第85話 空気感染
イリスティーナが立つ床は、ほんの少し前まで彼女自身の血肉にまみれていた床は、今はすっかり綺麗なものだった。
そこに突き立つフランベルジュ――波打つ刃の魔剣イザナミ。サイズとしては片手半剣といったところか、柄尻がちょうど胸の高さに来るそれを、イリスティーナは手に取った。
切先を床から抜き、両手で下段に構えるその所作は、滑らかにして流麗。立ち方は余計な強張りがなく、天から吊り下げられているかのような幽玄のありさま。明らかにアイオーンの修行を受けた気配。
そこには美しさすらあった。
特にロヴィッサにとっては、それは希生に感じるのと同種の美しさでもあり、それが戦慄と覚悟とに繋がっていく。
思考盗聴するまでもない。全て顔に出ている。後悔と、罪悪感も。
「キキさん……。本当に申し訳ないことをしてしまいました。わたくしが、辺境伯に、イザナミさんを……」
「イザナミさまから。戻った。ね」
ロヴィッサは激昂を自制するように、イリスティーナの持つ魔剣を睨みつけた。
以前イザナミが眠っていたころには、『イザナミさん』だった。先ほど目覚めさせて使ったときには『イザナミさま』で、今はまた『さん』に戻っている。
希生たちの力になるからこその、感謝と敬意から来る『さま』だったのだ。そのハズだった。
「あなたが――ッ」
床を叩く音が、ロヴィッサの声を遮った。
イリスティーナが、イザナミの切先を床に叩き付けたのだ。
「この一戦だけよ。この一戦だけ……イザナミ、あなたを『使う』。黙って使われなさい」
「……」
あまりにも冷たい声だった。人が奴隷や家畜にかけるよりも温度のない声。
それが二重規範だと、彼女は気付かないのだろうか。アイオーンについては本人の意思すら無視して道具から解放しようとし、イザナミについては冷徹に使うこと。
イザナミが黙ったのは、単に黙ってほしい要請を受諾しただけのようだが。むしろ嬉しそうな気すら伝わってくる。
「キキ・ムトー。アイオーンはあなたを気に入ってるみたいね。でも良くないわ、そういうのは。分かるでしょう?」
「分からないね」
会話が通じる気はしないが、希生は即答した。
先ほど壁に叩き付けられたダメージは回復魔法で治癒済み。アイオーンは鞘に収め、しかし左右の手は鞘と柄から離れぬ居合の構えにて。
「アイオーンは、確かに生まれはわたしたちとは違う……。でも、その子だって人間なの。同じ人間なのよ。道具扱いするなんておかしいわ。人として幸せに生きる権利がある」
「本人は道具として生きたいと言ってる」
「可哀想に。道具である自分しか知らないから……。本当の幸せを知らないから。ひもじい者が、テーブルいっぱいのご馳走よりも、たったのパン一口こそを求めてしまうように……」
イリスティーナは悲しげに目を伏せ、まるで泣くように濡れた声で語る。
しかもそれがお為ごかしでなく、心底から本気で言っている気を伴って。
「こうして対面することになった以上、まずは言葉で要求するわ。アイオーンとの契約を解除し、化身体も返してあげて」
「断る。実行すればわたしが死ぬし、それ以上に、イオは今の状態が幸せだから……。人として生きるよりもね。魚は水で生きるべきであって、無理に人と同じ陸に上げたって、いいことは何もないんだよ」
「そう……。まあ……そう答えるんでしょうねえ……」
イリスティーナがその場でイザナミの切先を斜めに跳ね上げ、そして高い位置で水平に薙ぎ払った。まるで目の前の虚空に誰かがいて、その顔面か首かを断とうと言わんばかりに。
虚空だ、そこには誰もいない。希生とロヴィッサとは廊下の外と内とを隔てる壁際に、イリスティーナはその反対、廊下と部屋とを隔てる壁際にいる。距離にして3mほど。
だがその斬撃は届くのだと、希生もロヴィッサも瞬間的に悟った。
その上で、希生の回避は遅れた――ロヴィッサが自分を庇おうとしていることも、同時に察知したからだ。
避ける、いや、ロヴィッサを避けさせなくては。感知は一瞬でも、反応には0.1秒もかかる。斜め前に立っていたロヴィッサを合気でどかそうと背に触れたときには、既に手遅れだった。
その触れた腕に、彼女の首が落ちてきた。
「ッ、……!」
幻覚でも偽物でもない。それは首を断たれたロヴィッサの、正真正銘、その首から上。
断面から鮮血をこぼしながら、眼球が回り、視線が希生と絡んだ。申し訳――と、唇が動いた。最後までは読み取れなかった。
斬首により、しかし人はその瞬間には死なない。脳への血液供給が不足することが直接的死因であり、よってそれまでの数秒~十数秒程度は意識が持ち得る。
腕にぶつかって床に転がり落ちそうになる生首を慌てて掌に乗せる。全身を弛緩させ排泄物を漏らして足元を汚す首から下を、背から支えた。
その腹部に更に飛ぶ斬撃が走り、内臓がこぼれ出す。
こんなありさまでも、数秒はまだ生きている。
そう、『まだ生きている』のだ。
死を想い、故に生に安心する、異形の明鏡止水。
生きていると知り、故に死に怯える、死の極限集中。
生死両輪の境地が、今、希生本人ではなくロヴィッサの死に際して発現した。
ロヴィッサの頭部を最低限の力で投げ上げて首に乗せ、その首の上下を纏めて貫き縫い付けるよう、右手が彼女の竜の長剣を手からもぎ取って突き刺した。更にそれと交差させるように、左手もアイオーンを突き刺す。
更に骨盤の回転で生じた運動量を、脚に脚を絡めて伝達、密着し支えていたロヴィッサの体を投げ飛ばす――彼女は窓を突き破って、3階から外に落ちる。
一連の動作は迅速にして精確。全ての動作をほぼ同時一瞬にて終え、イリスティーナにそれ以上傷つけさせはしない。
「イオ!」
「任せてですよう!」
数秒から十数秒は生きているのなら、その間に『繋げて』しまえば、血流は復活して死を免れる道理。
アイオーンを通してロヴィッサに霊脈を吸収させ、その力で回復魔法を行使、更に加工されてなお莫大な生命力を有する竜の長剣を吸収回復の魔道具へと変え、治癒力を強化すれば。
ヒューゴに施したのと同じだ。違うのは、主に地中を通るとされる霊脈を求めて、3階から地面に突き落としてしまったこと。バラバラにならないよう、上手く足から落ちるようには調整したが。
そしてそもそも、ここの地下に霊脈は通っているのか、という問題。一大領地の領主の屋敷なのだ、より繁栄を求めて霊脈の上に建てることは充分に考えられるが、そこは最早賭けだった。
それでも賭けなければ確実に死ぬ。ほかに道はなかった。
「あら……素早いわねえ」
「おかげさまでね……!」
竜長剣が無事に魔道具化し、ロヴィッサの容態が安定するまで、アイオーンなしで凌がねばらならぬとしても。
ああ、後悔はない。
希生は滑るように疾駆、イリスティーナに肉薄していく。飛ぶ斬撃が脅威なら、飛ばしても意味のない間合へと。
それでもそこに辿り着くまでに、一撃は確実に飛んでくる。
イリスティーナの袈裟懸けが虚空を斬り裂いた。
心眼で知る。振り抜かれたイザナミから空気へ、魔力が『感染』している。
空気が太刀筋通りに斬り裂かれ、その斬撃現象が隣の空気へ隣の空気へと連続的に感染伝播し、やがてはその延長上に存在する標的にすら感染し斬り裂くのだ。そしてそれが一瞬で完了する。
その一瞬を見切って、希生は身を捌いた。
意図して左前方へと身を沈めるように崩し、袈裟懸けの延長線を掻い潜る。背後の壁が斬れた。
「『斬撃病』――『空気感染』ってところか……!」
「そのようねえ」
希生は姿勢を崩しながらも、崩れる勢いをすら前進に利用。
飛ぶ斬撃の間合を越え、直接斬撃の間合へと至った。
素手の間合まで未だ、数歩が遠い。




