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第77話 弓

 飛び散る灰色の破片が脳で、白いのが頭蓋骨だろうか。白くて丸いのは、あれは眼球だろう。金髪が花火のように広がった。

 それらが赤く彩られている。顔にかかった。温かい。

 窓を突き破って音よりも遥かに速く入ってきた1本の矢が――希生を狙っていた矢が、あまりにも運の悪いタイミングでそこに立ち上がったタニヤ少女の頭を、粉々に吹き飛ばした結果だった。

 矢はその衝撃で逸れ、虚空を割って、希生の後ろの壁を突き抜けていった。


 そして矢の纏う衝撃波が山小屋内を駆け巡り、鍋も猟師たちも、そして首から上を失ったタニヤの体も引っ繰り返った。遅れて爆音。

 回転して受け流し、即座に立ち上がることができたのは希生だけだ。


「……マジかよ」


 呻く。

 現在、心眼の半径は数百m――心身の調子によって300~500程度の範囲で変動する。そこに何かが入ってくれば、どれだけ速いものでもすぐに分かる。

 分かることと対処できることとは、違う。


 矢が飛んできたことは分かった。それが自分を狙っていることも分かった。そこにタニヤが割り込んでしまったことも分かった。

 だが彼女を引き倒して射線からどかすには――鍋を挟んだ向こう側という距離は、絶望的に遠かったのだ。伸ばした手は、虚空を撫でるのみだった。


 ひとりでいるべきだった。先客がいた時点で、山小屋に寄るべきではなかった。

 彼らの親密さに、自分と仲間たちとを重ねている場合ではなかった。タニヤの金髪にアンヌを重ねている場合ではなかった。暖かい田舎の空気に、ヤメ村を思い出している場合ではなかった。

 どれだけ後悔しても足りない。


(希生、右へ!)


 1秒にも満たない思考の底なし沼から希生を引き上げたのは、アイオーンからの念話だった。

 右へと言われ、無思考に右へ跳ぶ。山小屋の扉が近付いた。


 或いは指示内容は何でも良かったのかもしれない。

 だが具体的に指示されることで体が反応し、そこから連鎖してようやく、心も反応した。

 呆けている場合ではない。


(イオ)

(この位置! 分かるです? 希生)


 心眼射程内を貫いてきた矢の、その射線は覚えている。それを辿った先に狙撃手はいる。

 その推定位置からは、今いる希生の位置は見えない。窓から覗ける角度の限界がある。死角。


 事実、先の一射から何秒か経ったが、次の矢は来ない。

 心臓が耳元で鳴り響いているかのようだ。心眼の射程が狭まる。ダメだ、もっと落ち着かなくては。


「いてて……。何だあ?」

「うわー鍋まだ残ってたのに……。勿体ねえなあ」

「タニヤ大丈夫かー? あー小便漏らしちまってら、可哀想に。いやそんな顔するなって……。……。顔どこだ? いや、何かおかしいな……。顔どこ? これ床? ありゃ?」


 猟師たちが起き上がり、それぞれに状況を把握しようとし始めた。

 説明している暇はない。まず狙撃手を倒して、何か話をするとしても、それからだ。何を話せばいいのか、まるで見当もつかないが。


(落ち着いたですう?)


 それでも状況の厳しさに、理不尽さに、逆に頭は冷えた。

 アイオーンの問いに頷くや否や、扉を開け山小屋を出ていく。


「おおい、嬢ちゃん?」

「そりゃ逃げるべ。俺らだって、実際逃げた方がいいかもしれねえ。魔物の攻撃かも……。ウルちゃん、タニヤちゃん起こせ」

「ああ、いや、それがよお、さっきから何も返事を……。なあ、顔どこ行っちまったんだ、こいつ」

「ええ……? ……そ、それ……」


 全ての言葉を置き去りにして、希生は逃げた。

 戦いに出たのであり、同時に逃げたのだ。


 陽が傾き、東の空が暗くなりつつある時分、山小屋の外に出ると、更に離れて手近な木々に隠れて身を晦ました。

 そうしながら、改めて思考を纏める。


 敵は狙撃手だ。矢は心眼の範囲外から急に飛び込んできた。

 すなわち数百mという心眼射程の、それよりも遠くに敵はいて、何らかの手段でこちらを発見し、狙い撃って来たのだ。

 それも銃ではなく矢で。普通の弓かクロスボウの類かは分からないが。


(普通の弓ですねー。矢の形で分かるですよう)


 普通の弓らしい。いや、この距離を飛ばせる時点で普通の弓ではないが、そういう意味ではなく。

 ともかくそれで音の数倍で矢を飛ばすとは、いったいどれだけの身体強化を施しているのか。

 数時間前に戦ったビッグラージのオマケの、何だっけ、あの3mもある斧槍を振り回す騎士――あれも少なくともヒューゴ並の筋力はあったが、それより強化率が高いかもしれない。

 そして筋力のみではない、狙いの正確さもある。もしタニヤが立ち上がらなければ、矢は彼女でなく希生の脳をぶちまけるコースで進んでいた。自分だけに当たるのなら、対処はできたと思うが。


 何にせよ、初めてだ――心眼の射程外から攻撃してくる敵は。

 心眼を習得して以来、これまで全ての敵は心眼の内にいた。その動きはもちろん、思考さえも覗き見て、攻略の材料にすることができた。

 それが全くできない。


 矢の飛来した方角からして、敵の所在は恐らく、谷を挟んだ隣の尾根。1kmほどか。

 隠れた木々から僅かに顔を出して窺っても、山肌を覆う森が見えるばかりで、敵らしき影は全く見えなかった。

 砂漠とまでは言わないが、バケツ一杯の砂の中から特定の砂粒ひとつを探し出すような徒労感がある。


 まず接近しなくては話にならない。

 何しろ敵の正確な位置が分からないのでは、遠隔攻撃ができたところで狙いがつかないのだから。


 そして肝心の遠隔攻撃手段は投擲で、これは今の希生が本気を出せば水平方向に500~600m程度は届くだろう。

 だがそれは仰角を上げて最大限に飛距離を稼いだ放物線を描くものであり、速度も音にはまるで届かない。一切反応させずに撃ち抜く場合の有効射程は、実際のところ10m以下。

 つまり、それだけ接近する必要がある。

 こんなものが遠隔攻撃と呼べるのか? 絶望的な気分だ。


 とにかく隣の尾根に渡り、狙撃手を心眼の射程内に入れよう。

 逃げて撒ければいいが、保証はないし、再発見されたらまた近くの誰かが巻き込まれる。冗談ではない。戦うよりほかにない。


 そう覚悟を決めたせいか、惨状から僅かながら時間が経ったせいか、心が落ち着いてきた。心眼の射程が伸びる。500m程度。

 と、その範囲に次の矢が飛び込んできた。着弾まで0.5秒。

 余裕を持って反応し防御できる――狙われたのが、たとえ山小屋であっても。


「な、ッ……!」


 その矢は希生を見向きもしていなかった。山小屋を、正確には、その中の猟師たちを。

 彼らはタニヤの骸を中心に寄り集まっていた。それを見て、しかし何が起きたか分からず、分かりたくなく、意味のない呻きや叫びを繰り返し混乱し、だが目を逸らすこともできないありさま。

 それを纏めて殺そうとしている。矢が直撃せずとも、これだけ近ければ、衝撃波だけで脳を掻き混ぜられるだろう。


 希生は樹木の陰から飛び出しながら、同時にアイオーンを投擲した。ただ投擲のみより、助走距離と投剣の加速とを稼げるからだ。でなくば、直前で矢を弾くには間に合わない。


 時間の進みがゆっくりになる感覚。あまりの焦燥に、いわゆる『ゾーンに入った』状態。

 自らの死を想えず、何の安心感もない。心はただ「やめろ」と叫ぶのみ、既に放たれて、狙撃手本人にもどうしようもないのに。


 投剣アイオーンはほぼ真っ直ぐに飛んでいく。間に合うのか。間に合うのか!?

 矢の前に割り込んで、それを弾き逸らすことができるのか。逸らした角度が小さすぎれば、射線はほぼ変わらずに猟師の誰かを射抜いてしまう。

 空中のアイオーンは遅々として進まず、矢は人が歩くような速さだ。

 早く結果が出てくれ、と焦れる。やめろ、このまま止まってしまえ、当たるな、と恐れが募る。


 時間の流れが正常になったのは、2本目の矢が心眼射程に飛び込んできた時だった。1本目はまだ着弾していない。

 2本目は、樹木から飛び出した希生を狙っていた。手元にアイオーンのない、矢を防げない希生を。飛び出して投げた直後で姿勢が崩れ、咄嗟に避け得ない希生を。その絶妙の間を。


 アイオーンが自らの進行方向に従属異界の空間の穴を開けて飛び込み、出口を希生の手元に開け、戻ってきた。

 希生はその柄を握り、刀身で矢を受け逸らした。莫大な衝撃に押され、轍を作る。


 その頃にはもう、山小屋に生きている者はいなかった。

 増えた骸が転がるのみだ。

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