第3話 1日24時間修行
アイテムボックス、もといアイオーンの従属極小異界には食料も入っていた。パンにチーズ、干し肉、漬物などといった前時代的なありさまだったが、腹は膨れるし、デザートにドライフルーツもある。
「て言うか保存食ばっかなんだけど」
「従属異界に入れて、別に時間が止まったりはしないですからねー。冷蔵保存の魔法使うのも面倒でしたし」
「おい永劫の魔剣」
こいつ本当に役に立つのだろうか。
ゴブリンらが飽きたのか、結界を叩く音がいつの間にか聞こえなくなった中で、希生は静かに失礼な思考をしていた。
膝を抱えてパンを齧っていると、アイオーンが注意してくる。
「ほらー、背中ー」
「おっと」
丸まっていた背筋を伸ばす。
座っているときにも修行なのだ。上手く立てたときの感覚の通りに、常に上体を整える。
意識してそれを行い続けるうち、無意識に刻まれ自然とできるようになるからだ。
筋肉は疲れないが、神経が疲れた気がする。
「修行は時間や回数を区切ってやるものじゃないですからねー。1日24時間修行が達人への道ですよう」
とは言え陽は落ち、既に夕方。
季節としては秋なのか、少しだけ肌寒く、空の東側は既に暗くなっている。
闇が来るのだ。電気のないこの山小屋に。
「夜か……」
「怖いんです?」
「そりゃあね。ここ囲炉裏はあるけど、それもそれで火事とか怖いし」
「じゃあ使わない方がいいですかねー。どれくらい放置されてたか分かんないですし。薪はあったですけどー。気温的には毛布被れば大丈夫ですし」
希生は頷いた。
つまり、とっとと寝るのが正解だ。
ほんの昨日まで日本にいたころには、昼夜逆転も徹夜も日常茶飯事だったと言うのに、随分と健康的な早寝を強いられることだ。
溜息が出る。
食べ終えて水を飲んだ。
「それじゃあトイレに行って、着替えて、おやすみですようー」
「……トイレ」
トイレか。
「我慢してるんですよう?」
そう、そうなのだ。
この体で目覚めて数時間。立ち方の修行をし、合間に水分補給をし、先ほども食事をした。
人間、入れれば出る。
「いやそりゃあ……でも……」
しかし今の体はアイオーンの化身体。
元の貧弱成人男性のものではない、可憐な少女の体なのだ。
躊躇うのは無理もない。
ここで喜べる奴は確実に変態だろう――それで希生が変態でない証明にもならないが。
「大丈夫ですよう。人間何事も慣れだってお母さまも言ってたです。あ、アイオーンを作った人のことね」
ヒノコ・アダマンティオス。女だったのか。
「最初は恥ずかしいかもですけど、そのうち何てことなくなるですから。千里の道も一歩から! むしろ楽しむくらいの気持ちで!」
「ここで楽しめたら確実に変態だよね!?」
「人は誰だって大なり小なり変態ですよう。大なり小なり出すのも避けられないですしー」
もしかして今のって上手いこと言ったつもりなのか……?
「真面目な話、キキの体はもう『それ』なんですから、こんなことでいちいち躓いてられないんですよう。恥じらいは心の豊かさですけど、身を縛る毒でもあるんですう。がんばって!」
「他人事だと思って……」
しかし、言う通りである。仕方のないことだ。
意を決し、希生はトイレに挑むことにした。
既に立ち上がっても倒れずにいられる。歩くことも、ぎこちないが可能だ。普通の靴に替えることは許可されなかった。修行に休みはないらしい。
「じゃあスコップ持って外ですようー」
「穴掘り式かあ……」
食料同様に従属極小異界から出したスコップを手に、暗くなる前に外へ。ゴブリンの群れは立ち去っているから助かった。
山小屋の裏手に回り、適当な地面に深さ30cmほどの穴を掘る。
「筋肉に力を入れても地面と反発するだけ。力を抜いて体重を使うのがコツですよう」
そんな抽象的な助言で、と思うが、やってみるとこれが意外と上手くいく。
立ち方の訓練により、無駄な力を抜くということを、希生の体は既に知っているのだ。
立っている地面に対し、体重以上の力をかけることはできない。どれだけ筋力があってもそれは変わらない。体重を効率的に地面に刺す力のかけ方が必要だ。
無駄な力を抜くのは、それは必要な力は入れるということ。そしてそれを阻害しないことだ。
希生は体の使い方というものを、感覚で理解しつつあった。
「掘ってしまった……」
1分もかからない。掘り終えてしまった。
では、あとはやることはひとつだ。
「……どうやんの?」
「まずパンツを下ろして……」
指示に従って事に及ぶ。
その最中であってさえ、天狗下駄を履いたままだった。
「やりづらいんだけど……。しゃがみづらいし」
「それも修行ですよう。下山中、用を足してるときにゴブリンの奇襲を受けるかもしれないでしょう? そんなときにも即応できるように。正しい立ち方ができたとき、どの方向へのどんな動作へも瞬時に移行できるって言った通りですよう」
「しゃがんでるじゃん!」
「立つもしゃがむも似たようなもんですよう。体の各部の重心を、偏りが出ないように配置していくんですう。するとどの方向にも傾きのない、だからどの方向にも傾ける『立ち方』になる」
立つということは、細長い不安定な物体を、倒れやすい不安定な向きで置くということだ。
故に重さに傾きを作らないことが重要になる。
ダルマ落としのパーツを一個一個ズラすことなく、真っ直ぐに積み上げたときが最も安定するということだ。
「背筋は丸めないで伸ばしてー。でも力入れないでー固めないでー」
「トイレくらい静かにやりたい……」
ちり紙で拭いて事を終えると、土をかけて埋めた。
そして山小屋に帰ると、次は寝間着に着替えることになる。
流石に和ゴスは就寝に適さない。そもそも山歩きにも適さないが。
従属極小異界からゆったりとしたシンプルな衣服を取り出すと、アイオーンを帯から外して床に置き、天狗下駄も脱いだ。
数時間ぶりに足裏全体で立つと、しかし、立つのに足裏全体を使っていないことに気付く。体重がかかっているのは、土踏まずのアーチの根元と、爪先辺りくらいだ。
足裏全体で地面を踏みつけるのではなく、本当に必要な部分だけで踏み締める。これもまた無駄を省くことなのだろう。そこさえ意識すれば立つには充分で、逆にそれ以外を使えば上手く立てない気がした。
ともあれ、着替えである。まずは脱がなくてはならない。
羞恥心はあるが、トイレを乗り越えた希生にはそう大きな問題でもなかった。
和ゴスに構造的に分からない部分は特になく、するすると脱ぎ去っていく。
やがて下着姿となった。黒だった。
そんな自分の姿を見下ろし、窓ガラスに姿を映す。
「こんな彼女ほしかったなあ……」
「ロリコンなんです?」
「小学生は流石にアレだから真性ではない」
本当に、精巧極まる人形のような体だった。
それでいて、人間の体が完全な左右対称ではないというような微かな不完全さもがそこにはあり、不気味の谷のような違和感は表れない。
抜けるような白い肌、なだらかな肩、控えめな胸、ほっそりとした腰。
一見華奢だが、太腿に触れればだらしなくない程度に薄らと脂肪を纏い、その奥に充分な筋肉の存在を感じる。そこまで含めて柔らかい。
「ちゃんと立ってみてですう」
窓を鏡にしたまま、真っ直ぐに立つ。
気を付けのように力を入れて身を固めるのではなく、ごく自然に、力を抜いて立つ。
「さっき重心の話をちょっとしたですよね。あれはとっても大事なことなんですよう」
重心。質量の中心点。
「人体には複数の重心があるんですよう。全身の重心。下半身の重心、上半身の重心。それぞれの位置って知ってるです?」
「いや……」
「おへそに触って。そこからちょっとずつ指を下げて……」
その通りにした。
「ゆっくり……行きすぎ……はい止まって。その奥が全身の重心ですよう。骨盤の位置ね」
へその数cm下、下腹部を希生の指は指し示していた。
「そこからもっと下……太腿と太腿の間の空間が下半身の重心。今度は逆に上の方。乳首と乳首の間――」
「乳首!?」
「真面目な話ですよう?」
「いや分かってるけども! でも元の体ならともかく、こんな女の子の体で乳首とか難易度が高いって言うか……」
「どうでもいいんですようー。ともかく、乳首の間の奥、だいたい心臓くらいの位置が上半身の重心ですう。あと、目の間の奥に頭部の重心」
乳首は触れないので、ガラス窓の鏡に映る姿から何とかその位置を割り出す。
「これらの重心を真っ直ぐに積み上げると、無駄な力なしで立てるんですよう。ものを持つとき、一か所だけを持つなら、真ん中を支えるのが重さ的にはいちばん楽でしょう? それとおんなじ。体の真ん中を揃えるんですう。これを正中線って言うんですよう」
「あーなんか格闘漫画で見たわ。人体の真ん中を上下に貫く線で、急所が集まってるとか何とか……」
「それも間違いではないんですけど。人体の真ん中ってゆーのは各重心のこと、上下に貫くのは重心が上下に並んでるから。そーゆー本質を理解するのが重要なんですよう。立つっていうのは、この正中線を真っ直ぐに立てること。でね、じゃあ、基本は『立ち方』と『歩き方』だって話はしたですよね。歩くときは、これをどうすればいいと思うです?」
着替えだったはずが、脱いだところで今この話をしているのは、つまり脱いだ方が体が見えやすいからだろう。よく見て探って覚えろと言っているのだ。
ガラス窓に映る自分を見ながら、希生は前後に歩いてみた。
上体が揺れないよう、慎重にゆっくりと。
「それはこう……正中線をできるだけ崩さないように……?」
「違うんですよう。逆なの。正中線を崩すことで歩くんですよう」
「崩すことで……?」
「重心が動くと、それ以外が引っ張られるの。ほんの僅かな重心の動きでも、それは全体が動くことなの。だから行きたい方向に全身の重心を傾ければ、全身がそっちに勝手に動くんですよう」
「重心を……」
下着姿で鏡を見ていれば、服の上からでは分からないことも分かる。
肌に微かに浮き出た骨の感じから、自分の骨格が透けて見えるのだ。
「全身の重心は骨盤に乗ってるですう。なら、骨盤を動かすの。骨盤は股関節に乗ってる。なら、股関節を動かすの。やってみてですよう」
「股間……」
「股関節」
つまり、脚の付け根だ。希生は詳しく理解していないことだが、この関節はボールジョイントのようになっていて、ほかの多くの関節が単純に開閉するのみであるのに対し、前後左右に自在に動かすことができる。どの方向へも重心を送れるということだ。
股関節を使い重心を僅かに前方に傾ける。体が前方に傾く。
「爪先の力を抜いて。それはブレーキですから」
抜いた。
すると体は前方に倒れそうな力を感じ、しかし自然と脚が前に出て、まるで見えないヒモで重心を引っ張られたかのように、体はするりと前方へ移動していた。その過程は、自分自身にも目で捉え切れなかった。
右脚を出し、左脚を引くと、自然な立ち姿へと回帰する。崩れた正中線が真っ直ぐに戻る。またすぐに歩き出せる、ということ。
「気付いてるです? 今、地面を蹴ってないこと」
確かにそうだ。重心を傾けて体を送り出した、まるで滑るような歩みだった。
それはもちろん、アイオーンがまた『補助輪』をつけていたために初めてとは思えない完成度であり、希生はそうとは知らずに自分を天才だと思っている。
「つまり反動をつけるためにいったん体を屈曲する『予備動作』が要らないんですよう。出が早いし、予測ができないから、相手は対応できない。動きを目で追えない。筋力で体を押し出す普通の歩き走りに対して、引っ張られる重力に体を送り出す筋力を足すから、スピードでも上回るです」
「おお……なんか凄そう」
「凄いんですよう。相手の認識が追い付かないし、動きも実際に素早いから、一瞬で間合いを詰めたり離したり、攻撃からサッと身をかわしたりできる。『縮地』ですう」
「……でも縮地って言うには、地味じゃない?」
それもっと凄い技の名前じゃないの?
希生は訝しんだ。
「縮地の原典はガチの瞬間移動魔法ですよう。そこから転じて、まるで瞬間移動するような歩法を武術界で縮地と呼ぶようになったですう。あくまでも歩法、歩き方の技術ですもん。こんなもんですよう」
「こんなもんかあ……」
「今は相手がいないから凄さが分からないかもですけど、実戦では役に立つからご安心ですよう。もちろん、もっと練度は上げないとですけど。さ、解説おわり! 着替える――前に体も拭いて~」
そういえば着替えの途中だった。
濡れタオル(温かくはない)で体を拭き、それからシンプルながらに可愛らしいパジャマに着替え、敷き布を重ねて敷いて作った布団に寝転んでいく。
思った以上に疲れていたのか、おやすみを言う前にもう眠りに落ちていた。
夢の中では、剣ではなく化身体の姿のアイオーンが出てきて、しかし希生も今の体で、手取り足取り応援されながら、立ち方と歩き方の練習をひたすら繰り返すことになった。
夢とは記憶の整理だとは言え、整理される記憶が偏ってやしないか、と希生は訝しんだ。
「寝てる間も修行! 1日24時間をフルに使えるんですようー。わくわく!」
意識が曖昧な夢の中なら、『補助輪』をある程度大胆につけたり外したりしても気付かれにくい。
むしろ起きている時以上の速度で、修行は進んでいった。
まるで神から力を授かる奇跡のように、希生は魔剣の教えを吸収する。
立てば立ち方を修行し、座れば上体を立てる修行をし、歩けば歩き方の修行をし、寝れば夢で復習し、夢を見ない深い眠りですら、無意識に刻まれた脱力の感覚を体は反復する。
修行に区切りはなく、生活全て、1日24時間全てが修行。しかもその効率は『補助輪』により、通常の数十倍から100倍以上。
そうして2日目が過ぎ、3日目が来て、そして事は起きた。
1週間を待たずに、ゴブリンとの戦いが始まる。