第46章 発表 ― 火・道具・言葉の境界線
ジュネーブ国際会議場、秋の朝。前日の議論が世界中のメディアで報じられたこともあり、会場の空気には異様な熱気が漂っていた。二日目のテーマは「火、道具、言語、そして新人の出現」。壇上に立つ研究者たちの目は鋭く、同時に歴史的な緊張を共有していた。
最初に登壇したのは考古学者のモニーク・ラファージュ教授だった。スクリーンにはアフリカ東部の洞窟から発掘された炉跡の写真が映し出される。炭化した骨片、赤変した石、灰の堆積。
「約80万年前、初期人類は火を制御しました。単なる自然火の利用ではなく、繰り返し維持された痕跡です。」
教授はレーザーポインターで骨片を示す。
「焼成温度は300〜400度。肉を柔らかくし、消化を助けた。火は栄養効率を高め、脳のエネルギー需要を支える基盤になったのです。」
スクリーンが切り替わり、集団で囲む炉の想像図が現れる。
「火を囲む行為は、食の効率化以上の意味を持ちました。夜間活動の拡大、捕食者からの防御、そして“集団としての結束”です。」
会場がざわめく。火は技術であると同時に、社会そのものを形づくる力だった。
続いて古人類学者のペドロ・ガルシア博士が登壇した。スクリーンには石器の進化の系譜が映し出される。握斧からハンドアックス、さらに細石刃へ。
「石器は単なる道具ではなく、“認知の延長”です。」
博士は、手にした石器を高く掲げた。
「加工の手順を理解し、次の形を想像しなければ作れません。石器の進化は、脳の中で未来を描く能力が強化された証拠です。」
会場の前列に座るAI研究者が小さく頷いた。人間の道具作りは、まるでアルゴリズムの進化のようだ。
次に登壇したのは言語学者のリサ・ヴァンデンベルグ博士。彼女は舌骨の化石をスクリーンに映し出した。細い骨が拡大されると、会場から驚きの声が漏れた。
「これはイスラエルで発掘されたネアンデルタール人の舌骨です。位置と形態は現生人類とほぼ同じ。つまり彼らは、音声言語を発する潜在能力を持っていたのです。」
博士はさらに耳小骨のCTスキャンを示す。
「聴覚の帯域も重要です。旧人類は、母音のフォルマント周波数に特化した構造を持っていました。これは単なる音の認識ではなく、“意味のある音”を聞き分ける準備が整っていたことを意味します。」
続いて遺伝学者の西村明彦が登壇する。スクリーンにDNA配列が映し出されると、場内の空気が一段と張りつめた。
「FOXP2遺伝子の変異です。言語能力と関連し、約20万年前に現生人類に広まりました。驚くべきは、その広がりの速さです。わずか数千年でほぼ全個体に固定された。」
彼は配列を指し示す。
「この速度は、通常の自然淘汰では説明困難です。極めて強い選択圧、あるいは他の要因を想定せざるを得ません。」
会場にざわめきが広がった。
最後に文化人類学者のアマンダ・チャンが登壇した。スクリーンにはフランスのショーヴェ洞窟壁画が映し出される。精緻な線描の野牛や馬。
「これは3万年前の壁画です。狩猟の記録ではなく、象徴表現です。」
彼女は壁画の線を指しながら語る。
「象徴行動とは、物理的な対象を超えて意味を共有する能力。これは単なる生存技術ではなく、“未来を構想する文化”の出現を意味します。」
壇上の5人の発表が終わると、司会者が一歩前に出た。
「火、道具、言語、象徴。これらは連続的に積み重なったのか、それとも、ある時期にまとめて“飛躍”したのか。本日の討論はそこに焦点を当てます。」
その言葉とともに、会場に緊張が走った。自然淘汰で説明できるのか、それとも外因を想定すべきか。議論の火蓋は切られたのだった




