9. 宝物
塾で過ごす最終日。
夕食後にトリシアからデートのお誘いがあった。
デートと言っても敷地内の一番高い塔の上でおしゃべりするだけだが、それも今夜が最後と思うとなんだか感慨深い。
「トリシア」
塔のてっぺんにたどり着くと、そこには月の女神もかくやの美しい天使がいた。
波打った金髪のつややかなこと。月明かりに照らされた白磁の肌のすべらかなこと。宝石よりきらめく瞳に俺が映ると、その愛らしい唇は微笑みながら俺の名を呼んでくれる。
「スティーブ」
薄紅の小さな爪先まで整った美しい俺の天使は軽やかに俺の腕の中に収まる。俺も衒いなくその華奢な背を抱きしめた。
俺たちの正式な婚約はまだだが、オーガスト辺境伯へは断りの手紙をトリシアパパが送ったらしい。お断りします、ではなく、そこはまあ貴族らしく「国の重鎮であり陛下の覚えもめでたいレリウス侯爵家との縁談が内々に決まりましたので、ご都合がよろしければ婚約式の宴の際にはぜひお越しいただきますよう……」みたいな感じで。
社交界では当初、オーガスト辺境伯を拒むためにバートン公爵がレリウス侯爵に養子縁組と縁談を持ちかけたのでは、という説がウワサされていたらしい。俺が【黒】ということもあって、トリシアと相性の良い【黒】を番わせて次世代も【黒】である確率を上げ、ヴェサリウスの名を継がせたいのでは、と動機も邪推されていた。
まあ。ヴェサリウス魔道塾にも貴族は大勢いるのでその親兄弟なんかには、俺とトリシアが公爵家も侯爵家も関係なく結婚したかっただけだということくらいは伝わっているだろう。実際に親に訊かれて「ああ、あいつらね。社交界きってのおしどり夫婦になるから見てて」と答えたとわざわざ俺に報告してくれた奴もいた。
というか、正式な養子縁組が成って十日も経たない内に、ウワサ話がかなりの正確さで広まっているということに俺は驚いた。最終的に「良い話」で終わらせるためにワザと流された噂だろうが、それにしても速い。社交界怖い。
「ねえ、どうして教えてくれなかったの」
「確定するまではぬか喜びさせたくなくて」
「お父様も、教えてくだされば良かったのに」
「バートン公爵はこの養子縁組には一切関係ないからね。知らないふりをしなきゃならなかったんだよ」
「あら、なぜ?」
「俺とレリウス家の養子縁組がバートン公爵の策だと疑われてしまえば、オーガスト辺境伯が公爵を嫌う理由を作ってしまうからね。好色ロリコンクソジジイでも交易の拠点としては重要な役割を担ってる。公爵領産のシルクだってあそこから輸出されるんだ。嫌がらせされる隙は与えないだろう」
「それなら侯爵領産のワインだって同じでしょう?」
「姉上いわく――レリウス領の運営は先代…つまり私の祖父が担っている。近衛騎士団の長だった祖父が治めるかの地の軍隊の練度はもはや国立四騎士団に匹敵するレベルだ。ケンカを売れば大損するのが目に見えている。それに、有事の際には王都からの援軍が必要だろう。フラれた腹いせにレリウスを敵に回すような愚かなマネはすまいよ――…だそうです」
「…あなた、ジュダル様の口マネ上手ね。それにしても、レリウス侯爵領軍が四騎士団に匹敵するなんて知らなかったわ。…いくら『王家の剣』とはいえ陛下はよく一家臣がそこまでの力を持つのを黙認してらっしゃるわね」
「俺も同じこと訊いたよ。侯爵自身と息子三人がそれぞれ騎士団の長で、侯爵領にも大きな軍がある。その上、半竜族の四男が王太子殿下の伴侶。なにより一人娘が世界最強の魔術師。レリウス家最強すぎません? ってさ」
「ジュダル様はなんと?」
「――レリウス家の行動理念はたった二つ。“家族の幸せと領地の安寧”。これを脅かす者があれば排除するため牙をむくが、それ以外には興味がない。国王はそれをよく理解している。だから王家をレリウスの“家族”に組み込んだ。少なくとも私は、弟と王太子の子…甥であるレイヴンを守るに必要ならば、いかなる犠牲をも厭わない――」
「……レイヴン殿下にもしもがあれば、世界が滅ぶわね」
「ああ、間違いない」
いやでも基本的に優しい方なのだ。少々面倒臭がりで多少のことは物理的に押し切ってしまう方だが、弟が大好きで、家族が大好き。
だから俺たちのことも助けてくれている。
「…王家はそれで安泰だろうけど、周りの貴族はなんで黙ってるんだろうね?」
「レリウス侯爵家がこの国で最も歴史のある家の一つだということは知っているわね?」
「うん。建国当時から続いてるんだよね?」
「本当なら初代レリウス侯爵が玉座に就くはずだった、という話は?」
「そうなんだ?」
「戦に勝って、さあいざ新しい国を興しましょう、一番の功労者であるレリウス将軍を王に立てましょうとなってすぐ、レリウス将軍は“王様業に興味はない。田舎に引っ込むからあとはそっちで勝手にやってくれ”って、今の領地の辺りに居を構えておしまいになったの。それで仕方なく今の王家が立ったという経緯があるのよ」
「なるほど。永く続く家ほどレリウス侯爵家に好意的なのはそういうことか」
「そうね。数百年もの間、国を守り尽くしてくれているレリウス侯爵家への反目は、すなわち王家への謀反の意思と受け取られても仕方がないわ。なにより、レリウス家の方々が本当に地位や権力に興味がおありでないというのが大きいのではないかしら。爵位はおろか、騎士団長の座でさえ、簡単に手放しておしまいになりそうだもの」
「それはそれで困ったことになるわけか」
「そう。だから、今は別の問題で不安に思っている貴族が多いわ」
「別の問題?」
「レリウス侯爵に実子がいない、ということよ。養子には爵位相続の権利がないの。このままでは建国以来続くレリウス家の歴史が途絶えてしまうわ」
「……ごめん。なんか今普通に、レリウス家の人たちそんなこと気にしなさそうって思った」
「そうなの。おそらく、気にしているのは周りの貴族たちだけなのよ」
できればその尊い血統を継いでいってほしいのだけれど。
と、トリシアが苦笑しながら肩をすくめる。
ギュゼフ兄上とジュダル姉上があんな感じだ。
きっとレリウス家は本当に金とか権力なんかには興味がない。
シグルド卿の次のレリウス侯爵が“初代”になってしまっても、なんとも思わないだろう。
「ジュダル様がその稀有なお血筋でもって初代として立たれるのでは、ってお祖父様はおっしゃっていたけれど…」
「それはないな」
「そうよね。ないわよね」
二人してうんうんと頷き合う。
姉上が侯爵位を引き受ける未来よりも、明日世界が滅ぶと言われたほうが信じられるくらいにはありえない。
姉上が侯爵になるより、どこかの公爵領を継いだ第二王子殿下の妻として公爵夫人になるほうがまだ現実味がある。
世界最強の魔術師で半竜族の姉上が公爵夫人…。現実味あるか? これ。
「スティーブ、どうしたの? 難しい顔をして」
「姉上が公爵夫人に治まるかどうかを検証してた」
「…………あまり、想像できないわね」
「うん。…トリシアは、姉上との付き合いはどれくらいなの?」
「初めてお会いしたのは七つの審判の直前よ。お祖父様がご自分よりも良い魔杖を作ってくださる方だとおっしゃって、レリウス邸まで会いに行ったの」
「ってことは、【黒】って言われる前から魔術を使ってたってこと?」
「ええ。七歳のときには、基本的なことは一通りできていたわ」
「さすがトリシア。なのに俺たちと一緒に授業受けたりして、詰まらなかっただろ」
「いいえ。一からやり直すつもりだったから、退屈してる暇なんてなかったわ」
「やり直す? なんでまた」
「それは……」
珍しくトリシアが言い淀む。
言いたくないけど知ってほしい気もする、みたいな顔でしばらく逡巡した俺の天使は、俺と出会う直前の出来事を話してくれた。
曰く。トリシアの浅慮が原因で、姉上に世界を滅ぼされかけた――らしい。
さすがに姉上でもそこまでは、と言いかけた俺は、トリシアのやや怯えた表情を見て黙った。おそらくその日見た光景を思い出したのだろう。長い睫毛がかすかに震えている。
姉上。あなた七つの子どもにいったい何してくれたんです。
「私が悪いの。あの頃の私は本当に世間知らずで、恥知らずだった。私が言うことは正しいし、できないことは何もない、みんな私に従って当然。そんなふうに振る舞っていたの」
おお。それこそまさにヒロインを虐める悪役令嬢。
ということはそれまでは順調に断罪ルートへ邁進していたんだろうか。
九年ほど前のことだ。
トリシアは祖父であるヴェサリウス二世に連れられ、国内、否、世界最強の魔術師である姉上に魔杖を作ってもらうべくレリウス邸まで会いに行った。中庭で二人を出迎えた姉上を見てその美しさと若さに驚いたものの、それでもトリシアは教わった通り膝を折って挨拶をしたという。
姉上は立ち上がることも名乗ることもせずに「良く来たな」とたった一言返事をした。
ジュダル・レリウスがレリウス侯爵の養女であることをトリシアは知っていた。
トリシアは公爵家の長女。対して姉上は侯爵家の養女。
家の格も令嬢としての立場もトリシアの方が上だ。
ゆえに悪い意味で天真爛漫だったトリシアは「初対面の相手に対する礼儀がまるでなってない!」と内心で憤慨しながら、目の前の代師候補を自分よりも格下と見なした。
「あなたが、わたくしの代師になられるジュダル様ですのね?」
「私はまだ引き受けていない。見てから決めるとヘンドリクセンには応えたはずだが」
「まあ! お祖父様を呼び捨てるなんて!」
「私が敬称を用いるべき相手がこの地上には存在しないのでな」
「…お祖父様! 本当にこの方にわたくしの代師をお任せになるの?! いくら優秀な魔術師でもこんなにお若いなんて、経験不足なのでは?!」
「経験か。確かに代師とやらの経験はないな。魔杖も作ると決めたならまず現物を見てみなければ」
「……?? あなた、魔術師ではないの? 魔杖を見たことがないなんて」
「魔杖は歩行困難な老人が杖をついて歩くのと用途は同じだ。ただの補助、あるいは支えにすぎない。私には必要のないものだからな。見たことがなくて当然だろう」
「?! ……ジュダル様はお一人で極大魔術をお使いになられるとか。それも魔杖なしでできますの? わたくし水属性が一番得意ですの。後学のため、水の極大魔術を一度見せていただけるかしら」
どんなに腹が立ってもそれを顔に出してはいけないと教育されていたトリシアは表面上は冷静を装い、けれど内心の怒りの勢いのまま、目の前の無礼な侯爵令嬢を試すようにねめつけた。
格下の令嬢の、美しく泰然自若な様が更にトリシアを苛立たせた。
姉上はその幼い公爵令嬢の挑戦を「よかろう」と笑いながら受けて立つ。
数瞬の間もなく、水属性の極大魔術の術式が組まれ始めた。
二人の頭上に水の球体が練り上げられていく。
初めこそ「お手並み拝見」と高を括っていたトリシアは、水の球が屋敷の広い庭よりも大きくなり、建物の大きさをはるかに超え、それでもなお成長し続ける様を愕然と見上げ恐れおののいた。「も、もう結構ですわ!」と青い顔で縋るトリシアに「なにが結構なんだ?」と姉上は更に水の球を増大させていく。
見える範囲の上空はもはや水に埋め尽くされていた。
ゆらゆらと揺らめく水面から雨のように水が降って来てトリシアをずぶ濡れにする。
空が海になってしまった。こんな量の水が放たれたら王都は壊滅。いや、それだけでは済まない。このままでは世界が滅ぶ……!
こんな。こんな人が存在するなんて――。
パトリシアは生まれて初めて己の無知を恐れた。
己の浅慮を恥じ、己の無力を思い知った。
涼しい顔で尚も術を練り続ける美しい魔術師は、おそらく世界を水で洗い流すことを躊躇しない。己の短慮で世界が滅ぶかもしれないと悟ったトリシアは、最強の魔術師の足元に膝を折って懇願する。
どうか。どうか術の発動を止めてほしい。
不躾な己への罰にどうか世界を巻き込まないでほしい、と。
泥にまみれ地面に額を付けて泣きながら許しを乞う幼い公爵令嬢を、やはり姉上は笑って許した。
「己が言には責任が付き纏う。この短時間でそれを理解したのなら、まあ、よかろう。よく頭を下げた。よく世界を救ったな、パトリシア」
髪もドレスも靴も全身を泥に汚して泣いている少女の頭をよしよしと撫でてジュダル様はその場を後にする。
頭上を埋め尽くしていた大量の水は跡形もなく消え、青空が広がっていた――。
「――ということがあって」
「子ども相手に容赦ねぇ……」
「ジュダル様に色んなものをへし折られて、私しばらく落ち込んでいたの。それまで信じてきたものが全て覆ってしまった気がして。見かねたお父様が気晴らしも兼ねて叔母様の嫁ぎ先に遊びに連れて行ってくれて、そこであなたに出会った」
「そっか。出会った瞬間から“俺の天使だ!”って俺は思ってたんだけど、トリシアは色々複雑だったんだね」
「まあ、スティーブったら。私は…そうね。不思議な子だと思ったのを覚えてるわ。同い年のはずだし、私より小さかったのに、年上かしらって思ったの。公爵家と聞いても態度を変えたりしなかったし、茶色の子を本気で心配したりして、優しい人なんだなって」
「俺を心配してくれてたのはトリシアだよ」
「そうね。あのとき、声をかけて良かったわ」
「うん。ありがとう、トリシア。俺と出会ってくれて」
「こちらこそ、ありがとう、スティーブ。私に応えてくれて」
「なんか、結果だけ見ると九年前の姉上には感謝しないといけないのかな」
「そうね。あの方に私の慢心を叩きのめしていただいたから、あなたが好きだと言ってくれる今の私がいる。きっとあのときもお祖父様に頼まれて憎まれ役を演じてくださったんだと思うわ」
いやそれ演技じゃなかったんじゃないかな。
しかしなるほど。
師匠も異国の地に消えて行ったかの令嬢を思い起こさせる可愛い孫娘をどうにかしなければと行動に移していたようだ。高い鼻と自尊心を姉上が完膚なきまでにぽっきりへし折ってくれたから、トリシアは悪役令嬢にならずに俺の天使になったというわけか。
…やっぱり。色々なことの根幹に姉上が関わっている気がする。
トリシアのことといい、俺のことといい。無色のバラのことといい。
もしかして内乱が起こらなかったことにも何か関係しているかもしれない。
「…スティーブ。あなたご実家にはいつ帰るの?」
「ああ、近い内に帰らないとなとは思ってるよ。全部手紙で済ませちゃったから、さすがに申し訳なくて。夏の長期休暇辺りかな」
「私もご一緒していいかしら」
「もちろん。でも覚悟してて。ほんとに何もない田舎だから」
「楽しみだわ。ご家族に会えるのも、あなたの生まれ育った町を見るのも」
公爵令嬢を連れて行く、なんて言ったらルシェール家は大慌てだろうな。
母さんの悲鳴が聞こえる。
トリシアのつややかな金の髪を撫でる。
いろんな奇跡が重なって、そうして俺たちは二人でいられる。
この幸福を乱されないために、俺は意を決して口を開いた。
「トリシア。二年後にまた言うけど」
「なあに?」
「俺たちが三年になるとき、同じ学年に例の【無色】が編入して来る。名前は知らないけど、その女とできれば一年間ずっと関わらないでほしい」
「…どうして?」
「可能性はかなり低い。だけどその女、トリシアを陥れるかもしれない」
「名前も知らない編入生が私を?」
「可能性の話だ。君は俺が守る。でも、トリシアも自ら近付かないよう気を付けていてほしい」
「それは構わないけれど……」
腕の中から美しい双眸がじっと俺を見上げる。
「全部話せ」と言われているのは分かる。分かるけど…、と今度は俺が言い淀む番だった。
「スティーブン。未来の旦那様は私に隠し事なんてしないわね?」
「パトリシア。俺は未来の奥さんのためを思ってだな」
「私が知りたくないことは隠しておいていいわ。でも、今回は話して。覚悟はしてる。あなたの通う先がどこのどなたでも、きっと許せる」
「え? なに。なんの話」
「いつか、いつか訊かねばならないと思っていたわ。でもあなたの口から他の女性の話を聞くのは怖くて…」
「トリシア?」
「スティーブももう成人の近い殿方ですもの。そういったことも必要だから、あまり派手でない遊びは許してあげなさいとお父様もおっしゃっていたし」
「トリシアさーん」
「背が高くて優しくて落ち着いていて大人っぽいって、あなたが意外と女性に人気なのは知っているのよ? 私の目が届くのは貴族令嬢たちだけだもの。外の方たちのことは、」
「パトリシア!」
俺の強い語気にトリシアの肩がぴくんと跳ねた。
トリシアは俺から目を逸らしつつ「はい」と小さく応える。
なんか色々勘違いしてるその細い肩に手を置いて、俺は深々と溜息を吐いた。なんだ“他の女性”って。どっからそんなの出て来た。
「なんの話?」
「なにって…あなたの情報源の女性でしょう? その…そういった関係の大人の女性がいるって」
「なにそれ。誰が言ったのそんなこと」
「誰っていうか、周知の事実みたいな感じだわ。あなたが授業では教わらないことを色々知っていたり、妙に女性の扱いに手慣れていたり、落ち着いて懐が広いのも、大人の、その、そういう方がいて、そこで“勉強”しているからだ、って」
「オッケー分かった。同期全員にそれなりの呪いを贈っとくわ」
「……違うの?」
「違うも何も。トリシア。俺たち九歳からほぼ毎日ずっと一緒にいるってのに、いつそんな時間があると思うんだ」
「夜?」
「確かに半年前まで夜更かしはしてた。姉上のレポートの解読を急いでたからね」
「じゃあその半年前から」
「俺が大人びた雑学王なのは最近の話?」
「……違うわ」
「違うね」
「でも、じゃあどうして」
「前世の記憶があるんだ」
「前世?」
「あーもう。結局言うハメになった。そう、前世。他の世界で生きた記憶がある。だから精神年齢は数十プラスされてるし、たぶんそれなりに経験もあったろうから、女子に優しくすることに抵抗もない。前の世界はここより文明が発展していたから、妙な知識があるのはそのせいだ」
「今までどうして黙ってたの。私てっきり…」
「記憶があるって言っても結構曖昧だし、変なヤツだとか、嘘つきだとか言われたくなかった」
「私はそんなこと言わないわ!」
「トリシアはね。いや、っていうかまさか浮気を疑われているとは」
「浮気を疑ってはいなかったわ。なんて言うのかしら。…火遊び的な?」
愛らしく小首を傾ぐ俺の天使を抱きしめ、深く溜息を吐く。
同期たちにはどんな呪いを贈ってやろうか。
「…ごめんなさい。私ったら噂話を鵜呑みにして」
「…いや。前世の記憶があることくらいは話しておくべきだった。ごめんね、不安にさせて」
きゅっと俺のシャツを握ってトリシアは首を横に振る。
ああ可愛い。こんな天使が腕の中にいて、なんで他の女なんかに目が行くと思うんだ。
「トリシアと初めて出会ったあの日の神殿で、俺は前世の記憶からこことよく似た世界の話を思い出した。その知識を基にするなら、君は【無色】の女に陥れられて処刑される。それを知ったから俺はこの塾に来たんだ。でき得る限りの魔術と知識を身に着けて、君の傍で、来るべき日に備えるために」
トリシアが驚いた顔で俺を見る。
処刑される、は余計だったかな。ごめんびっくりさせて。
「……あなた、そんなに前から私のために努力してたの?」
あ。そっち?
「禁古語の解読も、苦手なスペリングも。どうしてこんなに必死なのかしらって。私のためだったなんて。どうして言ってくれなかったの。私、何も知らずに、ただあなたの傍にいただけだった!」
天使に涙目で抗議され、俺はどうしたもんかと苦笑する。
「君のため」なんて格好悪くて言えるはずない。好きな子の前では虚勢を張るのが男ってもんです。
「それでいいんだよ、トリシア。君が傍にいてくれたから、俺は頑張ってこれたし、これからも頑張れる」
泣くのを我慢してる怒ったような表情でトリシアは俺の背をぎゅっと抱きしめる。俺の天使ほんと可愛い。尊い。
ほわほわと温かい気持ちのまま、俺はローブのポケットから小さな巾着を取り出した。巾着…いや、ポーチ? 口に紐を通して縛るタイプの布製の袋、は、今は暗くて分からないけど、濃いグリーンのベルベットで作られた、小ぶりながら品の良いものである。
「婚約のお祝い」とトリシアに渡す。
ちょっと驚いて嬉しそうに笑ったトリシアが袋から取り出したのは、手の平より少し小さめのブローチだ。金の台座に、楕円形のつやつやした石が乗っているだけのシンプルなものだが、ある意味、俺にとって一番最初の宝物で作ってある。
「まあ、可愛い。制服のリボンに付けるブローチを探そうと思っていたの。ちょうど良さそうね。何色かしら」
普段使いしてほしいという俺の意図を容易く汲んだトリシアは月明かりにブローチを照らして仰ぎ見ている。
俺はそのきらきらな横顔を至福の心地で見詰めている。
はああ、俺の天使。マジ天使。
「……ねえ、スティーブ。これ、もしかして――」
「気付いた?」
「あのときのオーブね。あなたに招待状を送ったときの」
「そう、それ。俺の宝物だから、大事にしてね」
大輪の花が咲いたかのような笑顔で、トリシアはきゅっとブローチを握りしめる。
その笑顔を守るためなら、なんだってしよう。
決意も新たに、俺も微笑み返した。
【世界最強の魔術師殿がおっしゃることには、】第一章・完