第32章 月の裂け目 ― 散布母艦の影
2026年、月面南緯18度付近の玄武岩高地に設営された国際探査拠点〈アポロ・アーク〉では、深部探査レーダーによる調査が進められていた。目的は単純だった。かつての溶岩流に埋没した洞窟を確認し、将来的な有人拠点として利用可能かどうかを判定すること。しかし、計測機器が拾い上げた反射波は、予想外の像を結んだ。
地下二十メートル。岩盤の中に、自然物とは思えぬ強い異材反射体が横たわっていた。形状はおおよそ楕円、長径二十メートル以上。周囲の岩石とは音波伝播速度も電磁特性も異なり、内部には空隙構造があると推定された。
「これは空洞ではない。明らかに外殻を持つ構造体だ。」
現場の地質学者は、震える声で報告した。
試掘の結果、表層からわずかに剥がれた破片が回収された。灰色に光沢を帯びたその断片には、刻印状の模様が走っていた。直線、弧、点――三種類の要素が繰り返され、顕微鏡下では規則的なエッチングが確認された。
解析にあたった工学チームは、これを単なる装飾ではなく「配置コード」だと推測した。南極の微生物が刻んだ電荷クロック、大地溝帯の耳小骨が捉えた音響共鳴、相模トラフの複合化石が発した電磁の鼓動。これらと同じく、周期や位相を基盤にした「情報の表現様式」である可能性が高かった。
ある物理学者は小さな声で呟いた。
「これは散布母艦の残骸だ。生命種子と、それを維持する仕組みを惑星に埋め込むための……。」
議論は一気に沸騰した。もしこれが事実なら、南極・アフリカ・相模トラフで見つかった痕跡は、すべてこの母艦から撒かれた「仕組み」の一部に過ぎない。エネルギー共生核、自己展開型熱源、環境緩衝装置――その全てを運び込んだ“運び手”がここに眠っているのだ。
レーダー観測では、母艦の周囲に周期的な熱波が記録された。二十七秒周期で微弱な放熱が繰り返されており、外殻内部にいまだ残存するエネルギー機構が生きている可能性を示していた。
「数百万年、あるいは数千万年の時を越えて、まだ鼓動を続けている……。」
観測チームの誰もが、背筋に冷たいものを感じた。
一方で、政治的な議論も避けられなかった。
「発見を公表すべきだ」
「いや、軍事利用を避けるため秘匿すべきだ」
国連の科学特別委員会は真っ二つに割れた。日米欧は慎重姿勢を取り、中国や新興諸国は透明性を主張した。だが結論は出ない。
現場の科学者たちはただ一つの事実に注目した。
――この母艦の外殻パターンが、南極微生物の電荷リズムと、相模トラフ複合化石の電磁鼓動と、完全に位相同期している。
つまり、月と地球の両方で「同じ時計」が刻まれているのだ。
研究者の一人が記録ノートに書き残した。
〈私たちは未だ外壁の一角を掘り出したに過ぎない。だが、この構造体全体が目を覚ましたとき、我々の文明はその存在とどう向き合うのか。〉
東京はまだ沈んでいない。しかし、沈まなかったがゆえに気づかれぬものが、地殻の奥で眠り続けている。
月の裂け目で姿を現した母艦の残骸は、その静寂を破る最初の合図であった。




