第19章 代謝と拡散
地下湖は、着陸から数千年を経ていた。自己展開型熱源はなお安定して稼働し、摂氏二十度前後の環境を保ち続けている。外界は依然として凍てつき、砂漠化した大地には液体の水は存在しない。だが氷と岩に囲まれた空洞の中では、独自の小宇宙が育っていた。
代謝経路の分岐
最初に現れたのは鉄と硫黄を基盤にした単純な代謝系だった。しかし長い時間が経つうちに、群体は環境に応じて複数の方向へ枝分かれしていった。
•鉄酸化系統
湖底に広がる酸性の堆積層で繁栄。鉄イオンを電子供与体として利用し、膜内の結晶に電子を流し込む。安定性は高いが成長速度は遅い。
•硫黄還元系統
熱源から供給される硫化物を取り込み、還元反応を主軸に代謝を回す。副産物として発生する硫化水素は、他の系統には毒となった。
•混合利用系統
中層を漂う群体は、鉄と硫黄の両方を使い分ける柔軟な代謝を獲得。資源変動に強く、短い世代時間で数を増やした。
•光吸収色素系統
ごくわずかに差し込む裂け目の光を利用。色素は紫外線から身を守る役割を持ちながら、同時に電子を叩き起こす補助的な仕組みに転じた。これにより急速な分裂と拡散が可能になった。
代謝の多様化は群体同士の競合をもたらした。硫黄還元系統の副産物が湖全体を酸性化すると、鉄酸化系統が優勢になり、逆に鉄イオンが不足すると硫黄還元系が広がった。競合は常に変動し、一つの系統が全てを支配することはなかった。
群体間の相互作用
やがて、対立だけでなく相互利用も現れ始めた。ある系統が排出する副産物が、別の系統にとって栄養源となる場合があったのである。
例えば硫黄還元系統が放出する硫化水素は、光吸収色素系統が電子供与体として利用できた。また鉄酸化系統が生成する酸化鉄は、混合利用系統が膜の補強材として取り込んだ。こうしたつながりが網目のように広がり、地下湖全体が相互依存の共同体へと変わっていった。
拡散の始まり
熱源から放たれる気流は、湖の外へと続く微小な亀裂にも流れ込んでいた。そこに乗って、群体の一部が運ばれた。亀裂の先は狭い水脈で、外界に近い冷たい岩盤へと通じていた。
この過酷な環境では、ほとんどの群体が死滅した。しかし、ごく少数は膜を厚くし、内部に結晶を抱え込むことで休眠状態に入った。やがて水脈の別の空洞にたどり着くと、熱源からの微弱な余熱や鉱物反応で再び活性化した。
こうして地下湖は、複数の空洞へ枝分かれしていった。自己展開型熱源が築いた「温床」を中心に、複数のミニ生態系が連なり始めたのである。
競合と淘汰
枝分かれした空洞では、それぞれ異なる条件が支配した。鉄に富む空洞では鉄酸化系統が主導権を握り、硫化物に満ちた空洞では硫黄還元系統が優勢となった。光が差し込む裂け目を持つ空洞では、光吸収色素系統が爆発的に増えた。
環境に適さない系統は急速に淘汰されたが、その一部は休眠状態で長く残り、条件が変わると再び姿を現した。こうして生命は単なる耐久から、多様性による適応へと進化しつつあった。
未来への兆し
外界の大地は依然として死んだままだった。だが氷と岩の下で、小さな生命はすでに「拡散」を始めていた。熱源カプセルが灯した一点の温床から、複数の小宇宙が生まれ、それぞれの環境で異なる進化を遂げようとしていた。
設計者の意図がそこにあったかどうかを知る者はない。しかし確かなことは、この惑星において生命は偶然ではなく、仕組まれた持続性の上に育っているということだった。




