第7話 欲しいんですよう?
時が止まったかのようだった。少なくとも頬に向かっていた手は中途で止まった。
決して睨まれているわけではない。アイオーンは微笑んでいる。陶然とした顔で、当然のように笑んでいる。
思えば笑顔以外の表情など、今しがた見た寝顔しかない。剣の姿で話すときですら、その口調、声のトーンは、いつだって微笑みの色を濃く含んでいた。
「アイオーンは道具ですよう。持ち主に正しく使ってもらうことが喜び」
手に手を伸ばし、指を絡めてきた。剣ダコの硬さ、掌の柔らかさ。
「いや、はい。ごめんなさい。剣なんだから、武器に使うのが正しい……」
一瞬呆けてから、慌てて手を解こうとする。
しかしアイオーンはぎゅっと握ってきた。
「そう! そうなんですよう。アイオーンは武器なの。キキはアイオーンを使って戦ってくれたらいいの。それ以外の些末事は、ぜーんぶアイオーンが片付けるですから。食料や荷物の持ち運びも、言葉の壁も、そもそも肉体を与えることだって。そのうち新しい化身体を用意できたら、身の周りのお世話をもっとやるですう。そして、戦いのあとにご褒美が必要なら――」
身を寄せてくる。
熱くすらある体温。それが相手の温度なのか、自分の温度なのか、希生にはもう分からなかった。
「――それもアイオーンの役目ですよう」
顔が近い、いや、もう触れている。
頬と頬が緩くこすれ合う。
甘い匂い。欲望が揺らめく。
「ホブとの戦い。素敵だったんですよう。一度死に負けたからこそ生じた、特異な明鏡止水。強さでも自信でもないから、どんな強い相手にだって通じるそれ。戦争も魔法もない国で育ったからこそ、その魂は何の戦闘技術も能力も習得していないまっさらなキャンバス。才能があるってことですよう」
言葉が魂に染み込んでくる。
自分からも手を握った。
「最強の剣として、最強の剣士に振るわれたい。キキは最強の剣士になれる器なんですよう。アイオーンが初めて会うくらいの才能なんですよう。あとはそれを目指す『意志』さえあれば」
確かに魔物がいて死と隣り合わせの世界では、誰もが護身術や武器の扱いを学ぶだろう。そういった既存の技術が、アイオーンの教える技術と喧嘩するかもしれない。
死を経験して生きている者も滅多にいないはずだ。その上で、死に瀕して安心する精神性を得る者はもっと。
希生の才能は得難いものなのだろう。
そして戦いを楽しみたい気持ちも確かにある。
ホブゴブリンとの戦闘はほんの10秒にも満たなかったが、ふとした隙に何度も何度も思い返した。
死の恐怖故の生の安心感。生き延びる安堵感。
それだけではない。
あのとき確かに、希生とホブゴブリンは会話したのだ。言葉は通じなかった。しかし武力を交えることで、命を懸けて、全存在をぶつけ合った。その喜び。
だが『最強』は容易なことではないはずだ。望まぬ戦い、楽しくない戦いも中にはあるだろう。そもそも本当に最強になどなれるのか?
最強を目指すと、軽々に決めることはできない。
「欲しいんですよう?」
至近距離を超えた密着距離で、目と目が合う。吸い込まれるようだ。
「アイオーンのこと、ずっと欲しがってる。もう契約は結んであるのに。アイオーンはキキのもの。キキはアイオーンを振るう」
そうだ、そういう契約だ。
そういう契約で肉体をもらった。
「主のモチベを作るのも、アイオーンのお仕事なんですよう。いい気分で修行してもらうのも……アイオーンのために最強になりたいと思ってもらうのも」
抱き締められる。
脚に脚が絡まる。
「アイオーンの全てを捧げるんですよう。だから、最強になって」
「そ……それで……」
どうしようもなく声は震えた。
「それでいいの? そんな……自分をわたしに売るような……!」
「道具が売り物になるのは当然ですよう?」
あまりにもあっけらかんとした声音だった。
そうだ。人の姿をしていても、彼女は剣なのだ。
人間がよりよい道具を求めるように、道具はよりよい使い手を求める。
そして彼女は、きっと、よりよい使い手を求めるあまり、それを『創り出す』ことに辿り着いてしまった。
希生はそれに選ばれた。認められたのだ。ただの度重なる偶然の果てに。
最強を目指せば、彼女を好きにできる。
この美しく可憐な、理想の人形のような少女を。
生唾を飲み込んだ。
「イオを……わたしのものにして、いいってわけね……」
「キキのものですよう」
年齢=いない歴の希生にとって、それは初めてのキスだった。
あまりにも不器用な、そっと唇で触れるだけの、子供みたいなキス。
唇は柔らかく、温かく、震えていた。いや、震えているのは自分か。
しかし抱き締めてみると、彼女の鼓動も高鳴っていると感じられた。
「イオ……!」
のしかかるように体勢を変え、見下ろす。
彼女はやはり微笑んでいた。
それが満開の花のような笑みに変わる。
「流石に初めてだと緊張するですねー」
とてもそうは見えないあっけらかんとした顔で、しかしよく見ればしっかり頬は染まっていて。
ひとつになるように、ふたりは交わった。
物理的に、ひとつにはなれないのだけれど。
◆
そんな夢から覚めた翌朝。
希生は頭を抱えた。
最強の剣士になると安請け合いしてしまった……。いや、安くはなかったか。
どちらが道具で主なのか分かったものではないが、対価はもらえるのだ。
しかしこれから、いったいどれだけの苦労をすることになるのだろうか?
その度にアイオーンが励ましてくれるだろうと思うと、嬉しいような先が思いやられるような、何とも複雑だ。
とは言え当面、ほかにやることもない。アイオーンを手放して生きていける気もしない。便利な魔剣で、唯一の絶対的な味方だ。
挫折するまでは挑戦してもいいだろう。
それに戦うのは望むところだ。そうと決めれば、とりあえずは気が楽になった。
朝食を済ませると、アンヌの父が早速戦士衆に話をつけてくれると言う。
ふたりで連れ立って集会所に向かった。
この村における戦士衆とは、要するに常備兵力のようなもので、主に魔物の襲撃に備えて村周辺を警邏したり、門衛をしたり、そこから一歩進んで魔物の間引きを行ったり、実際に襲撃を受ければ応戦したりするのだという。
田舎の農村がそれだけの武力を持っていなければならないとは、何とも恐ろしい話に思われた。人間の外敵がそこらじゅうに普通にいる世界では、当然のことなのだろうが。
とは言えこの近辺で魔物と言えば、まずゴブリンに限られる。稀に別の地域から別の魔物が迷い込んでくることはあるし、ゴブリンに棲家を追われた野生動物が害獣となることもあるが、基本的にはゴブリンにさえ対処できれば充分だ。
場所によっては多種の魔物にそれぞれ対策を取らねばならないこともあるそうで、その分はこの村は楽ではある、とアンヌの父は語ってくれた。
それでも雑兵ゴブリンの数とホブゴブリンのパワーは圧倒的だ。言うほど楽な仕事ではあるまい。
集会所に入っていくと、そこには十数人にもなる屈強な男たちが詰めていた。
彼らの視線が、少女の姿をした希生に一斉に集まる。
不審なものを見る目だ。さもありなん。
アンヌの父が希生を紹介しても、それは変わらなかった。
「お前の話は分かったが……本当にそんなガキがホブゴブリンを倒したってのか?」
「ああ、おかげでウチの子は助かった」
「アンヌちゃんのことは良かったよ。だがとても信じられん。お前もその場面を見たわけじゃないんだろ」
「それは……そうだが」
アンヌの父は困った顔をしている。
希生も困った。ただ戦士衆の仕事を見学したいだけなのだが、どうでもいいところに引っかかられている。彼らに認められようが認められまいが、自分には何も影響しないのだ。
認められないと見学できない、というなら別だが……。
その点はどうなの、と、村長の息子で戦士長だという若い男に視線を向ければ、彼もこちらを睨むように見ていた。
「キキとか言ったか。ホブゴブリンってのは、大勢で取り囲んで、弓や槍で少しずつ削ってやっと倒すもんだ。ただの剣士が、それも子供がひとりで倒せるようなもんじゃない。それとも嬢ちゃんは魔術師なのか?」
魔術師ならひとりでも倒せるらしい。
魔法らしい魔法と言えば、結界と従属極小異界くらいしか見ていないし、ほかに身体強化もあるそうだがまだ体験していない。下手に強化すると力のバランスが崩れ、正しい立ち方や歩き方を維持できない場合があるそうだ。暇なときに慣らしておく必要があるだろう。
ともあれ、それらは全て魔剣アイオーンの能力だ。希生自身は何の魔法も使えない。
「いいえ。わたしは剣士です」
「だったらくだらんホラを吹くのはやめることだな。大方、ゴブリンの気が変わってアンヌちゃんを捨て置いたのを拾ったんだろう」
アンヌの父が口を挟んだ。
「しかしホブゴブリンの血によるゴブリン除けを持っていたという話だが……?」
「ああ、はい。これですね」
従属異界からゴブリン除けの杖を取り出した。
血は半ば乾いている。あまりいい匂いはしない。あとで捨てよう。
「……って魔術師じゃねえか!」
「魔剣の能力ですよ。わたし自身は剣士です」
杖をしまいながら、特に気負いもなく答える。
この世界で復活し4日目。たった一度とは言え実戦を完全勝利で経験した希生には、既にして最低限の剣士の貫録が備わっていたし、自身を剣士と名乗ることに戸惑いもなかった。
「なんだ……魔剣が強いだけか」
戦士長は安堵したように言った。
「嬢ちゃん、強すぎる武器を持つと、武器に頼りきりになって成長が阻害されるぜ。将来苦労することになる。ここはいっちょう、木剣で模擬戦をしないか? 本当の戦士ってのを教えてやる。見学だけより、体験した方が学ぶものは多いはずだ」
「普段から木剣で訓練しているんですか?」
「ああ、槍に見立てた棒や盾なんかも使うがな。毎朝ここでミーティングをして、それから当番が警邏に出て、残りが訓練をするのが戦士衆の習慣だ。やってみるか?」
戦士長は自尊心が強いらしい。
その表情と言い口調と言い、『たまたま強い武器を持っているだけで思い上がったガキに現実を教えてやろう』という魂胆が見え見えだった。
希生はもともと人の機微に聡い方ではないが、それでも手に取るように分かった。
殺気と言うほどではないが、害意がそこにあるからだろうか。恐怖の感覚が攻撃の気配を察している気がした。
(イオ。イオじゃない木剣を振ることになるけど、いい?)
(構わないんですよう。アイオーンのキキがちゃーんと強いってところを見せてやるといいんですう)
昨日くらいから、こうしてアイオーンとは念話――心で会話することができるようになっていた。
何でも修行や実戦などで経験を積んだ結果、魂と肉体の同調率が上昇、魂の定着に費やす魔力と集中力に少し余裕ができたため、両者を繋ぐ仮想神経の強度も向上し、思念の一部を共有できるようになったのだと言う。
半分くらい何を言っているのかよく分からなかったが、とにかくそういうことらしい。
短い相談を終え、希生は戦士長に頷いた。
「はい。模擬戦ですよね? ぜひお願いします」
「よく言った!」
戦士長は膝を叩いて立ち上がった。
今日の警邏当番の戦士が、面白い見世物を見られなくて残念そうな顔で出ていくと、残った戦士衆と希生も集会所を出て、併設された訓練所に向かった。
先ほどの建物より広々として、下は床ではなく硬い地面が剥き出し。木や藁によるダミー人形が立ち並び、弓矢用の的などもあって、棚には訓練用の武具が並んでいる。
戦士長はそこから二振りの木剣を取ると、片方はそのまま自分が持ち、もう片方を希生に渡してきた。アイオーンをアンヌの父に預け、木剣を受け取り、訓練所の中央で5mほどの距離を置いて向かい合う。
壁際にはアンヌの父を始め、残りの戦士衆が見物の構えでいた。
「念のため言っておくが、訓練は遊びじゃない。怪我をすることもあるってことは、曲りなりにも剣士を名乗るなら分かってるよな」
「はい、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
戦士長は若々しい男だ。恐らく復活前の年齢で考えれば希生の方が年上だが、今の見た目は少し小柄な少女である。タメ口を聞いて無駄に煽る必要もあるまい。
木剣を緩く握る。無駄な力が入れば、体が硬くなり、動きが鈍ってしまう。
改めて戦士長を観察する。身長は希生より頭1.5個分ほど上。装備は希生と同じ木剣のみで、丈夫そうな麻の上下を着た平服姿。そこから窺える体の線は、充分な筋肉の上に肥満ではない脂肪を纏ったプロレスラーのような体型だ。
それが木剣を大上段に構えているのだから、何とも迫力がある。
刃のない木剣とは言え、本気で振れば骨を折る威力はあるし、頭にでも当たれば死んでもおかしくないはずだ。殺してもいいと思っているのか、怪我をさせない自信があるのか。
顔つきからして、どうも後者らしい。
希生は落ち着いて、剣を正眼に構えた。
「じゃ、誰か開始の合図を」
「うむ」
見物戦士のひとりが片手を振り上げ、
「用意はいいか? ――始め!」
振り下ろした。