いた。「……なあ葛城。本当にあれは偶然のノイズなんだろうか」
「答えは明日出る。考えるのは歩き出してからだ」
沈黙が落ちた。
葛城はバイザーを外し、瞼を閉じる。数分ごとにシステムが静かなビープ音を鳴らし、バイタルが記録されていることを知らせる。眠りは浅い。それでも休まなければならない。体力が尽きれば、生き残れないのだ。
やがて藤堂の寝息が微かに聞こえた。葛城は半分だけ眠り、半分は覚醒していた。火星の夜は静かだ。だがその静けさの底で、彼には確かに“外からの呼吸音”が聞こえていた




