6. ファーストキス
「……あっという間に五年も経ったんだけど?」
入塾から五年。
地と火属性と断定された俺はその両方と無属性魔術をヴェサリウス魔道塾にて学び続けている。どの属性も中級程度までは扱えるようになったが、これ以上は俺の魔力量では難しいだろうと師匠、ヴェサリウス二世に言われた。
自分でも近付く限界を薄々感じていた俺は、実用的であることを主軸に、領地で農業や土木関係に役立ちそうな地属性の魔術。魔獣を追い払える程度の火属性攻撃魔術。あとは、ここに来て最初に見た転移魔術やらを覚えた。
時間はかかったが、師匠もトリシアも同期たちも俺が理解するまで根気強く教えてくれた。呑み込みが悪くて申し訳ないと思いつつ、人に恵まれた俺は日々じわじわと魔術師と呼ばれて遜色ない程度には成長した――つもりでいる。
「痛って」
不意に動かした肩が痛んで思わず声を上げる。
来て見てびっくりしたが、ヴェサリウス魔道塾には進級試験がある。進級に値しないと判ぜられた生徒は容赦なく落第。見込みなしとされた生徒は辞退を勧告される。気軽に「行く」と言っちゃったが、意外と厳しい所だった。
そしてなんと今年の俺たちの進級試験は魔獣討伐の実技。
ありえない。俺らは魔術師だ。「なんで前衛無しで戦える必要があるんですかね師匠?!」と叫んだら「おまえだからな」とワケのわからない返事をもらった。
慣れない装備での森歩きも初めてなら、魔獣退治も塾生全員が初めてだった。命からがらでかい狼のような魔獣を倒しはしたが、俺はご覧の通り、肩を負傷した。
医者に診てもらった後、日常生活に支障がない程度のケガは全員が放置されている。「その痛みを覚えておけ」と治療魔術の使用が禁止されたのだ。
「言いたいことは分かる。分かるけどさあ…」
「スティーブ。また独り言?」
肩をさすって愚痴っていた俺に応える声があった。
再会して五年。さらに美しさに磨きのかかった俺の天使。パトリシア。
きらきらきらきら。はあ、見てるだけで癒される。
「痛むの? やっぱり治癒術を」
「使ったのバレたら俺が殺されるからやめて」
「でも、あなたのケガは私のせいなのに」
「トリシアを守ったことは褒められたよ。大丈夫だって。見た目ほどひどくない」
そっと白い陶器のような手が俺の肩に添えられた。
申し訳なさそうに下げられた麗しい眉を間近に、俺は軽く苦笑して見せた。
人前ではさすがにやらないが、俺たちは七歳からの付き合いである。トリシアは俺に触れることにあまり抵抗がない。けれど、ちょっと近い気がする。いや、だいぶ近い。近いよね? 普通、異性の胸に額を預けたりしないよね?!
「トリシア」
「…ごめんなさい」
「いや、ケガはいい。けど、トリシア?」
「…………」
人生の半分は一緒にいる、長い付き合いだ。それでなくとも俺たちはもう十四歳。俺の言いたいことは分かっているだろうに、トリシアは動かない。
「紳士的すぎるのも問題ね」
「なんて?」
「独り言」
「トリシアさん。マジで俺が殺される」
「そうしたら私も一緒に死ぬわ」
「できれば俺はトリシアの花嫁姿を見てから死にたいんだけど?」
「お祖父様と同じことを言うのね」
「師匠とはトリシアに関しては同志だからね。それより、トリシア」
「ひとつ、お願いを聞いて」
「うん?」
「キスして」
「……――なんて?」
背だけは伸びた俺をじっと見上げてくる常盤緑の瞳は真剣である。
冗談を言っているようではないし、冗談でもこんなことを言う子ではないし、むしろ、冗談でも「キズ物にしてくれ」などと言っていい子ではない。
トリシアは本気だ。
だから違和感を覚えた。
「トリシア。何があった」
「…あなたを困らせるのは分かっているわ。でもお願い。私、私……」
「トリシア。俺のことはいい。俺が困る程度で君が助かるならいくらでも困らせてくれ。何があった」
俺を見上げるトリシアの眉が泣きそうに歪む。
ああ、誰だ。俺の天使を悲しませるクズは。
「婚約が、決まるかも、しれないの」
「…第三王子?」
「いいえ。オーガスト辺境伯から申し入れがあったらしくて」
「は?」
待て。待て待て。オーガスト辺境伯っていや六十近い爺さんじゃねえか?!
あの好色ジジイ。確か何人か夫人がいるはずだ。なんだって俺の天使に粉かけようとしてやがる!
「第一夫人が病死なさったんですって。先王陛下の妹君よ。それで、王家に近い公爵家から新たに正妻を、と」
「いや、いやいやいや。意味が分からん。ロリコンかよ好色クソジジイが。トリシア。ちょっと俺、遠方にいる特定の人物を呪い殺す術を教わって来るわ。大丈夫。これは師匠も二つ返事で禁術伝授してくれる」
「いいえ。いいえ、スティーブ。辺境伯をどうにかしてほしいわけでは」
「俺で無理なら師匠にやってもらおう。可愛い孫娘のためだ。老骨に鞭打って頑張ってくれるだろ。それでも無理ならカチ込むか」
「スティーブン! 私は公爵家の娘よ。結婚相手は政略的に選ばれるものとずっと昔から覚悟していたわ。だから、いいの。誰に嫁ぐことになっても、私は私の務めを果たすわ」
「そうか。立派な覚悟だ。だが俺は納得しない。同い年の王子ならともかく、六十の好色ジジイの嫁になんか絶対やらないからな。いざとなれば刺し違えてでも、」
君を守る、と最後まで口にすることができなかった。
なぜって、口を塞がれたからだ。
トリシアの、唇に。
ふわりと優しい良い香りがした。
今生初めての他人の唇がまさか天使のそれだとは。
歓喜に打ち震えお花畑を展開する余裕は俺にはなかった。
前世の記憶で加算された精神年齢がこの事態に警鐘を鳴らす。
俺はいい。田舎貴族の三男坊だ。どうなろうと悲しむのは家族だけだろう。
けれど、トリシアはだめだ。
トリシアは王子の嫁候補筆頭の公爵令嬢なのだ。
俺が、俺なんかが触れていい相手ではない。
ややあってそっと離れたトリシアの頬は赤い。目尻はうっすらと潤んでいる。
俺の天使はどんな時でも目が眩むほど美しい。
「…はしたない真似を許して。でも、初めてのキスくらいは――」
――愛する人と。
軽く混乱している俺の耳にトリシアのか細い声がかすかに聞こえた。
ああ、そうか。
そうなのか。今トリシアを悲しませているのは俺か。
身分差を理由に目を逸らし逃げ続けている俺なのか。
きゅ、と口端を引き拳を握る。
どうにかできるとは思えない。
思えないが、それでも今この天使を突き放すなんてことは俺にはできなかった。
首まで赤く染めて今にも泣きそうな天使のすべらかな頬に手を伸ばす。
指の腹で目尻をなぞる俺に、トリシアは驚いた顔をした。
無理もない。俺から彼女に触れるのはこれが初めてのことだ。
そっと細い腰を抱き寄せる。
俺たちの付き合いは長い。それでなくとも、単純な俺の思考はトリシアには筒抜けだ。
戸惑いつつもゆっくりと伏せられる長い金の睫の、その落す影さえも最高に美しい。
言葉にはできない覚悟と決意。そうしてありったけの想いを込めて。
俺たちはその日、初めてのキスを交わした。
***
国立王都高等寄宿学校。通称アカデミー。
生徒教員合わせて数千人が常時在籍する巨大な教育機関だ。
入学資格に身分の明記はないが、もちろん試験があるしそれなりの入学金と授業料が必要だ。
この国に義務教育の法律はないので、試験に合格できる程度の学力のある子、つまり幼い頃から子どもの教育にお金を使える裕福な家の子というのが入学の最低条件になる。安くはない入学金と授業料の支払い能力を考えれば、貴族、それに匹敵する資産家の子息令嬢しか入学できない。必然的に、将来は国の中枢で働くだろう優秀な人材が集中する。
十五歳から十八歳まで。例の水晶バラの色毎にクラス別けされ三年間学ぶ。
十八歳が成人であるこの国は、新成人たちが卒業後、即戦力となって働けるように三年で各適性の基礎知識を叩き込むのだ。
ただ【白】や【黒】は十五歳からの指導では遅すぎる。
という訳で俺たちのようにアカデミー入学前に個別に塾で勉強するというのが一般的となっている。
ゆえに。アカデミー内には派閥が存在するらしい。
魔術師課程は、塾長が宮廷魔術師団の長であるヴェサリウス魔道塾の生徒による最大派閥と、それ以外という構図。別に仲が悪いとかはないようだが、やはり一流塾の出身者とそうでない者という隔たりは意識せずともできてしまうそうだ。
「でもな。俺らは全然マシだよ。魔術師ってほら、無駄なことがきらいだろ。無意味に他の生徒とバトるより術式のひとつでも覚えたほうが有意義だって、そう思うよな?」
去年、アカデミーに入学したはずの先輩が塾の食堂で俺の前に座ってフォークを振り回している。相部屋だった先輩だ。「フォークをおろせ」とイヤな顔をしつつも一応頷く。言っていることは正しい。足を引っ張り合うよりも、教え合い、補い合うほうがよほど有意義だ。で、この人なんでここにいるんだ。アカデミーにも食堂はあるだろうに。
「【白】のやつらは違うんだよ。もう派閥争いがバッチバチ。どの塾が一番かって、レリウス騎士団長と三兄弟のそれぞれの塾出身者がもうヤバいのなんのって」
「やつらはそうやって切磋琢磨してんじゃないスかね。変に仲良かったら鍛錬にならんでしょ」
「トリシア嬢と完璧な連携プレーをこなすおまえがそれを言うか。普段から仲良くないといざってとき合わせられないだろ」
反論を探して黙った俺の後ろから「あー確かに。あれすごかったなあ」と声が上がった。やめろ。もうその話は耳タコだ。
「ほぼ全員が魔力を使い果たした後で」
「そうそう。疲労困憊だってのに、魔獣が残ってて」
「“スティーブ!”」
「“おうさ。地属性魔術補助・強化!”」
「“ロックレイン!!”」
「やー。絶望に叩き落された数十秒後には魔獣なんて跡形もなかったわね」
「地属性バフの合図でも決めてたのかって聞いたらこいつ、なんて言ったと思う?」
「“いや? トリシアに呼ばれたから”」
「トリシア嬢もバフがある前提で術式組んでたってことだろ?」
「なにその阿吽の呼吸! しびれるわー」
随所にはさまれる俺とトリシアの声マネが妙に似てて腹が立つ。
こいつら、同じ話を飽きもせず何度も繰り返しやがって。トリシアがいないとすぐこれだ。
俺は無視して食事に集中すべくフリッターにフォークを突き立てた。
と同時に気の抜けるような声が俺を呼ぶ。
「スティーブせんぱーい」
「ああ?」
「しゃっくり、止まんないんだけど、ひっく。どうしたらいい? ひっく」
たすけてーと泣き付く後輩はしゃべる合間にもひっくひっく言い続けている。苦しいよなあ、しゃっくり。
可愛いような可愛くないような後輩を助けてやるべく、俺は究極の二択を突き付けた。
「痛いのと酸っぱいの、どっちがいい?」
何それ、と眉をひそめた後輩はひっくと肩を上下させながら「じゃあ、酸っぱいので」と答える。それなら、と俺は皿にあったくし切りのレモンをそいつに差し出した。
「噛め」
「え。やだ。酸っぱいじゃん。ひっく」
「おまえが酸っぱいのって言ったんだろ」
やだやだと駄々をこねるひっくひっく言ってる後輩の顎を掴んでレモンを放り込む。無理やり噛ませると悲鳴が上がった。そりゃあ酸っぱいわ。今朝採れたての新鮮レモンだからな。
「先輩ひどい!」
「止まったろ」
「え? ……ほんとだ。先輩すごい!」
涙目で俺を睨んでいた後輩は現金なことにころっと満面の笑みを浮かべた。
はいはい良かったな。メシの邪魔すんな。
しっしと後輩を追い払う俺に、目の前の先輩が首を傾いだ。
「ちなみに痛いのって?」
「舌を強く引っ張る」
「うわ、痛そう。でもそれで止まるんだ」
「実際やったことないから知らんけど」
「スティーブってほんと微妙なこと色々知ってるよな」
「微妙は余計だ」
日本人が作ったゲームが基になっているこの世界に存在するものはたいがい日本にもあったものだ。レモン然り。このエビのフリッター然り。
だから大抵は俺の雑学も通用する。
そんなこんなでいつの間にか知恵袋扱いだ。俺はおまえらのおばあちゃんじゃねえよと言いたくなるくらいに色々言って来る。やれ指に棘が刺さっただの、やれ鼻水が止まらないだの、やれシャツにソースが跳んだだの。魔術を使うまでもない細々とした様々が舞い込んで来る。
「んでさあ、スティーブ。おまえらどうすんの?」
同期が俺のグラスにお茶を注ぎつつそんなことを問うてきた。
おまえらとは。どうするとは。何がだ。
その意図が理解できず、エビを咀嚼しつつねめつけてやる。
へらりと笑った同期は存外穏やかな表情で俺の答えを待っていた。
「トリシア嬢だよ。俺らはもう家族みたいになっちゃってるけどさ。アカデミーに入ったらそうも言ってらんないだろ? 公爵家には味方はたくさんいる。けど、おまえが思ってる以上に敵も多いぞ」
「…脅すなよ」
「ま、駆け落ちの手伝いくらいはしてやるぞ? なあ?」
おう。まかせとけー。と方々から合いの手が入る。
いや、駆け落ちなんてしませんよ。
箱入り令嬢連れて逃亡生活なんて、追跡専門の魔術師がいるこの世界で成しえるはずがない。相当うまくやらなければ国外に出ることさえままならないだろう。それに何より、トリシアにそんな苦労をさせたくはない。
「……気持ちだけ受け取っとく」
「あなたたちずっとお互いに一筋なんだもの。みんな応援したくもなるわよ」
「だな。あの非の打ち所のない公爵令嬢がスティーブの隣でだけは良く笑うからな」
「難しいことは分かってるけどさ。やっぱ二人には幸せになってほしいよね」
「君たちにはたくさん助けられた。手が要るなら貸すよ」
「…なんだおまえら。卒業式でもないのに俺を泣かせる気か?!」
俺は本当に人に恵まれた。
アカデミーは貴族社会の縮図だ。少数派の【黒】の集まりで家族みたいな塾の生活のように、気楽に過ごすことはできなくなるだろう。当然、赤の他人同士である俺とトリシアが今までのような距離感で接するのを貴族連中は良しとしない。
そんな環境の変化を来年に控え、この友人らはそれなりに心配してくれているらしい。
完璧な公爵令嬢と田舎子爵の三男坊。どう見てもハッピーエンドは迎えられそうにないが、俺は“奥の手”に賭けて例のレポートの解読を急いでいる。
泣いてはやらないがじわじわ感動している俺の耳に、聞き慣れた軽い足音が遠ざかるのが聞こえた。おそらく今頃、俺の天使は友人らの友情に心を打たれて涙してるに違いない。
後で食事を運んであげなければ。