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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン9

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第79章 赤い平原 ― 初日の行軍


 午前の停車を終え、〈MIZUHO〉は再び赤い平原を進み始めた。エンジン音といっても、真空に近い大気のせいで耳に届くのは低い唸りがかすかにフレームを通じて響く程度だ。実際には駆動力の大半は電動モーターによる。四輪独立のハブモーターが、バッテリーと小型原子力電池(MMRTG 相当)から供給される電力を受けて静かに回転していた。モーターは音を立てないが、車体を伝わる微細な振動とトルクの立ち上がりが、確かに駆動していることを知らせていた。


 「推進系、出力比率八二パーセント。残りは補機と環境制御に回っている」葛城が計器を睨む。

 キャビンの天井に設けられた熱交換ユニットが低く唸り、内部の空気を循環させていた。外は摂氏マイナス二十七度。断熱材と複層窓に守られた内部は十六度に保たれているが、空調ファンの風は乾いていて、呼吸すると喉が荒れる感覚が残った。加湿カートリッジが自動で稼働し、湿度三五パーセントを維持している。


 「ナビ照合、残り二十六・八キロ。進行角度誤差〇・四度」藤堂が報告する。

 「許容範囲内だ。そのまま維持」葛城は操縦桿を軽く動かす。ローバーのステアリングは電動制御式だが、砂丘の傾斜に合わせてモーターが遅れて応答するため、身体で補正を加える必要があった。


 車体後部の冷却ループが微かな音を立て、余剰熱をラジエータに送り出している。火星の希薄な大気では放熱効率が低いため、ラジエータには液体金属の循環路が設けられ、必要に応じて一時的に相変化材を使って熱を逃がしていた。外壁のラジエータ板は白く鈍い光を帯び、時折きらりと反射する。


 キャビン後方のラックでは地質レーダが休みなく作動していた。送信アンテナから放たれるパルスが砂と岩を透過し、反射波が灰色の帯としてモニタに現れる。藤堂は画面を指差した。「深さ一・八メートルに反射。氷脈だが連続性が弱い」

 「帰路で停車候補に加えろ。今は通過だ」葛城が即答する。


 十五分ごとの定期チェックインの時刻が来た。野間の声が回線に落ちてくる。「こちら基地。リンク安定。母船から追加情報、外壁膜の呼吸周期は継続、平均七分一二秒。変動幅二パーセント以内」

 「受領。こちら異常なし、行程続行」葛城が返答する。

 「心拍八十八、九十一。上昇傾向。深呼吸を入れろ」佐伯の冷静な声。

 葛城はわざと大きく息を吐き、胸を広げる。環境制御システムの送風口から乾いた空気が流れ込み、肺の奥で冷たく広がる。藤堂も真似るように呼吸を整えた。


 午後に入ると、太陽はさらに白く霞み、影は短く硬くなった。遠方に黒い露頭が見え始めた。玄武岩の棚が砂に埋もれかけて露出している。藤堂が外部カメラを拡大する。岩肌は酸化して赤褐色を帯び、表面には風食の縞模様が走っていた。

 「玄武岩露頭。酸化被膜あり。年代は浅い。削れば履歴が読める」

 葛城は迷った。距離はまだ残っている。しかし、科学的価値は高い。「時間を十分に制限する。採取しろ」


 車体を停め、エアロック手順を踏む。葛城は残圧計を確認し、外扉を開いた。外は風が弱く吹き、砂粒が靴の周りをかすかに舞った。藤堂はミクロソーを取り出し、露頭に切り込みを入れる。赤褐色の被膜の下から黒々とした玄武岩が現れ、断片を封入チューブに収める。

 「サンプル採取、識別番号 M-14-02」藤堂が報告する。

 「残り三分。終わらせろ」葛城は時間を見て促す。

 藤堂は迅速に片付け、ローバーに戻った。


 キャビンに戻ると、環境制御装置が唸りを上げ、外気をろ過して再加圧する。循環ポンプが水冷ループを回し、スーツの冷却ベストの温度がじわりと下がる。藤堂はグローブを外し、額の汗をぬぐった。「十六度に戻った。……やはり外は過酷だな」

 「だから機械に負荷をかけすぎるなと言っている」葛城は短く言い、走行を再開させた。


 砂丘帯に入ると、駆動系に負荷が増した。ホイールが砂に沈み込み、スリップ率が上がる。駆動制御が自動的にトルク配分を変え、前輪と後輪のモーターが別々に唸った。「推進効率八十七パーセント。稜線を超える」葛城が報告する。

 藤堂は記録を残した。「帰路の参考に記録完了」


 夕刻が近づくにつれ、影は再び長く伸び始めた。残り距離は十八キロ、宿営予定地点まで十二キロ余り。計画通りだったが、数値の安定とは裏腹に、二人の胸には別のリズムが響いていた。母船外壁の七・二分周期――科学的には切り分けたはずの現象が、感覚のどこかに絡みついて離れない。


 「なあ、葛城」藤堂が低く言った。「俺たちは何を見に行くんだろうな。本当に科学的対象なのか」

 「それを確かめるために行く。答えが空振りでも結果だ。だが俺は戻ることを最優先にする」葛城は操縦桿を握り直す。

 「分かってる」藤堂は窓の外に目をやる。赤い砂が夕陽に照らされ、影が長く伸びていた。


 その頃、着陸船に残った二人は静かに回線を見つめていた。野間はモニタに映る波形を凝視し、「待つだけってのは、息が詰まるな」と呟く。

 佐伯は端末から目を離さずに答える。「行く方も地獄だ。待つ方も同じだ。だが冗長性を保つのは鉄則だ」

 「戻ってきてくれれば、それでいい」野間は苦く笑った。


 夕刻最後の停車で、藤堂が小さな岩片を採取した。層理が走るその断片は、古い水の痕跡を示していた。

 「サンプル採取、識別番号 M-14-03」

 「行程継続。宿営予定地点まで残り十一・九キロ」葛城が報告する。

 「了解。リンク安定」野間の声が返る。


 赤い平原は同じ色を保ちながら、少しずつ形を変えていく。砂丘の影は黒く沈み、空は濁った橙に染まっていった。キャビン内では環境制御が唸りをあげ、空気を循環させ、湿度を維持する。数値は緑――すべて正常域。それでも未知の座標は確かに彼らを待っている

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