第71章 帰ってきた沈黙
エアロックが閉じ、再加圧が完了すると、全員の体から一気に力が抜けた。だが安堵の呼吸は数秒しか続かなかった。脱ぎ捨てられたスーツの表面には、赤い砂だけでなく、白い粉のような結晶が薄くこびり付いていたからだ。
藤堂科学主任が手袋を外し、その表面を指でなぞった。ザラリとした感触。
「……氷だ」
言葉は囁きのようだったが、艦内の空気を一変させた。
野間通信士が声を絞り出す。「ISRUの配管で見たのと同じ……」
誰も笑わなかった。笑えるはずがなかった。
CICに戻ると、モニタに表示されたISRUのログは依然として緑色のアイコンを並べていた。数値は正常、生成量も計画値どおり。
だが、彼らの目が見たのは違う。配管に走る白い霜――それは氷栓の兆候だった。
藤堂が端末を叩き、叫ぶように言った。
「氷が成長すれば流量は落ちる! 推進剤が足りなくなる! 帰還船は飛び立てない!」
佐伯医官が拳を握り締めた。「つまり……俺たちはここに閉じ込められる」
その声は医師ではなく、一人の人間の叫びだった。
艦内に沈黙が落ちる。呼吸音だけが響く。
葛城副長は低い声で言った。「確認しよう。ISRUが止まれば、帰還燃料は製造できない。地球から補給は来ない。つまりここで死ぬ」
誰も否定しなかった。
野間は乾いた喉で呟いた。「地球に報告しても、22分遅れだ。届いた時には、俺たちの酸素が尽きているかもしれない」
藤堂は机を叩いた。「数値は緑だ? 冗談じゃない! 俺たちの目は赤を見ている!」
彼の声が艦内に反響し、静寂を切り裂いた。
短い沈黙のあと、葛城は全員を見回した。
「……選択肢は二つだ。ISRUを信じて計画を継続するか。あるいは早期に撤収手順に移り、最低限の燃料で帰還を図るか」
佐伯が即座に首を振った。「最低限じゃ足りない。離陸はできても、軌道復帰は不可能だ。帰還は潰える」
野間は声を震わせた。「じゃあ継続するしかない……? でもこのまま氷が広がれば、数ヶ月後に詰まる」
藤堂が吐き捨てるように言った。「数ヶ月後じゃないかもしれん。明日かもしれない」
議論は途切れ、誰も次の言葉を発せなかった。
数値は緑。だが彼らの心臓は赤い警告を打ち鳴らしていた。
葛城は深く息を吸い、絞り出すように言った。
「……我々の生存は、配管の厚さ数ミリで決まっている」
その言葉が艦内を凍らせた。誰も冗談を言わない。全員が理解していた――これは生存の問題であり、記録でも科学でもない。
夜。船内照明が落ちても、誰も眠れなかった。
窓の外では火星の夕暮れが静かに広がり、影が長く伸びていた。
その沈黙は、美しい静寂ではなかった。生死の秤の片側に乗せられた、不気味な沈黙だった。




