第62章 終末降下 ― 大地を選ぶ
火星の空は、噴射炎に煽られて渦を巻いていた。超音速を超えた逆噴射は速度を大きく削ぎ落とし、船体はついに制御可能な領域へと降りてきた。だが、この瞬間こそがもっとも危険だ。
「パワードディセント移行」
副艦長・葛城の声が艦内を貫いた。
操縦席前の表示が切り替わる。速度と高度が秒ごとに更新され、推力ベクトル制御が横速度をゼロへ収束させる。エンジンは深く絞られたり、瞬間的に強められたりを繰り返す。炎の揺らぎに合わせて機体は小刻みに震え、その度に乗員の体は座席に押し付けられた。
ホログラムには、TRNとHDAの解析結果が重ね合わされていた。赤い斑点は岩塊や急斜面を示し、緑の領域は安全を示している。船の降下位置は赤と緑の境界に重なり、判断が迫られていた。
「候補A、赤域に変化。Divert Bへ」
オペレーターの声が鋭く響く。
葛城は一瞬だけ科学主任・藤堂を見やった。藤堂が求めていた氷床境界は、赤く塗り潰されていた。科学的価値は計り知れないが、危険度はそれ以上だった。
「……了解。Divert B、承認」
葛城は即答した。声には迷いがなかった。
船体が横へ滑る。推進炎が砂塵を巻き上げ、窓の外は一瞬で白い霧に覆われる。カメラはノイズに沈み、視覚に頼ることはできない。
「カメラ視界不良。LIDAR優先継続」
オペレーターの手が迷いなく切り替える。点群データがリアルタイムで更新され、見えない大地の輪郭を描き出す。
藤堂は唇を噛んでホログラムを睨みつけた。科学者としては喉から手が出るほどに氷床を調べたい。しかし――着陸に失敗すれば、データどころか彼ら自身が火星の塵になるだけだ。
「高度、三百」
「横速度、収束中」
短いコールアウトが緊張の鎖をつないでいく。
葛城の瞳は鋭く、針の先ほどの揺れも見逃さなかった。安全、それだけが彼の指標だった。科学も野心も、ここでは後回しにされるべきだ。
脚展開のアラームが鳴る。
「着陸脚、ロック確認」
衝撃吸収コアが展開し、機体を支える最後のクッションが整う。
高度はさらに下がり、百メートルを切った。
Plume–Surface Interaction――噴射炎が砂を吹き上げ、逆流した砂塵が船体を叩く。視界はさらに悪化し、カメラの映像は真っ白に染まった。だが、LIDARとレーダは健気に働き続けている。
「最終Divert判断、B地点確定」
赤と緑のモザイクが確実に切り替わり、安全域が明示された。
「高度、三十」
機体は安定した姿勢を保ち、速度は確実に落ちていく。
通信士・野間は息を潜め、ブラックアウトを抜けた今、最初の着陸報をどう伝えるべきかを頭の中で繰り返していた。人類が初めて火星に人を降ろす、その瞬間を言葉にする責任が自分にある。
「高度、五」
全員の呼吸が止まる。
噴射が一瞬だけ強まり、すぐに切られる。船体は揺らぎの中でゆっくりと沈み、置かれるように大地へと接地した。
次の瞬間、衝撃吸収コアが沈み込み、わずかな震動だけが艦内を走った。
「タッチダウン」
葛城の声は低く、だが確かだった。
火星の大地が、確かに彼らを受け入れた




