第74章 アンテナの微小誤差
母船 YAMATO は火星を周回していた。高度は410km、軌道周期は約125分。母船のアンテナは火星地表の着陸船と地球を交互に指向し、二重のリンクを維持している。
そのアンテナがわずかに狂った。指向角度、0.05°の誤差。地球へのリンクではSNR(信号対雑音比)が一瞬だけ 2.3dB 落ち、受信波形に微小な歪みが残った。
「角度ドリフト検出。偏差、0.05°」
通信士の野間は眉をひそめた。
「自動補正がかかっていないのか?」南條艦長が問いかける。
「アルゴリズムは作動しています。ですが……補正の直前に、外部から位相が押されたような波形があります」
山岸准尉が航法システムからのデータを照合した。姿勢制御用のスタートラッカーは正常。慣性計測ユニットのジャイロ値も誤差なし。
「機体の姿勢は正常。アンテナ系統そのものの誤差です」
「原因を絞れ」南條が短く命じる。
鶴見技術曹長は工具ケースを開き、外壁監視ドローンの操作端末を起動した。小型の自走カメラがアンテナ基部へと移動し、接合部を映し出す。そこに、異質な色があった。
「……見ろ。基部の外殻パネルに薄い膜が残っている」鶴見の声に緊張が混じる。
モニタに映ったのは、金属表面に沿って淡く光る帯状の影。虹色にも似ているが、自然な干渉縞とは違う、不規則に脈打つような輝きだった。
「月面地下の装置で付着したやつか」南條が呟く。
「あれから半年経ってるのに……生きてるみたいだ」野間の声は小さかった。
鶴見はスペクトル計測モードに切り替えた。結果が数秒で表示される。
「反射スペクトルに異常。鉄酸化物と炭素鎖が混在。波長 540nm 付近にピークがある。天然の酸化膜じゃない」
「自己発光の可能性は?」山岸が尋ねる。
「否定できない。少なくとも外部光源じゃ説明できない」鶴見が答えた。
アンテナ基部は通信システムの心臓部に近い。ここに未知の膜が付着すれば、反射・散乱が生じ、わずかな位相誤差がリンク全体に影響を与える。
「誤差0.05°は致命的ではない。しかし、このままでは蓄積する」南條は冷たく言った。
対処は二つあった。外壁ドローンに洗浄スプレーを使わせるか、あるいは高出力マイクロ波を照射して焼き切るか。
「スプレーは残量に余白(=残りの作業回数)が少ない。あと数回しか使えない」鶴見が説明する。
「焼き切ればアンテナ基部にダメージが残る」山岸が反論する。
南條はしばし黙考した。
「……まだ実害は閾値内だ。処置は後回しにする。ただし監視を継続。波形の揺らぎは一秒単位でログを残せ」
「了解。記録(=高解像度テレメトリログ)を保存します」野間が応じた。
緊張が一度途切れると、艦内に沈黙が訪れた。船体は無重力区画で静かに漂い、人工重力リングの低い振動音が耳をかすめる。
「……幻覚かもしれないが」山岸が口を開いた。「外壁を見ていたら、人の輪郭のような影が動いた」
誰も笑わなかった。月以来、全員が一度は同じようなものを見ているからだ。
「心理的な赤信号(=精神的危険兆候)か、現象か……」南條は目を閉じた。「どちらでも、今は任務を続けるしかない」
外では火星が静かに回転を続けていた。赤茶けた地平、極冠の白。だが母船の外殻にまとわりつく灰黒の膜は、確かにそこにあり、通信の精度を揺らし、クルーの心を削っていた




