第54章 総括 ― 農耕と社会の誕生
午後のセッション。議題は「農耕と社会の誕生」。午前中の討論で熱気に包まれた会場は、依然としてざわめきが収まらなかった。司会者が壇上に立ち、開会を告げる。
「新人の拡散と文化的爆発の後、人類はついに環境を積極的に制御する段階へ踏み出しました。それが農耕と定住です。本セッションでは、その意味を多角的に検討します。」
最初の発表者は考古学者マイケル・カーン教授。スクリーンには肥沃な三日月地帯の遺跡写真が映し出された。
「農耕は約1万年前に始まりました。小麦や大麦の栽培、山羊や羊の家畜化が確認されています。これは氷期の終焉に伴う必然的な変化でした。気候が温暖化し、降水パターンが安定した結果、野生穀物の利用が増え、やがて栽培へと移行したのです。」
次に地質学者のエミリア・ロッシ博士が反論気味に続ける。
「確かに気候安定は背景として重要です。しかし農耕の拡散速度は異常に速い。地域ごとに独自に発生し、数千年のうちに広域に伝播しました。土壌条件や水系の変動だけでは説明できません。」
彼女はスクリーンに年代と拡散地図を示す。黄河流域、インダス、メソポタミア、メソアメリカ。
「この多中心的発生は、環境だけでなく“観念的転換”があったと考えるべきです。」
文化人類学者チャンがマイクを取り、うなずく。
「農耕は単なる食料供給の手段ではありません。未来を見越して種をまき、収穫を待つ。この行為は“未来の設計”そのものです。農耕は文化的な時間感覚の革新を示しているのです。」
会場がざわつく。農耕を文化的行為とみなす見解に、何人もの研究者がメモを取った。
ここで遺伝学者の西村が発言する。
「農耕と並行して、ヒトの遺伝子に顕著な変化が起きました。デンプン消化酵素アミラーゼ遺伝子のコピー数増加、乳糖耐性の獲得です。問題は、この変化の速度です。数千年という短期間でほぼ全域に広がった。これは通常の自然淘汰の速度を超えています。」
ロッシ博士が問い返す。
「つまり遺伝子変異が農耕を促したのか、それとも農耕が変異を促したのか?」
「両方でしょう。」西村は静かに答える。
「文化と遺伝が相互に作用し、加速し合った。自然淘汰だけではなく、“文化淘汰”が働いたと考えるべきです。」
ここで哲学者ラルセンが手を挙げる。
「農耕は、人類が初めて“環境を制御する”行為でした。それは進化の方向性を逆転させた可能性があります。我々は環境に適応するだけでなく、環境を変えることで自らの進化を規定し始めたのです。」
AI研究者マリクが補足する。
「現代のシステム論に置き換えれば、農耕は“未来予測モデル”を社会に組み込んだことに等しい。播種から収穫までの時間遅延を管理し、余剰を蓄積し、社会階層と分業を生んだ。これはアルゴリズムの更新に似ています。」
議論は熱を帯びた。
- 考古学者:農耕は気候と環境変動に対する必然的反応。
- 地質学者:拡散速度は環境だけでは説明できず、意識の転換を要する。
- 文化人類学者:農耕は未来を構想する文化的革新。
- 遺伝学者:文化と遺伝の相互加速。
- 哲学者:環境制御という進化の逆転。
- AI研究者:未来予測モデルとしての社会的アルゴリズム。
司会者は静かに総括した。
「農耕は氷期終焉の必然であり、同時に観念的転換でもありました。文化と遺伝は相互に作用し、人類は初めて環境を制御する存在となった。――しかし、なぜそれほど急速に広がったのか。その問いにはまだ答えがありません。」
会場の空気が重く沈む。だが若手研究者が最後に手を挙げた。
「火も道具も言葉も農耕も、すべては“未来を準備する行為”です。私たちは環境に従うだけでなく、環境を先取りする存在に変わった。おそらくそこに、人類の特異性があるのではないでしょうか。」
会場が静まり返る。次の議題「文明誕生」へと向かう前に、誰もがその言葉の重みを胸に刻んでいた




