第170章 要求なき恐怖(首相官邸・地下危機管理センター)
2027年11月未明。
官邸地下の危機管理センター。モニターの光だけが閣僚たちの顔を青白く照らしていた。
首相は卓の中央に座り、周囲を取り囲むように官房長官、防衛大臣、外務大臣、警察庁長官、内閣情報調査室長、統合幕僚長が並ぶ。米軍横田基地からは回線が直結され、アメリカ側の戦略司令部が沈黙のまま画面に映っていた。
情報の提示
内閣情報調査室長が口を開いた。
「確認されている事実は一点のみです。北朝鮮領内から発射された“地中貫通型弾頭”が東京に着弾した可能性。そして、それが遠隔起爆可能な水爆である可能性です。ただし、現物の存在は確認できていません」
防衛大臣が即座に畳みかける。
「つまり――虚報かもしれないと?」
「虚報とも、本物とも断定できない、ということです」
官房長官が苛立った声で言った。
「国民にどう説明するんですか? “核があるかもしれないが、分からない”ではパニックを招くだけだ」
警察庁長官が資料を机に叩いた。
「既にパニックは始まっています。SNSで“東京地下に水爆”という情報が拡散し、通勤路の一部が混乱。鉄道各社は自主的に運行を制限し始めました」
外務大臣が割って入った。
「我々がまず優先すべきは外交です。亡命主席が中国にいることは確実。だが彼が核のキーを握っているかは不明。中国が関与している可能性も高い。直接の要求が届かぬ以上、むしろ北京の意図を読む必要がある」
統幕長は深く首を振る。
「外交も結構ですが、仮に水爆が埋まっていた場合、時間との戦いになります。部隊を動かさなければ……」
防衛大臣が食い気味に声を荒らげる。
「部隊を? 東京の地下に? それで誤爆して本当に起爆したらどうする!?」
一瞬、場が静まり返る。誰も反論できなかった。
モニター越しに、米戦略司令官が口を開いた。
「ワシントンは、この情報の真偽をまだ掴めていない。だが日本政府は認識すべきだ。“もし本物であれば、起爆は即ち国家の終焉”だ。こちらはサテライトと特殊部隊の投入を検討中だが、現場権限は東京にある」
その言葉に、官邸の空気がさらに重く沈んだ。
外務大臣が静かに言った。
「――つまり、我々は“水爆がある”ことも、“ない”ことも、どちらも証明できていない。しかも敵から要求はまだ提示されていない」
官房長官が机を叩いた。
「要求がないのに、この恐怖だけが蔓延している! まるで人質だけ突き付けられて、身代金は告げられていないようなものだ」
防衛大臣が吐き捨てる。
「要求が分からない以上、交渉もできない。つまり我々は、ただ“起爆されないこと”を祈るだけの人質だ」
閣僚たちが次々に声を荒げる中、首相はずっと黙したまま手を組んでいた。
その姿に、官房長官が痺れを切らす。
「総理、どうされますか? 国民に発表を? それとも黙秘を?」
長い沈黙の後、首相は低く、疲れた声で口を開いた。
「……我々はまだ“敵の要求”を知らない。分からぬまま動けば、国を危険に晒す。だが、何もせずに待てば、都市は恐怖で崩壊する。――どちらも地獄だ」
目の下に影を落としながら、首相は机を握りしめた。
「この国は今、“要求なき人質”にされている」
会議室の空気は張り詰め、誰も言葉を継げなかった。
遠隔起爆のスイッチが本当に存在するのか。
主席は何を突き付けてくるのか。
――要求が見えぬまま、時間だけが刻々と過ぎていく。




