『こっち』のものを口に
年寄は、そのとおり、と額にてぬぐいをあてて笑い、部屋の隅の当人もころころと口をおさえるのを目にしてヒコイチもこまったようにくちもとをゆるめた。
いやな寒気はおさまり、むこうにひろがる池の様子にかわりもなく、どこか遠くから蝉のなくのがきこえてくる。
そういえば、この庭にも数本太い木はあるが、近くからも蝉の声はきこえない。
庭の奥の、高い垣根のむこうからは本物の山になるようだが、そちらからもしないようだ。
一瞬、また《おかしなところ》にきてしまったような感覚におちいる。
「―― ヒコイチさん、お茶と、羊羹でもいかがです?」
ダイキチの声に、ぐい、と頭をひっぱられたように顔をあげた。
「・・い、いただきやす・・」
「それがいい。すこしばかり、《こっち》のものを口にして、《ここ》にいるのをみせつけてやらないと」
「・・・『みせつける』?」
ヒコイチの小声に年寄は微笑んだままなにも言わず、いつの間にか部屋をでていた奥方が、お茶と羊羹をのせた盆をヒコイチの前に置き、「さきに、ようかんを」とせかすように伝えた。
いわれるまま、そのつやのある菓子にクロモジを突き立てた。
主人夫婦がみつめるなか、口にいれ、しっかりと味わったあと、茶でながしこむ。
あまくてうまいのに、まるで、薬を飲んでいる気分だった。
茶たくに器をもどして顔をあげると、こちらをみていた夫婦が、ほめるようにそろってうなずく。




