第59章 分離 ― 軌道離脱と前段階
赤い惑星が、母船YMATOの窓越しにゆっくりと回転していた。周回軌道にある間は、火星は静かに大地を見せ続けている。だが、その静穏は幻にすぎない。いまから始まるのは、帰路を断つ行為だった。
CICには、降下用に構築された複雑なホログラムが展開していた。火星大気の縦断プロファイル、着陸楕円、突入角の許容域、そして中継衛星群の配置図。すべてが整えられ、ただ一つの目的――〈降下船〉を惑星表面に届けるためにある。
「降下中継衛星、予定軌道に投入。リレーリンク、安定」
通信士・野間の報告に、静かな拍手のような音が艦橋を走った。
この一言が意味するのは大きい。突入時に必ず発生するブラックアウト、その間に交信が完全に途絶えるリスクを最小限に抑えるための布石だった。
科学主任・藤堂は、机上に投影された気象データを睨んでいた。ダストストームの予兆は弱い。風速は予測値の範囲内。密度分布も大きな乱れはない。だが火星の大気は常に不安定だ。観測が追いつかない突発的な変化は幾度も人類を欺いてきた。
「氷床境界のROI、視程は維持できる」
彼は誰にともなく呟いた。科学者の高揚と恐怖は表裏一体。価値ある地点に降りたい――だが、失敗すればすべて無に帰す。
副艦長・葛城は、ホログラム中央に浮かぶ細い光の帯を見つめていた。突入角度の許容範囲。浅すぎればリフティングボディは弾かれ、宇宙へ跳ね返る。深すぎれば熱で燃え尽きる。角度は、ほんのわずかな幅しかない。
「死と生の境界線だな……」
低い声が漏れたが、誰も返事をしなかった。全員が同じ思いを胸に抱いていたからだ。
T–60分。降下船の電力と生命維持は母船から切り離され、独立運転に移行した。ポンプの駆動音が低く唸り、燃料系統のバルブが切り替わる。次々とランプが緑に点灯していく。
「推進系統、ノミナル」
「RCS、安定」
「IMU・スターセンサ、同期完了」
「レーダ高度計、待機状態」
コールアウトのリズムは、乗員の鼓動を支配するかのようだった。
野間はモニタに視線を落とした。突入中は確実に無音の闇が訪れる。ブラックアウト明けに最初に発するメッセージが、世界へ「生還」を告げる合図となる。短く、力強くなければならない。
――「突入完了」
――「機体健全」
――「降下継続」
指先で確認した三つの文を見ながら、彼の喉は乾いていた。
T–45分。
「メカニカル・ラッチ解除」
金属の重い衝撃音が響き、母船との接合が解かれた。船体が微かに震え、次の瞬間には重力のない静寂に溶け込む。
降下船〈DM〉は、母船からわずかに後退し、数十メートルの間合いを確保する。そのまま反転、耐熱シールドを火星方向へ。短い噴射が行われ、軌道がわずかに修正される。これがDeorbit burn――そのわずかな変化が、後のすべてを決定する。
「降下軌道、確定。突入角、許容レンジ内」
オペレーターの声が冷たく響いた。
CICの片隅では、地球からの管制メッセージが遅延通信で届いていた。八分前に発せられた地球の声が、今になって再生される。
《こちら地上管制。降下シーケンス、全系統に幸運を。ブラックアウト中の連絡は途絶するが、我々はここで待っている》
その声は奇妙に遠く、夢の中から響いてくるようだった。彼らはその返答を発したが、届くのはまた八分後。人と人の間に横たわる時間の海を、通信は越えなければならない。
T–30分。降下船は回頭し、突入姿勢へと固定した。迎角を示す針は設計値どおりの位置で安定する。これを外せば、突入は成立しない。
「通信予備チャンネル切替、応答良好」
野間が短く告げる。彼の指先は、再び端末上の三行に触れた。
残り五分。星基準の姿勢較正が終わり、葛城が最後の確認を行う。
「Abortロジック確認――エントリー前はスキップアウト。突入後は高層で復帰。終末はDivertで緊急着地」
その三つの選択肢が、唯一の逃げ道だった。
誰も返答はしなかった。呼吸の音だけが艦内を支配していた。
「全系統グリーン」
葛城の声が響いた。
船体が微かに前へ押し出される。
窓の外、赤い惑星がじわじわと広がっていく。
戻れない一歩は、すでに踏み出された




