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第4話 やる

 ゴブリンは日に1~2度ほど現れては、結界を叩き、騒いで、やはり壊せないと悟ると去っていく。

 その日はゴブリンへの恐怖心を和らげるため、ガンガン叩かれる結界の間際で歩き回る修行をしていた。

 ゴブリンそのものはクローン幼女なのでともかく、彼女らが持つ石槍や石斧といった武器への抵抗感は減じておかねばならない。実戦で恐怖に身が竦めば、待つのは死のみだからだ。

 まるで安全圏からゴブリンを煽っているかのようだったが、大切な修行である。


 正中線を立てた自然な立ち姿から、重心を傾け、進行方向に倒れそうになる力で歩き出す。

 そのまま重力のみを使えば、ゆったりとしながらも見切りにくい歩みになるし、脱力によって力の流れを整えながら骨盤のキレで体を送り出していけば、より速度の乗った縮地となる。


 3日目にして、希生の技量はそこそこの域に達していた。

 何しろ『補助輪』がある。アイオーンが密かに希生の肉体を操作し、正しい動作とその感覚を直接教え込んでいるのだ。これで上達しないわけがない。

 希生の魂の定着に魔力と集中力の大半を喰われている今、この最小限の教示で最大限に加速した修行を行うことこそが、ゴブリンの群れを突破して下山する最善の道だった。


 それでも数の暴力というものは、厳然と存在する。結界が解けるまでの1週間を全て修行に注ぎ込んでも、十数匹、下手をすれば数十匹ものゴブリンをやり過ごすことは難しいだろう。必ずどこかで攻撃を受けて崩されてしまう。

 やはりホブゴブリンが必要だ。ゴブリンらの特記戦力。やたらと強い代わりに、そのホブゴブリン1匹さえ倒せば雑兵は逃げていくと言うなら、これほど有難いことはない。


 だからゴブリンを煽りながら修行する希生たちの前に『それ』が現れたのは、きっと幸運だったのだろう。

 今結界を叩いているゴブリンらとは別に、山道を新たなゴブリンの一団が登ってきた。同じ顔、同じ姿の、クローンのような(単為生殖で増えているなら、実際に遺伝子的にはクローンと変わりやしない)ゴブリンたち。

 その中にただ1匹、全く異なる容姿のゴブリンがいた。


 まず身長が高かった。通常の雑兵ゴブリンが130~140cm程度しかないのに対し、それは2m近くあった。

 そして筋骨隆々だった。雑兵ゴブリンが人間の子供とさして変わらない体格であるのに対し、それは肩幅が広く、手足は丸太のように太かった。体重は100kgを遥かに越しているだろう。

 肌の緑色は色濃く、額の二本角は短剣のように伸びている。

 それでいて顔立ちは確かに雑兵ゴブリンと似ているのだ。姉妹のように。


「ホブゴブリンですよう」


 アイオーンが言った。

 希生は目が放せなかった。

 あまりにも分かりやすく『強そう』すぎる。

 常軌を逸した筋肉の盛り上がり。それ自体も長さ2mほどある石の大斧。

 斧の一撃で太い木を薙ぎ倒すという話が、直感的に納得できてしまう威容。

 勝てない、と反射的に思った。拳をぎゅっと握り締める。


「あれが……。って誰か背負ってるけど」


 そう、ホブゴブリンはその背に何者かを負っていた。仲間のゴブリンだろうか?

 いや違う、肌が白い。角も生えていない。

 あれは人間だ。人間の女の子だ。

 見る限り血は流していないようだ。恐らく生きていて、気を失っている。


「ホブがいて助かったんですようー。今日は修行が未完了ですから、また今度ホブが通ったら、結界を解いて戦おうですう。あと2、3日もあれば、充分勝てるくらいになるんですよう。これで下山できるですね!」

「……あのさ。ゴブリンって確か……雑食で……」


 声は震えていた。


「肉食寄りの雑食ですよう」

「人や家畜も攫って……た、食べるって」

「はいですよう。麓辺りに村があって、そこから攫ってきたんですかねー。巣に持ち帰って食べるつもりっぽいですよう。人間の、特に女の子は美味しいらしくって。今夜はきっとパーティー!」


 普段通りにあっけらかんと明るく言うアイオーンに、信じられない目を向ける。

 人が。

 人が食い殺されるんだぞ。

 漠然とそういう世界だろうとは思っていた。ゴブリンがいて、知らないがほかにも魔物がいて、魔剣があって魔法がある。外敵を持たず平和な現代日本とは比較にならないくらい、殺伐とした世界なのだろうと。

 想像は現実に、まるで追い付いていなかった。


 自らの死を思い出す。死の重さを。

 それがあの、名前も知らない女の子にこれから降りかかるのだ。

 しかも腹を一突きでは済まない、食べられるという何より無慈悲な仕打ち。文字通り原形すら残らない。


「助けないと」


 結界に駆け寄った。雑兵ゴブリンの向こう、ゆっくりと近付いてくるホブゴブリンと配下の姿が見える。

 叩いても蹴っても、結界に穴は開かない。


「ダメですようー。まだ勝てないですもん。たとえ戦わずに上手く彼女だけ奪えたとしたって――その時点で無理ですけど――背負って逃げる間に追いつかれるですし。結界を解除したら、今のアイオーンじゃ同じものはもう張れないですし」


 助けるには結界を解除して出ていかねばらない。

 結界は張り直せない。

 つまり、結界の中に逃げ込むことはできない。

 そして今はまだゴブリンに勝てない。結界を解除すれば死ぬ。

 結論、助けられない。


「本当に勝てないのかよ! ホブゴブリンへの勝率はゼロなのか!?」

「ゼロじゃないですけど。五分五分ですかねー。ゴブリンだけに」


 もしかして今のは上手いこと言ったつもりなのか……?

 気持ちが少し冷えた。

 それは興奮から冷静へと傾いたことを意味する。


「ただし、理想的に戦えれば五分五分、ですよう。それでようやく。ちょっとでも上手くいかなかったら死ぬと思ってですう。だって実戦の恐怖に囚われない修行がぜんぜん未完ですもん。今日から本格的に夢でやろうと思ってたですのに」


 夢の中でも修行三昧だったのは、やはりアイオーンのせいなのか。

 希生はようやくそれを悟った。が、今はいい。


「恐怖に囚われなければ勝てる?」

「五分五分で」

「じゃあやるよ。ここで見捨てるのが怖い。それこそ夢に見る。イオが修行の夢を見せようとしても、きっと上手くいかないくらいに」

「死ぬかもしれないのに?」

「勝てばいい……勝てば……」


 興奮から冷静に傾いて、その上で、希生は戦うことを選択した。

 希生は弱い人間だ。死ぬことは恐ろしいが、見殺しにすることも恐ろしい。

 罪悪感に耐え切れずに自殺したくなったらと思うと、死が怖いのに死にたくなったらと思うと、今死ぬことより恐ろしい。


 肩で息をする。口の中はカラカラに渇いていた。アイオーンの柄を強く握った。

 ホブゴブリンと目が合った。

 彼女は――ホブゴブリンもメスだった――獰猛に笑い、結界へと近づいてくる。元いた雑兵ゴブリンの集団が左右に割れ、ホブゴブリンに道を開ける。


 結界を挟んで睨み合った。

 ホブゴブリンは右手で石の大斧を振り上げる。

 振り下ろした。

 爆発するような衝撃音。斧の着弾点を中心に結界が激しく明滅し、波打ち、歪む。


「これマジに1週間持ったの?」


 あと何発か殴られたら、もう破られそうじゃない?

 笑おうとしたが、顔が引き攣って上手くいかなかった。

 ホブゴブリンは背負っていた女の子を雑兵に渡し、肩をぐるぐると回し準備運動のような動作をした。そして両手で斧を持つ。


「離れてですよう。下がって」


 言われた通りに下がる。一歩下がる度にもっとと言われ、結局、山小屋を背にする位置まで下がった。壁に背中をつけるでもなく、数歩分は空けているが。


「結界を解除したら、真っ先に襲ってくるのはホブですよう。足の速さがぜんぜん違うですから、雑兵は出遅れるんですう。だから、雑兵が追い付いてきて囲まれるまで――それまでの一対一で戦える僅かな間に決着をつけること。これができなきゃ死ぬだけですよう」

「何秒くらいだよ……無理だろ……」

「やめてもいいんですよう?」

「やる」


 歯を食い縛る。

 異世界に来て、新しい体で、魔剣を手に入れて、縮地歩法も身に付けた。

 勝てるはずだ。これが初めての実戦である現実から目を逸らして、血走った目で希生は思った。


 剣を抜く、両手でしっかりと握り締める。やれる。斬れる。

 思えば修行は立ち方と歩き方ばかりで、こうしてまともに剣を握るのは初めてだ。それでも。

 一撃をかわして、空振りの隙をついて一息に斬る。これだ。

 自分の鼓動がうるさい。自分の呼吸がうるさい。


「剣を握るのは、小指と薬指で握るんですよう。それ以外の指の力は抜いて。でないと無駄な力が入って手首が固まって、可動域が狭まるし、力も上手く乗らないんですよう」


 小指と薬指か。

 いきなりそう言われても――いや、やり方はすぐに分かった。

 小指と薬指の付け根、掌に剣ダコがある。このタコに沿うように握ればいいのだ。運動記憶は希生の魂に依存していても、体の形はアイオーンの化身体のままだ。この身で本体である剣を振るっていたのだろう。その経験が剣ダコとなって染み付いている。


 二本の指で剣を握ると、自然、全ての指で握り締めるより力が抜ける。手の力が抜けると、腕や肩の力も抜ける。肩まで抜ければ胸や腹、足腰も抜けていく。

 戦いを前にしてリラックスする。

 そもそも今言われるまで、剣の握り方すら知らなかったことも忘れて。

 切先を自然に相手に向けるそれは、正眼の構えに似ていた。


「そう、そうやってリラックスするんですよう。緊張は体を固めちゃう毒。感覚上はゆる~っと力を抜いた方が、力んで固まるより、柔軟に動いて力を伝えやすいんですよう。深呼吸して。鼻から吸って口から吐くの」


 深呼吸。より落ち着く。


 でも結局は落ち着きが足りないだろうな。アイオーンは密かに思っていた。

 道具である彼女は、使い手である希生の意思に沿う。助言もする、進言もする、しかし最終的な決定権は希生にある。

 だからアイオーンは結界を解くことにしたが、解いて戦うための準備もさせたが、勝てるとはあまり思っていなかった。

 最大限にリラックスして実力を100%発揮して、それでやっと五分五分だ。まず最大限のリラックスができていないのだから、勝率は更に下がる。

 アイオーンが契約主を操作できると言っても、それはごく多少のこと。今のコンディションでは操作し切れない。

 身体強化の魔法も、下手に使えば力加減を誤って動きを阻害する。慣れていない今は使えない。

 異世界人という珍しさへの興味から契約を結んだが、ここで早くもお別れになるかもしれない。希生が死んでも、アイオーンは、永劫の魔剣は死なない。また別の使い手に使われるだけだ。それこそ、今そこにいるホブも候補にはなる。


 希生は知らない。アイオーンに既に半ば諦められていることを。

 もしその諦めを超えて勝ってくれるなら――と思われていることも。


「それじゃあ、開始ですよう?」


 結界の前で、ホブゴブリンは体を捻じって斧を限界まで振り被っていた。

 みちみちと筋肉が軋む音すら聞こえるようだ。

 はち切れそうなその腕に全霊の力を込め、ホブゴブリンは斧を繰り出した。

 激突。結界がヘコみ、斧刃が食い込んで――それでも跳ね返せそうだったが、現実は斧が結界を突き破った。アイオーンが結界を解除するタイミングだったのだろう。

 薄赤い光の膜が無数の破片と散り、崩れ、穴が広がっていく。

 その結界の穴を通って、ホブゴブリンが遂に敷地内へと侵入してきた。


「×××××!」


 理解不能の言語らしき雄叫びを上げ、ホブゴブリンが走り突っ込んでくる。

 余裕を見せて歩いてきたりはしないのは、かえって好都合だ。後続の雑兵ゴブリンとの間が開く。

 しかしその迫力は、まったく不都合だった。


 牙を剥くように笑いながら、斧を振り上げ走り寄る。よく見れば、斧刃には多量の血が付着していた。

 攫った女の子には見た限りでは傷はなかったが、その攫ったときの戦いで誰かを手にかけたのだろうか。彼女を守ろうとした誰かを?

 人を殺すことに躊躇がない。

 脅しのために包丁を持ち、慌てて勢いで人を刺すコンビニ強盗とはわけが違う。


 殺意。

 圧倒的な殺意に、希生は晒された。これが殺気というものなのか。

 一瞬で、緊張を通り越し恐怖する。

 死ぬ。殺される。

 引き伸ばされる時間感覚。

 死ぬ。

 自分が何の覚悟もできていなかったことを知る。

 死ぬ。

 歯が鳴った。視界が滲む。

 死ぬ。

 眼前。吐き気がする。

 死ぬ。

 斧が振り下ろされ始めた。それは脳天から股下までをぐちゃぐちゃにしながら通り過ぎるだろう。

 死ぬ。

 死んでしまう。


 つまり、今は生きている。


 そう思った途端、耐えがたいほどの安心感が心の奥底から爆発的に湧き上がってきた。

 死の恐怖は生の証だ。生きている。生きている!

 これほど強く生を実感したことが、ついぞあるだろうか!?

 一度死んだからこそよく分かる。あの死んでいく感覚、全ての感覚が闇に飲まれていく心地が今はないのだ。


 次の奇跡はないだろう。魂がたまたま異世界に漂着し、たまたまアイオーンに出逢い、体を明け渡されるような奇跡は。

 今度こそ本当に死ぬのだ。

 今はまだ生きている。

 生きているなら安心だ。動ける。

 身を縛る恐怖は、すっかり溶けてなくなっていた。


 股関節の僅かな操作で重心を崩し、重力に引かれながら筋力でも体を送り出す。

 『縮地』。

 伝説に語られる瞬間移動でなくても、頭部に高速で振り下ろされる斧を避けるには充分だった。

 まるでコマ落としのように唐突に立ち位置がズレる。斧は地面に深く突き立ち、粉砕し土砂を巻き上げ、溝を穿った。


 希生はホブゴブリンの右斜め前にて、剣を振り上げ、振り下ろしていた。

 縮地移動の勢いを全て腕に込め、剣に込めれば、物打ちは素早く重かった。立ち方と歩き方が武術の基本であることの意味。それは斬り方にすら繋がっていくからだと、体で理解する。

 薬指と小指で柄を締めれば、剣はすっぽ抜けることもなく、最大限に振られながらもしっかりと止まった。


 ホブゴブリンの右腕が、中途から落ちた。

 希生は小さく微笑んだ。

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