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じゅうぶんで
「ヒコイチさん、お茶はいかがです?」
いきなり気配もなく横にいた奥方の声で、我にかえった。
庭の草木や垂れ下がったハスの葉に、雨水がのこり、陽に照らされている。
さきほどのことが夢だったように、暑さがもどりはじめてきた。
奥方が出してくれたのは水出しのお茶で、ヒコイチはそれをいっきにのみほすと、うれしそうにこちらを眺める年寄にあきらめたように言った。
「・・・旦那さん・・、言っとくが、おれはほんとに、なにもできねえよ」
うなずいた年寄も、お茶に口をつけてから言った。
「ヒコイチさんも、あれをみて『こころぼそい』と感じられたとわかり、それだけでもう・・・、じゅうぶんでございます」
こちらに頭をさげるのに、なにもかえせないままだった。




