第58章 月の沈黙を破る
月の地下クレーターを覆うシールドドームは、遠目には乳白色の半球にしか見えなかった。だが内部に足を踏み入れると、そこは地球の地下実験施設を思わせる人工的な明るさに満ちていた。厚さ数十センチの複合素材が放射線と微小隕石から作業員を守り、内部は地球の三分の一の重力下でも安定した作業ができるよう制御されている。
中央には、多関節型の掘削機〈ルナ・モールIV〉が鎮座していた。六本の脚で岩盤に固定され、アーム先端にはダイヤモンドコーティングのカッターヘッドが装備されている。切削と同時に真空ポンプが作動し、削り取られたレゴリスを即座に吸引して隔離タンクに送る仕組みだ。周囲では清掃用の小型ドローン〈スワロウ〉が群れを成し、帯電した微細粉塵を静電ブラシでこすり取っていた。真空の中で漂う粉塵は舞い上がらず、ふわりと漂っては静電気で張り付く。だからこそ除去システムは必須だった。
「第七層、切削開始」
操作席に座る技師が、骨伝導ヘッドセット越しに報告する。モニターには岩盤の断面図が映し出され、進行深度と負荷数値が刻々と変化していた。
ゴウン……ゴウン……。
アームが岩盤を削るたび、空気のないはずの空間に、金属を通じて骨へ伝わる鈍い振動が走る。作業員は皆、互いに目を合わせまいとしていた。まるで、この地の静寂を乱すこと自体が禁忌であるかのように。
やがて、掘削ヘッドの回転が不自然に跳ねた。
「異常硬度層に接触」
AIの無機質な声が響く。
映像に現れたのは、岩石とは明らかに異なる鈍色の曲面だった。光を当てると、一瞬だけ青白い反射が走り、別の角度からは黄金色の縞が浮かんだ。天然鉱物ではあり得ない多層反射。
「金属……いや、何だこれは」
主任技師の声が震えた。
外殻を覆っていた砂礫が次第に取り払われていくと、その表面の様子が露わになった。無数の小さな凹みが隕石衝突痕のように刻まれている。しかし一部は異様に滑らかで、まるで内部から自らを磨き直したかのように光を返していた。拡大ドローンが接近すると、結晶格子が縫い合わされるように再配列している痕跡が確認された。
「自然修復ではない……自己補正か」
研究員の一人が呟いたが、すぐに主任に制された。
「断定はするな。サンプルを持ち帰ってからだ」
数日をかけて掘削が進むにつれ、その全貌が浮かび上がっていった。長径二十メートルの楕円体。滑らかな曲線を描く外形は、岩塊でも隕石片でもなく、明らかに設計された構造体だった。作業員たちは無言でそれを見上げ、誰もが「触れてはならないものを掘り起こしている」感覚に囚われていた。
最後の砂礫が払い落とされたとき、決定的な構造が現れた。外殻に走る溝、その交点に並ぶ楕円形の窪み。
「何だこれは……?」
若い研究員が思わず息を呑んだ。
窪みは単なる凹凸ではなかった。ライトに照らされると、まるで眼窩のように影を落とし、数十、数百と規則正しく並んでいた。顕微鏡ドローンが内部を走査すると、微細な溝に沿って炭素・窒素・リンが異常に高濃度で検出された。さらにDNA断片に似た高分子の痕跡まで付着している。
「汚染の可能性は?」
「低い。表層に漏出源はない」
短い沈黙。誰も言葉を続けなかった。
この窪みは、何かを受け入れるための“格納ポート”なのか。それとも、かつて格納されていた痕跡なのか。
研究主任が静かに指示を出した。
「照射を続けるな。現場での憶測は危険だ。外形を完全に記録し、サンプルは最小限にとどめる」
作業員たちは従った。しかし彼らの心には、共通の恐怖が芽生えていた。
これは単なる残骸ではない。まだ、どこかで機能しているのではないか――。
月の沈黙は、確かに破られた。
だがその静寂の奥から立ち現れたものは、人類が想像してきた「遺物」という言葉では覆い隠せない存在だった




