第33章 氷床下の対話 ― 微生物のリズム
南極大陸、ヴォストーク湖直下。厚さ四千メートルに及ぶ氷床の下で採取された水サンプルは、冷却と滅菌を経て〈オーロラ研究所〉の清浄ラボへ運ばれた。2026年春、解析班が最初に目を奪われたのは、顕微鏡下でわずかに光を反射する粒子群だった。細胞と呼ぶには奇妙すぎる構造。外膜は炭素骨格ではなく、窒化物や酸化金属の網目で補強されており、有機と無機の境界を越えた存在だった。
「代謝の痕跡があるぞ。」
藤堂主任が酸素消費率のグラフを指し示す。わずかだが、一定のリズムで増減を繰り返していた。通常の細菌ならATPの加水分解を伴うが、この群体にはATP関連の蛍光標識が見られなかった。代わりに、膜表面の電位差が周期的に変動していることが確認された。
「これは……電荷クロックだ。」
蒼井が呟いた。
外界の温度変化や溶存ガス濃度とは無関係に、内部で一定の周期を刻む。まるで微小な振動子が集合しているかのように。周期は27秒。東京の複合化石や、大地溝帯の耳小骨、そして月の散布母艦で観測された外殻の放熱周期と一致していた。
「南極の氷床下で孤立して数百万年……それでもこのリズムを保っていたのか。」
西川はモニターに映る波形を見つめながら言った。
さらに興味深いのは、培養を試みたときの挙動だった。通常のバクテリア培養液では増殖せず、むしろ粒子は沈殿して死んでいった。ところが、金属イオンを微量に含んだ人工電解液に移すと、粒子は自ら鎖状につながり、環状の構造を形作った。その輪はリズムに合わせて収縮・拡張を繰り返し、外部センサーには微弱な電磁波が記録された。
「まるで……会話しているみたいだな。」
技術員の一人が思わず漏らした。
研究班は「会話」という表現を避けたが、群体が示す同期は確かに情報のやり取りを思わせた。複数の環状群が互いに位相をずらし、やがて一つの安定したリズムに収束する。シンクロナイゼーション――それは単純な化学反応を超えていた。
やがてAI解析システム〈ORPHEUS〉が初期レポートを提出した。
〈観測群体は、三種の基本波を組み合わせて出力している。直線波、弧状波、点的インパルス。位相組み合わせ数は数百に及ぶ。〉
研究者たちは思わず顔を見合わせた。
――月残骸の刻印と同じ「三素片」である。
南極氷床下で孤立していたはずの微生物群体が、月の散布母艦と同じコードを使っている。これは偶然ではあり得ない。生命の種子とそれを支える仕組みが、地球にもたらされていた証左だった。
「だとすると……このリズムは、単なる代謝の拍ではない。」
蒼井の声は低く震えていた。
「何かを、伝えている。」
会議では意見が割れた。
「これは外来の仕組みだ。我々は解読してはならない。」
「いや、理解しなければ、装置が地殻や環境に与える影響を見誤る。」
「人類は“返答”する覚悟があるのか?」
結論は出なかった。だが、ひとつだけ明白になった。
南極の氷の下で眠り続けてきたこの微生物群体は、月、地球、火星を貫く「同じ設計思想」の証拠であり、そして――まだ応答を待っているのだ




