第84話 イリスティーナ
先ほどまでイリスティーナだった、バラバラの血肉の海に、『殺戮の魔剣』イザナミが落ちて突き立った。血肉が蠢く。
イザナミを落としたロヴィッサは、何が起きたのか分からずに、半ばキョトンとしていた。
それはあまりにも不自然な落ち方だったから。ロヴィッサが落としたというより、魔剣の方が手から出ていったような。
いや、『ような』ではない、その通りなのだ。
天上七剣は、自らの意思で主を選ぶ。
「ロヴィッサ。イザナミとは、契約は……」
「そういえば……しておりませんね」
魔剣と所有者とは、『契約』によってより強く結びつく。
単なる持ち主と正式な使い手との差がそこにある。
床に刺さったイザナミの、その向こう側に、ふとひとりの女が現れた。
長く乱雑な黒髪を振り乱すような、前髪の隙間から辛うじて覗く片目で外を窺うような、陰気を通り越して不気味な、裸体の女だった。
「イザナミ……! 希生、」
アイオーンが焦った声を出す。
それを最後まで聞く前に、希生はアイオーンによる刺突で女の心臓を狙い、
「がっ――は、……ッ!!」
気付けば廊下の壁に叩き付けられていた。
途中をまるで認識できなかった。何をされた? いったいどれだけの速さで?
それでも無意識のうちに、体幹の撓りで衝撃の大半を吸収していた。だから重傷は避けられた。
床に尻餅をつく、手をついて立ち上がる、アイオーンの回復魔法を受けながら。
「んもう! だから手を出さないでって言おうとしたですのに!」
「ごめん」
「キキさん!? いったい……!」
ロヴィッサなど、それからようやく振り返り、希生の前に駆け寄る始末だ。
それだけ生物の反応速度というものを超越した反撃だった。
だのに、なぜ生きている? 急所を破壊することもできたハズだが。それを問うように、希生は女を見た。
イザナミの傍らに現れた裸体の女は――これは、これも、イザナミだ。
天上七剣は心を持ち、それに相応しい『人の体』をも持つ。
化身体、一切の枷のない万全のそれの力が、これほどまでとは。
しかもそれがイリスティーナに――既に死んだ人間に味方するとは、如何なることなのか?
いや違う。
希生だとて、アイオーンを味方につけたのは死んでからだ。
イザナミの髪の隙間から、片目がぎょろりとこちらを見た。
「アイオーン。お前。面白いこと。やってるんだね」
「イザナミ! 本当に、本当に、『それ』をするんです? アイオーンの言うことじゃないかもですけど、そんな曲芸、自分の全てを捨てるか捧げるかの覚悟でないと……!」
アイオーンの声音は、その表情は複雑だった。
止めたくもあり、そのままやらせたくもあり、二律背反の風情。
対してイザナミは、極めて安定していた。淡々と、しかし高揚していた。
「こんな子を。待ってた。とっても。一途で。好み」
イリスティーナの海から、無数の光の粒が立ち上る。それはイザナミの眼前で凝集、ひとつの塊となった。
拳大の、ゆっくりと脈動する淡い光の塊。
希生は見覚えがあった。もう遠い昔のことのようだ。
「イリスティーナ。イリス。契約」
「やめっ――」
「ダメですよう!」
イザナミを止めようとする希生を、アイオーンが止めた。同時に動き出そうとしていたロヴィッサも、アイオーンのただならぬ声に急停止する。
ふたりして、視線でアイオーンに問いかけた。
「完全体のイザナミに勝てるわけないんですよう。アイオーンも万全ならともかく。それよりも……だから今は、待った方がいい。イリスに勝つためには」
「それって……つまり、やっぱり……」
希生は二の句を継げなかった。こんなことってあるか?
「主となり。剣士として。イザナミを振るって。イザナミは。お前の力に。なるから」
「――」
「お前の。渇望を。叶えて。ね」
「――」
光の塊が頷くように脈動する。
イザナミは頷き返すとそれを掴み、自らの口に入れて飲み込んだ。
「あ。わ。ば。ば。べべべ。ぎげぐご」
そしてガクガクと痙攣し、意味のない文字列を苦悶めいてこぼした。
イリスティーナの血肉の海が竜巻めいて渦巻きながら持ち上がり、イザナミに纏う。
イザナミを芯に、血肉が凝集――融合――イザナミが、変わる。
長く乱雑に振り乱すようですらあった黒髪は、緩く波打つ豊かな金髪に。
深淵の色を湛えるぎょろりとした目は、意思の強さを窺わせる切れ長の青に。
特筆して低くも高くもない背丈は、頭ひとつ分の半分以上も長身に。
一糸纏わぬ裸体は、連なる花々と剣との紋章を宿した黒い軍服に。
「ああ――生まれ変わったようねえ……」
発した声は、独特なテンポの眠そうなそれではなく、ゆったりとささやくようで、しかしよく通る。
そこにいるのは最早、イリスティーナだった。
契約した魂に化身体を明け渡し、新たな肉体を与えることで復活させる行為。
希生とアイオーンとの例と異なるのは、すぐそこに新鮮な生前の肉体があったことか。それを取り込んで化身体を再構築、本人におおむね合致した肉体を作り上げた。
おおむね、だ。分かる。心眼を持つ希生には、ロヴィッサのイザナミにバラバラにされる前のイリスティーナと今のイリスティーナとは、身長や骨格や筋肉の付き方などが微妙に変わっていることが窺える。1mmか、それよりも小さな単位で。
あくまでも素の化身体を芯にしたからで、そうしなければ復活はできなかったのだろう。
つまり魂を肉体に無理やり定着させるため、今のイザナミは魔力と集中力との大半を費やしているハズ。
アイオーンと同じだ。潜在能力の全てを発揮することはできない。
肉体が生前に近いことにより、魂と肉体との同調率が最初から高いことを考えても、戦闘力は今の希生と比較になる程度――『その程度』ではないかと思われる。
アイオーンは、だから、それを待ったのだ。
万全のイザナミには勝てないから、本人が自ら万全を捨て去ることを、覚悟した。
イザナミ本人にとっては、自分が勝つことよりも、気に入ったイリスティーナを勝たせる方が遥かに重要だと理解して。
天上七剣は、道具だから。
そこまで分かってなお、希生もロヴィッサも動けなかった。
それは死と復活とを経験して泰然としているイリスティーナの異常性にか、触れれば死ぬイザナミの剣への恐怖ゆえか。
後者は、イザナミの魔法能力が低下している以上、先ほどのような絶対的な威力はないハズだが。
イリスティーナが希生を――否、アイオーンを見た。
微笑む。
「おかえりなさい。アイオーン」
「イリス……。アイオーンは、帰ってきたつもりはないんですよう。これから帰るつもりも。イリスは、アイオーンを捨てた。もう希生のモノですもん」
「誰のモノでもないわ。アイオーン、あなたはあなた自身のモノ。わたしと一緒に、人として、幸せを掴んで生きていきましょう」
アイオーンは怒りに震え、イリスティーナはあくまでも優しく。
それは威圧や皮肉や揶揄のためではない、心底からの、純粋な優しさ。
「勝手な幸せを押し付けないで! 道具の幸せを奪わないでって言ってるんですよう! 何度も……何度も。何年も! ずっと……! なのに!」
「無駄だよ」
希生は静かに告げた。
「イリスティーナ」
「ああ、キキ・ムトー。ありがとう、アイオーンを連れてきてくれて。ご褒美は何がいいかしら。お金は――竜を狩ったんだもの、もうたくさん持ってるわよねえ。
そうだ、うちの騎士になるのはいかが? アイオーンのお友達として、仲良くしてくれたら嬉しいわ。そうそう、もちろん賞金も取り下げなくっちゃ」
ビッグラージの乗り手を思い出す。自己完結型の人格破綻者を。
いや、あんなのは可愛いものだった。ヤルナリは――そうだ、ヤルナリだ、思い出した――ヤルナリは、ただ猪突猛進過ぎただけだ。ロクに話は聞いてくれなかったが、知識常識の差異から勘違いはあったが、現実を捻じ曲げて受け取ったりはしなかった。
イリスティーナは、そんな生易しいものではない。吐き気がする。
殺さなくてはならない。
この、自分を天使だと思い込んでいる悪魔を。




