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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン9

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第64章  サーフェイシング ― 赤い静寂の上で



 大地が脚を受け止め、衝撃吸収コアがゆっくりと潰れて戻った。座席の背で骨が一度だけ震え、すぐ鎮まる。艦内に、長い長い息が吐き出された。


 「タッチダウン、確認」

 オペレーターの声は抑えていても、端にかすかな笑いが滲む。


 副艦長・葛城は反射的に次の手順へ移った。

 「スロットル・カット。推進系バルブ順次クローズ。点火回路SAFE。酸化剤ベント、短パルスで」

 コンソールの緑が連なって走る。エンジンの呼気が最後に浅く鳴き、沈黙が降りる。船体の各所で小さなバネが縮む音、金属が冷えて僅かに収縮する音――機械が“休む”ときの音だ。


 「姿勢、安定。傾斜、許容内。脚ロック、オールグリーン」

 「機体健全性、一次チェック完了。二次に移行」

 「電源系、切替。熱制御、外気プロファイルに再設定」


 報告がリズムを刻む。野間通信士はリンク監視画面を開き、周回リレーへのテレメトリ転送を継続しながら、母船と地球向けの報告パケットを束ねていた。遅延はある。だが到着は確実だ。


 外はまだ白く霞んでいる。噴射が巻き上げた微細な粉塵が、風に乗って戻り、視界を曇らせているのだ。レンズ前の微振動ワイパが数度走り、粒子がはらわれるたび、赤褐色の地面が少しずつ輪郭を取り戻す。

 「外部カメラ、解像度回復中。LIDARで周囲マップ補完。レーダ高度計、地表硬度の推定値更新」

 視界の“穴”はセンサー融合で埋められていく。TRNの地図はもう着陸直前の役目を終えつつあったが、今度は拠点配置の設計図として再利用される。


 藤堂科学主任は肩越しに窓を見た。靄が薄れる。砂の波紋、小石の群れ、遠くに寝そべる岩塊。氷床境界は視界の外だ。だが彼は自分の胸に生まれた、静かな納得に気づく。まず「生き延びた」。それは科学の始まりを意味する。

 「初期環境計測、開始」

 風の向きと強さ、気温、気圧、放射線。帯電粒子の付着モデルが更新され、光学系の補正係数が微調整される。砂は軽い、音は薄い、空気は少ない――火星は相変わらず火星だ。


 「外部視界、良好に移行」

 ワイパが最後の一拭いを済ませたとき、赤い平面が隅々まで現れた。低い丘が斜めに影を引き、遠方の地平に白がわずかに混じる――氷の気配。野間は喉を鳴らし、端末に用意した文を呼び出す。

 「送信準備完了。……いきます」

 “われわれは、ここにいる。”

 たった一行。だが、この一行が地球の深夜や未明や朝を震わせる、と彼は知っていた。


 高利得アンテナがゆっくりと首をもたげ、角度を探るように空をなぞる。ロック。高帯域の回線が開き、ログの奔流が外へ出ていく。突入、ブラックアウト、逆噴射、Divertの判断、着陸――その全てが、数えられるものとして世界に渡される。


 葛城はCICのホログラムに切り替え、着陸品質のスコアを確認した。傾斜、脚荷重の偏り、周囲の障害距離、Divert余裕――いずれも基準内。「ここは“良い場所”だ」と数字が言う。だが彼は数字よりも艦内の空気でそれを知っていた。緊張の糸が、切れはしないが、たるんでいる。


 「ポストランディング・チェックリスト、後半へ。姿勢制御はスタンバイ・モード。不要な系は段階停止」

 彼の声はいつもどおり硬い。が、語尾にわずかな柔らかさが宿る。

 「72時間計画に移る。初日は安全域のセットアップ。二日目にEVA前点検と短距離ルートのマーキング。三日目に初歩行。氷床境界は偵察に留め、掘削は次のフェーズだ」


 藤堂は頷き、研究ノートに走り書きする。採取キットの優先順位、表層サンプルの保管手順、帰還便と同期する冷凍ライン――科学は「手順」になって初めて前に進む。

 彼は窓の外に目を戻し、低い地形の陰がゆっくり動くのを見た。火星の太陽は弱い。だが、影のコントラストが地表の小さな段差を誇張して見せる。歩くべき道と避けるべき溝が、昼と夜の境のようにくっきりと分かれていた。


 「パノラママスト、上げる。フェーズド・スイープ開始」

 伸縮ポールが外殻から起き上がり、首を回す。連続して切り取られる静止画が、艦橋の壁一面につながり、はじめの“地図”ができていく。映像の端で、砂埃が小さく踊った。弱い風。歩ける。

 野間は別のウィンドウを開き、地球からの遅延メッセージを受信する。《タッチダウンを確認。全ての乗員に敬意を。72時間計画を承認。安全最優先で進め》――八分前の声が、今、届く。彼は返す。《了解。われわれはここにいる。ミッション継続》

 たった二行。だが地球と火星の間で、言葉はこのくらいがちょうどいい。


 艦内の明かりが、作業灯の色に落ちた。誰も立ち上がらない。立ち上がるのは次の章の仕事だ。今は“黙らせる”ことが先――余計な熱を捨て、余計な動作を止め、静けさの中で船を落ち着かせる。機械も人も、ここで脈を一段落させるのだ。


 葛城は全周モニタを一巡し、ヘルメットの首元を無意識に撫でた。

 「……よくやった」

 誰に向けたのでもない。だが全員が聞いた。誰も答えない。かわりに各席で小さなスイッチが、一つ、また一つ、静かに倒されていく。


 藤堂は端末を閉じ、視線を遠くに置いた。白の気配はあの方向にある。そこへ行ける。だが焦るな。科学は逃げない。待つこともまた、科学の一部だ。

 彼は心の中で、氷の層を一本の縦線で割ってみる。層の順番、混じり込む砂、含まれる気泡、時代の指紋。――そこに「誰か」が保存されている可能性。胸が波打つ。落ち着け。まずは足元だ。


 野間は最後の確認を済ませ、端末のモニタを暗くした。深呼吸。耳の中の自分の鼓動がようやく“普通の音”に戻っている。ふと、窓の下で自分たちの影が伸びているのが見えた。人間の影。

 「……きれいだ」

 彼が呟くと、誰も笑わなかった。全員が同じものを見ていたからだ。


 風がもう一度だけ砂を撫で、粉末が薄く舞い上がって、すぐ落ちた。

 火星の静寂は戻ってきた。けれどそれは、終わりの静寂ではない。

 最初の一歩を踏み出すために用意された、働くための静けさだった。


 艦内時計が、次の工程の始まりを告げる小さなチャイムを鳴らす。

 彼らはヘッドセットを整え、シートベルトのバックルに指をかけ、互いの顔を一度だけ見た。言葉はいらない。

 ここから先は、火星での毎日だ。

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