1話 山の守り手イチハ
皇歴1492年、この世界には丸い小さな島国が存在し皇国と呼ばれている。皇国は北と南に将軍が存在し分かれて治められ、その中心には皇都が据えられていた。
その小さき国には羽鐘「はがね」と呼ばれる山がある。
ここではかつて鐘を作る良質な銅が採れていた。
又、そこには古くから山民が暮らし、その拠点を「山の守り手」と呼ばれる一族が人や獣から守ってきた。
そのはがね山の山道、落ち葉で足が埋まる程のけもの道を1人の幼い少女が悲鳴をあげながら走っている。
「だ、誰か!助けて!」
少女の悲鳴はいくら叫んでも山の中に呑まれていく。
その背後には黒い毛皮で、体格が大人を超える程の大きな蜘蛛が追いかけている。
この獣は熊蜘蛛と呼ばれる皇国で1番大きな蜘蛛で、8本の足で音も立てずエモノを追い続けていた。
少女はすでに限界だった。足がもつれ倒れ込む。呼吸もできず、視界は涙でぼやける。
振り返った先には黒いケダモノが待ち構えていた。牙のような歯をカサカサと動かしながら口を開いている。
全身からどっと汗が噴き出る。 死、恐怖感が身体を支配していた。
そんな時、少女の全身を包みこむ様な風が吹いた。
まるで意思を持つかのように少女を包み込み、彼女の髪をやさしく揺らした。
少女は見上げておどろきの顔を浮かべた。
「もう大丈夫だ」安心しろミズキと、現れた少年は優しい手つきで少女の頭をなでた。
少年は優しさを見せながら、人の腕程度の長さがある山刀の切先を熊蜘蛛へ向け続けている。
熊蜘蛛は急に現れた少年へカチカチといかくをしながら横へ回り込もうとする。
少年はその度に刃の先を向けてけんせいするが、予想以上の素早さに眉をひそめる。
強く握られた柄の下には赤い玉がワラで結ばれておりそれが揺れている。
「熊蜘蛛、こんなに大きいのは初めて見る」本来、皇国最大の蜘蛛と言っても、もう2回りほど小さく鳥などの小動物を狙う獣のはずだ。
熊蜘蛛はいかくをしながら身体を大きく見せる為立ち上がったかと思うと、突如、粘液を放った。イチハは咄嗟に身をかわしたが、次は狙いを変えて背後のミズキに粘液が降りかかる。
「ミズキ!」
イチハはとっさにミズキを突き飛ばしたが、自身の左腕に粘液を受けてしまう。
「イチ兄ぃ!」
ミズキは泣きそうな顔で少年の名前を呼んだ。
「大丈夫だ、下がってろ」
イチハは粘液の付いた左腕には触らなかった。
両腕が粘液によって縛られればそれこそ2人ともやられてしまう。
熊蜘蛛は次々《つぎつぎ》と粘液を吐き出す。
イチハはそれをかわしながらミズキに当たりそうなら刀で受け止める。
だが、ミズキの背後にもう1匹の熊蜘蛛が樹上から忍び寄っていた。
「きゃぁぁッ」
ミズキが頭を抱えてしゃがみながら叫ぶ。
俺は何をやっているんだ。
守らなければ──己への怒りがイチハの中で何かを解き放った。
轟音。
突如、風が巻き起こる。イチハの周りに渦を巻く風は、もはや目に見えるほどのチカラを帯ていた。
吐き出される粘液や地面に落ちていたそれらは全て風によって辺りに散り、いつのまにか左腕についていた粘液も裂け、熊蜘蛛が近寄れない程の風圧を放ちつづけている。
イチハは身を翻し、宙を舞いながらミズキに迫る熊蜘蛛の頭上に山刀を突き立てた。熊蜘蛛は絶命し風によって落下していく。
残る熊蜘蛛は野生の獣にあるまじき防御行動を取った。手足を4本、前に伸ばして攻撃を防ごうとする。
だが、イチハが刀を振るうと熊蜘蛛は真ん中からタテに割れ、肉のかたまりとなった。
刀の切先が触れていない部分までが裂け、それは地面をもえぐるように跡をつけている。チン!という音を立てながらイチハは刀をしまった。
160cmに届かぬ平均的な男児の体系よりひと回り小柄な体格。前髪はピンと跳ねており、それが山を走る風を受けても形は変えずに少し揺れ、後ろ髪は肩へ毛先が届く程長く整えておらぬ為に箒の先端の様にボサッとしていた。又、キリッとした二重にガラス玉の様に丸い瞳の黒い色素は人よりも薄く少し変わった印象を持たせる。
着ている衣服は白ととても薄い黄色が混ざった絹で、腰巻の様な藍色の帯に山刀を差しており、履いている草鞋の周りでは木の葉が2、3枚フッと浮き上がっては落ちる。
そんな彼の名はイチハという。歳は14である。山の守り手の一族として、彼は生まれながらに神能「しんのう」という超常的な力を持っている。
神能とはイチハの様に風を起こしたり、火や水などを操る力のことである。
また、神能を持つ者とは文字通り、神の力を借りることができる者として皇国内では特別な存在として大切にされてきた。
「イチ兄ィ、ほんとうに助かったぁ。もうわたしダメかと思って怖くて」
「あぁケガもなさそうで良かった。立てそうか?なぜこんな所に1人でいるんだ」
ケガが無いかあちこちを探りながらイチハはミズキを立たせる。
「それがね。あそこで見えたの」
ミズキは先ほどと打って変わり誇らしげに話し始めた。
この山道の先には、はるか昔に星が落ちて爆ぜた。それが開けた大穴が今は木々《きぎ》が立ち込み獣の住みかとなっている。村では不吉な場所と言い近寄らない人も多い。
そこでとても不思議な光を見つけたらしい。
「この先まだ歩くのか?」
イチハはミズキに引っ張られて2人、大穴の底へ降りていく。
木々《きぎ》をくぐっても大木がうねりながら人が近づくのを禁じるように生え揃っている。
周囲には不自然な静けさが漂っていた。鳥や動物の声も聞こえない。
生暖かい風が頬を撫でる。腐った葉の匂いが鼻をつく。
何か硬いものが強く潰れ合う不快な音が下から響き、その振動が足の裏から伝わってくる。
イチハは背筋が寒くなるのを感じながら、目を凝らした。
「ほら、あそこ!」
ミズキが笑顔を見せながら指を刺した先、更に更に下の木々《きぎ》のうねりの中であやしく薄緑に光る場所があった。その光は、まるで生き物のように脈動して見える。
「何だあれは……」
イチハが目をこらすと木々《きぎ》が発光体の周りで踊り狂う様に生え急いでいた。まるで蛇の様に見える。不気味さと共に、何か重大なことが起ころうとしている予感がイチハの背筋を走った。
「ね?すごいでしょ。この前見つけたんだよ」
ミズキは誇らしげに語った。
「いつ頃だ?」
「んー、日が3回登る前かなぁ、ねぇこれ大じじにも見せていいよね?」
そう言いながらミズキはイチハの服の裾をつかんだ。もう見せるものは無いので帰りたいらしい。
「あぁ。いっしょにご報告しよう」
イチハは目を細め特異な場所を見続けていた。
木々《きぎ》のうねりは続き、次第に光を覆い影に戻っていく。
イチハはミズキの手を引き元の道を進み始める。
「そういえばイチ兄はなんで山に居たの?」
「ああ」イチハは少し考え込むように言葉を選んだ。「最近、山では熊蜘蛛とか野獣達が大きくなって暴れているんだ。大じじに言われてその調査に来た」
「へえ、だから今日はこんな奥まで来てたんだ」
イチハは軽くうなずいた。「そうだ。あの場所も何か関係しているのかもしれない」
「あ、大爺に報告する時、私のことは怒らないでって言ってね」ミズキは少し不安そうに尋ねた。
イチハは微笑んで答えた。「だめだ。でも、大じじはミズキをぶったりはしないよ。さぁ早く帰ろう」
ミズキは頷きながらイチハの手を握る。
「こんな時にオヤジが居ないなんて……」
イチハはぼやきながら山の先、河辺の方を見る。
父であるトオルは皇国で名のある神能者だ。
その力量が買われ戦場や交渉ごとに呼ばれることがある。
父は現在、将軍同士の軍勢がこの山の近くでにらみ合っているので、そこへ交渉の一員としてむかったらしいが1週間ほど帰ってきていない。
イチハは今日出会った不思議な現象の意味を考え込んでいた。
何かが起こる。いや、既に動き始めているのかもしれない。
イチハは、焦りを悟られないよう歩を速めた。