第35章 装置の試運転 ― 余震の抑制と恐怖
相模トラフ調査拠点〈サガミ・データハブ〉は、24時間稼働の計測機器と数十名の研究員で埋め尽くされていた。2026年夏、東京はまだ壊滅していなかったが、分岐世界での「もう一つの結末」が背後に影のように貼り付いていた。そこでは装置の暴走が大震災を引き起こした。しかしこちらの世界ではまだ眠っている
地震学者たちにはある誘惑があった。
「本当に“緩衝”しているのかどうか、試す必要がある。」
装置と目される金属体は、海底数キロの断層深部に埋没している。自然地震の余波を拾って解析するだけでは不十分だと判断された。人工的に刺激を与え、応答を観測する――それが計画の核心だった。
試験は入念に準備された。小規模な圧力波を発生させるため、海底震源模擬装置が投入された。圧電素子を束ねた円盤を断層直上に設置し、周期的な振動を送り込む。出力は自然の微小地震に比べれば桁違いに小さい。都市への影響は皆無とされた。
初回試験。
送信された波は断層に吸収され、計測機器にはわずかな応答が返ってきた。通常なら減衰して消えるはずの振動が、二十七秒周期で増幅と減衰を繰り返している。
「見ろ。南極の微生物と同じだ。」
藤堂が声を震わせる。
第二回試験。今度は周波数を変調し、意図的に乱れを与えた。すると応答は一時的に混乱したが、やがて元の二十七秒周期に収束した。まるで「正しいリズム」に戻ろうとするかのように。
「これは受動体じゃない。能動的に環境を整えている。」
蒼井の言葉に、会議室は静まり返った。
そして三度目の試験。偶然か、それとも必然か、直後に本物の余震が発生した。震度はわずかに観測されたが、想定より揺れは小さく、首都圏には体感されなかった。計測データは明らかに示していた。断層エネルギーが不自然な形で分散されていたのだ。
「装置が作動した……。」
誰かが呟いた。
喜びは長く続かなかった。翌日の観測で、トラフ周辺の地殻歪が通常より急速に蓄積していることが判明した。揺れを抑えた代償として、より大きな歪が奥深くに押し込まれていたのだ。
「これは余震を抑える。だが壊滅的な主震を遅らせているだけかもしれない。」
西川の顔は蒼白だった。
科学者たちは板挟みに立たされた。実際に都市は守られた。だが、長期的に見れば破局を先延ばしにしたに過ぎないのかもしれない。装置は「救済」と「破滅」の両方を内包している。
国際会議では、各国代表が激論を交わした。
「人類はこれを利用すべきだ」
「いや、自然に干渉すれば必ず代償が来る」
「秘匿すれば暴走が再現される。公開すれば軍事利用される」
答えは出なかった。だが研究者たちの心には一つの恐怖が刻まれた。
――装置は沈黙していない。すでに応答している。
そしてその応答は、人類の意思とは無関係に、地球規模の時間軸で進んでいる。
東京の街はまだ輝いていた。だがその下では、見えざる装置が脈打ち続けていた。人々は知らぬまま日常を営み、研究者たちは知ってしまったがゆえに眠れぬ夜を過ごす。
「試運転」は、抑制と同時に、破局の予告でもあった。




