第2話 今の感覚を覚えて
修行はその日のうちに始まった。時間は最大で1週間しかない。1分1秒が惜しいのだ。
結界を叩き続けるゴブリンがあまりにもうるさいため、山小屋へと引っ込む。音が少し遠くなった。
そう広いわけではないが、ひとりで剣を振り回すには充分過ぎるスペースはあった。
ここでいったいどんな技を教わることになるのだろうか。
短い期間で、ゴブリンの群れか、樹木を一撃でへし折るホブゴブリンか、どちらかには勝てるようになる必要がある。つまり、それだけの特別な技術が存在し、アイオーンはそれを覚えさせることができるはず。
アイオーンは魔剣だけあって、魔法にも詳しい様子だ。実際にあれだけの結界を張っている。となると、やはり魔法を絡めて破壊力を引き上げた必殺技のような剣技が想像される。
まずはどんな属性の魔法に適性があるか、調べたりするのだろうか。
こんな状況だが、希生は少しワクワクした。
「それじゃあ修行に使う道具を出すんですよう」
刃物は危ないからとしっかり鞘に収めたアイオーン、その切先から数cm程度の虚空に、暗黒色の穴が開いた。いかにもここから何か物品が出てきそうだ。
「アイテムボックス的な?」
「従属極小異界ですよう」
従属極小異界らしい。
ぽろりと空間の穴から床へと落ちてきたのは、下駄だった。
「……?」
拾い上げ、矯めつ眇めつ観察してみる。
どう見ても下駄だ。ただし歯が一本しかない、天狗下駄と呼ばれるもの。
何かの漫画で達人キャラが履いているのを見たことがある。
「日本とか知ってる?」
「知らないですよう?」
本当に元の世界は未知の異界なのだろうか。
いや、まずアイオーン自体が日本刀のような剣ではないか。
この場所も確かグラジオラス領という話だったし。そういう名の花がある。
「距離の近い異界同士って、中身が似るんですよう。そもそもよく似た『人間』が生息してる時点で、じゃあ人間が生む文化文明だって似やすいんですう。未知の異界に既知のものばっかりあるなんて、決して珍しいことじゃないんですよう」
「そういうもんなのか……」
それはいいとしよう。
しかしなぜ天狗下駄なのか。剣や魔法の修行をするのではないのか。
こんこんと軽く叩いてみても、やはり木製の普通の天狗下駄だった。いや、実物は初めて見るが。
「これを……どう使うの?」
「履くに決まってるんですよう」
心なしか苦笑している声音だった。
履物なのはそりゃあ知っているが!
仕方がない。手にしていたアイオーンを帯に差して手を空け、もともと履いていたヒールの低い編み上げブーツを脱いだ。靴下はよく見れば、親指とそれ以外とが別れた足袋型だったので、そのまま鼻緒を挟めるようだ。腰を下ろし、下駄を履く。
当然、上手く立てない。普通の下駄は二本の歯でバランスを取るところ、これは一本しかないのだ。
ふらつきながらも何とかバランスを取ろうとして、引っくり返って尻を打った。
「いてえ!」
「がんばってですようー。わくわく」
それはまた転ぶのを期待するオノマトペだろうか?
悪戦苦闘しながら、希生はアイオーンにジト目を向けた。
「で、イオさあ……。これが修行にどう関係するわけ? ホブゴブリンを一撃でズンバラリできるような、派手な必殺技に繋がっていく絵が見えないんだけど」
「なに言ってるんです? 修行は『これ』ですよう。天狗下駄で立つこと!」
「えぇ……」
希生は眉根を寄せた。
天狗下駄で立てたからと言って、それが何になるのだろうか。
ちょっとした芸ではあるが、それだけだ。地味だとか派手だとかいう問題ですらない。それでどうやって、ゴブリンを突破して下山するのか。
騙されているのではないだろうか?
アイオーンは今も心を読んでその不満を察しているのだろうが、それを糾弾はしなかった。
「余剰魔力がろくにないですから、魔術戦は無理ですう。剣術戦しかない。じゃあね、キキ、剣で戦う上で大事なのは、剣を自在に操ることだと思うです?」
「……違うの? その言い方だと。分からんけど」
「大事ですけど。でもそれって、『自分を自在に操ること』っていう、もっと大事な土台に乗ってるんですよう。だって、剣を動かすのは自分ですもん。自分を上手く動かせなきゃ、剣も上手く動かせない」
引き続き天狗下駄で立とうとしながら、希生はアイオーンの解説を聞く。
意識は会話により傾き、行動の方は雑によろけて転ぶことの繰り返しとなっていたが。
「じゃあ自分の上手い動かし方ってなにか。突き詰めると、『立ち方』と『歩き方』に帰結するんですよう。それが上手くできれば、上手く動ける。それができないなら、力任せに強引にやるしかないんです。で、普通の人は、立つも歩くも上手くできてるわけじゃない。だからそっから修行なんですう」
「いや……立つことくらいできるけど……?」
「できてないんですようー」
「うわっ」
今度は尻を打ちはしなかったが、転びかけて座り込んだ。
確かに今、この今、上手く立つことはできていない。
バランスを取れず、直立し静止ができない。
「でもそれは天狗下駄だからで……」
「どうして天狗下駄で立てないのかって、バランスがちゃんと取れてないからですよう。いずれかの方向に重心が傾いて、それを力で無理やり支えられないから崩れるんですう。上手く立てたら、それは要らない力なんですよう。無駄を省いて!」
「無駄を省くと、何かいいことあんの!?」
希生は苛立ちながら叫んだ。
「もちろんですよう。まず、疲れにくいですう。余計な消費がないんだから当然ですねー。それからどの方向へのどんな動作にも一瞬で移行できるですし、全身の力を集めて大きな力を出す助けにもなるんですよう。いいこと尽くめ!」
「そんな達人みたいなことが……」
「達人ですよう」
アイオーンはこともなげに言った。
緩やかでいてハキハキした口調で、当然のことのように。
手をついて立ち上がりながら、それを聞く。震える脚。
「さっきも言った通り、魔術戦ができないですから。そして筋力でゴリ押しできようになるほどの筋トレも無理無意味ですう。ホブの方がずっと恵まれた体格してるですからねー。身体強化魔法含めて。じゃあ技術で何とかするしかない。達人になるしかないんですよう」
「……1週間で?」
「最大1週間で。安心していいんですよう。技術って『気付き』ですもん。こう動けばいいって体が気付いたなら、あとはそれを覚え込むだけ! らくらく!」
「楽なわけあるかー! あ、楽だわ」
脚を前後に開いたら立てた。
「あ、それダメですようー。脚は閉じて、普通に真っ直ぐ立つの」
ダメ出しされた。
技術とは気付きではなかったのか。しぶしぶ脚を閉じ、ぷるぷる震えながら己を支える作業に戻る。
とは言え確かに、脚を前後に開いた状態では、疲れにくいとは言えないだろう。上体の重さが腿や膝に来る。
「楽と言えばさ、本当に魔術戦できないの? イオの魔力に空きがなくても、わたしの魔力とか……」
「女の子になったから一人称わたしなんです?」
「違うよ! 男でも普通にわたしって言うだろ! わたしの場合は、中学時代にカッコいい一人称を考えてそのまま使い続けた結果だけど。吾輩とかにしなくて無難なところ選んで良かったよ」
「それはおめでとうですよう。ちなみに中学時代のあだ名は?」
「宅急便だけど。って関係ないよね!?」
「親睦を深める雑談ですようー。くすくす!」
くすくすも口でその通りに発音している。
ウザい。
希生はアイオーンに再びジト目を向ける。と、傾けた頭部の重みでバランスが崩れ、前のめりに倒れた。
「で、魔術戦は?」
「キキに魔力がないからホントに無理ですねー。どんな世界で生きてたんです?」
「魔法のない世界だよ!? 記憶読んだんだよね!?」
「読んだんですよう。じゃあやっぱりそのせいなんですねー。魂が魔力にぜんぜん馴染んでなくって。ある程度馴染みがあれば、魂と化身体の接着の手間もある程度省けるんですけどー。どっちにしたって魔石ないから無理ですけど」
魔石。
「こう……魔物の体内にあって、力の源になってるみたいな」
「よく知ってるんですようー」
えぇ……。
「魔石とは生物の魔力生成器官で、同時に魔力の操作補助器官。これを体内に持つことが魔術師の資格で魔物の条件なんですけど……アイオーンは剣の方に持ってるですから、化身体の方には持ってなかったんですよう」
「だからその化身体に宿ってるわたしも持ってない、か。なんか生えてきたりしないの?」
「時間があれば」
結局はそこがネックか。1週間で達人剣士になるというのも相当に無理だが、それを通さねばならないほどに。
残り1週間の生命かもしれない。暗い気分になってくる。何となく会話を続ける気がなくなった。
すると会話に集中していた意識は、天狗下駄で立つ行為へと帰ってくる。
何度も転び、起き上がり、疲労した体。
しかし希生は立っていた。
「あれ……?」
「今の感覚を覚えて、ですよう」
今の感覚。体のどこがどうなっているのか。どこにどの程度の力が入っているのか、抜けているのか。
脚に無駄な力はなく、震えていない。上体はいずれの方向にも傾いていない。地に直立しているのに、まるで天から吊り下げられているかのような安定感と、しかしその安定感をすぐに如何様にでも崩せる不安定感。
バランスが取れている感覚は、しかし、意識するほど千々に乱れ、やがて倒れそうになり座り込んだ。
今、短い時間、確かに立てていた。
「立ててた」
「意識するとかえって難しいことって、あるですからねー。会話で気を引いて、無意識でやってみてもらったんですよう。ちょっと上手くいった!」
「無意識……」
「ホントは意識してやって、その上でそれを無意識に刻まなきゃいけないんですけどねー。無意識だけでやるんじゃ片手落ち。でもまずは成功体験を積むことが大事なんですよう」
成功体験。そのためにアイオーンは、実は小細工をしていた。
彼女は契約主である希生のバイタルやメンタルを常に把握しているが、それのみならず、それらを操作することも可能だった。
体のどこに、どれだけ力を入れるか、抜くか。それも操作の範疇。
そうして上手く立てるように、気付かれないほど僅かな『補助輪』で立ち方を誘導したのだ。
非常に繊細な魔力制御が必要なため、集中力の大半を希生の魂の定着に使っている今、『補助輪』以上の大きな操作はできない。
それにあくまでも希生が『自分の力で成功した』と感じることが自信に繋がり、ひいては以降の修行の進捗に影響するのだ。
気付かれにくくするために無意識でやってもらったのは本当のことだし、アイオーンには嘘をついている気さえなかった。
全ては使い手のために。それが道具の在り方。
使い方が正しい限りにおいては、だが。
「なんか分かってきた……。力入れちゃダメなんだな。余計な力を抜く……。その方が細かく体を動かせる。力入れると関節が固まるから……」
思惑通り、早速希生は自信をつけ、いい気分で修行を続けている。
ふらつきながらも、立っていられる時間が、数秒から十数秒へと延びていく。
失敗するときも転ぶのではなく、ストンとその場で腰を下ろすようになっていく。
成功はその度にアイオーンが補助しているのだが、それは常に正解を与えてもらっていることに等しい。
通常の師では言葉や手取り足取りで教えるしかないことを、魔剣から正解を『直接』教わることができるのだ。
どうすれば成功するのかを体で知り、それを参考にして、意識してそれを自ら再現できるようになっていく。
繰り返す度、補助は小さく少なくなっていく。
希生は今、このたった十数分で何日分もの修行効果を得ていた。
使い手を著しく成長させる――知性ある道具の真骨頂がそこにあった。
「ところでさ」
「はい」
「この体って、イオの化身体でしょ? イオの体だったわけじゃん? 何で最初から達人的なことできないの?」
アイオーンは教えることはできるが、実践はできない、ということだろうか。
希生は一瞬そう考えるが、そんなはずがあるまい、と思い直す。心身共に正しくそれを理解していなければ、『補助輪』もつけられないはずだ。
「キキの魂の、つまり元の体での運動記憶を、アイオーンの体向けに調整する形で適用してるからですよう。そうしないと魂が体を制御できずに、それこそ上手く動けないですもん。キキ自身の感覚を磨くしかないんですよう」
「そういうもんか」
「そういうもんですう」
楽はできないものらしい。
地球上の誰よりも楽に修行を進めながら、それを知らずに希生は思った。