第1話 異世界ですよう
武藤希生は、産まれた時には未熟児で、あわや死ぬところまで行ったらしい。だから二度とそんなことがないよう、という願いを込めて、希生と名付けられた。
急速に失われていく自分の生命を感じながら、希生は自分の由来を思い出していた。
思い出したところでどうにもならなかった。
近所のコンビニに入り際、逃げ去る強盗に包丁で腹を刺されて押し退けられたのだ。ただ押し退けるだけにしてくれれば良かったものを。
あまりにも突然だった。いや、『人は死ぬものだ』と希生は知っていた――数年前に父が病死し、そのショックで注意力が落ちた母が事故死して以来――が、それが自分自身でも同じことだとは。分かっていたつもりだったが。
血が溢れ続けて止まらない。誰かが警察や救急車を呼ぶ声がぼんやりと聞こえた気がした。
(死にたくない)
既に声に出す体力はなく、唇もろくに動かず震えるだけだった。
希生が死んで、悲しむ者はいない。家族や親戚はいないし、友達や恋人も特にいない。飲みを断っているうちに嫌がらせを受けるようになって職を辞して以来、親の遺産と保険金で生きているため、仕事上の付き合いすらない。趣味もないから同好の士もいない。
次々と浮かんでは消えていく記憶の欠片。走馬灯のように――というあれ。走馬灯の実物を見たことはないが。無数の記憶が無作為に、無為に蘇る。
それで分かったことは、自分がただ生きていただけだったということだ。本気になったことも、情熱を燃やしたこともない。手放したくないものがない。帰りを待つ者も最早ない。全てが上滑りしていく。
思えば空っぽの人生だった。
それでも死にたくない。生きたい。希生は必死に願った。祈った。拳を握り締める。
寒い。視界が暗い。体が思うように動かない。感覚が、痛みすらどんどんなくなっていく。全ての感覚が消え失せたとき、自分は死ぬのだろう。
死んだらどうなる? あの世でもあるのか? 生まれ変わるのか? そのとき、自分は自分でいられるのか。自分が消えることが何より恐ろしい。両親のもとに行ける、とは思い浮かびもしなかった。
生きたい。死にたくない。
握る拳から力が抜けて、意識は闇に飲まれていった。
◆
そして再び意識が戻った。
夢を見ているに近い感覚だった。意識は曖昧で思考は鈍く、光と音はぼんやりとあるが、それ以外の感覚がろくにない。
見渡せば、そこは左右を深い森に挟まれた一本道だ。その勾配、木々の向こうに見える稜線の近さ。山道だろうか。
まるで記憶にない光景だ。
死ぬ間際に見る夢なのか、死んだのが夢だったのか。
どちらにしても、ここはいったいどこなのか。
何が何だか分からないが、自分はまだ死んでいないのだろうか。見下ろしても体はないし、ふわふわと浮いている気がする。これは死んでいる。いわゆる魂だけになっている気がする。
それでもどういうわけか、こうして自我がある。消え去らずに済んだ!
喜んだのも束の間、不意に強烈な眠気が希生を襲った。
まるで意識が蘇ったのが何かの間違いで、それが正されていくかのように。
魂が空気に溶けていく。
肉体が死んで、そして魂も結局は死ぬのだ。
嫌だ! 消えたくない! 死にたくない!
生きたい。生きて特に何かをしたいわけではないが、とにかく生きたい!
空虚で根源的な欲望を声なき声で叫んでいると、ふと、背中に触れるものがあった。
温かく、柔らかい。人の指――のように感じられた。
驚いて振り向く。ふわふわとした動きで全く素早くはなかったが、気持ちの上ではパッと振り向いた。
微笑む少女が立っていた。手を伸ばして、希生に触れていた。
外国人、いや、ハーフだろうか。顔立ちは日本人から少し離れて、しかし違和感があるでもなかった。それよりも精巧な人形のように均整が取れ、シミやホクロのひとつすらないことが目を引いた。可憐な造形だった。
歳は中学生くらいだろうか。姫カットのショートボブに切られた黒髪には左右にリボンが飾られ、丸くぱっちりとした目が希生を見ていた。灰色の虹彩。
その瞳に希生の姿――らしきものが映り込んでいた。拳大の、ゆっくりと脈動する淡い光の塊。やはり魂だけの存在になっているらしい。
少女が希生を掌に乗せると、その手に阻まれて下がよく見えなくなる。そうなるより先に見えた限りでは、少女は和ゴスとでも言うのだろうか、黒と赤を基調とし、リボンやフリルを多くあしらわれたゴスロリ風のドレスでありながら、着物めいた染物の様相を呈する衣装を着ていた。腰には日本刀らしきもの。どこかの山らしいこの場所には、あまりにも不似合いだ。
それがために少女は世界から切り取られたようで、浮いているようで、目を放しがたい存在感を放っていた。
少女の微笑みが深まれば、それはますますのことだった。息を呑む。
「ずいぶんと珍しいんですよう」
鈴を転がすような声、という形容を、希生は生まれて初めて実感した。美しいソプラノだった。
「未知の近傍独立極大異界から漂着した魂なんて。あ、記憶をちょっと読ませてもらったんですけどー。言葉に関してもね。ほら、聞き取れるでしょう?」
いつの間にか記憶を読まれていたらしい。言われてみれば、少女の話すのは確かに日本語だ。しかしそれでは、一瞬のうちにそこまでの情報を読み取り、言語さえ習得してみせたと言うのか。
いったい何者なのか。
なぜ自分に接触してきたのか。
どうするつもりなのか。
自分は消えずに済むのか?
「死にたくないんです?」
そうだ、死にたくない。既に死んでいるが、それでも死にたくない。
もしかして――助けてくれるのか?
「既に魂の拡散は止めてるですけどー。これ以上はなー」
自分が空気に溶けていくような感覚、強烈な眠気は、確かに消え去っていた。安定している。
しかし彼女に手放されれば、希生は今度こそ終わるだろう。予感があった。
「どうしても生きたいんです?」
どうしても。
「たとえ悪魔と契約してでも?」
たとえ悪魔に魂を売ってでも!
声を出している感覚はないが、思うばかりで少女には通じていた。
希生の返答に、少女はにんまりと笑んだ。
「異世界人は初めてですし、試してみてもいいかもですよう。それじゃあ契約しましょう。稀代の鍛冶師にして錬金術師ヒノコ・アダマンティオスが作り上げた『天上七剣』の一振り、『永劫の魔剣』アイオーンと」
少女は胸に手を当て、そう名乗り上げる。
魔剣と聞こえたが、魔剣士の言い間違いだろうか。疑問に思いながらも、希生もまた名乗りを返す。
武藤希生。日本人です。
「じゃあキキ。このアイオーンと契約ですよう。主となり、剣士となり、アイオーンを振るってね。アイオーンはキキの力になるですから」
掌から魂へ、何かが繋がり、熱いものが染み込んでくる感覚があった。
未知の感覚に反射的に拒絶しかけるが、次いで魂に力が漲るような感覚が訪れれば、恐れも消えて受け容れた。
そして『繋がった』。そう感じる。よく分からないが、契約が結ばれたのだろう。
言っている内容が、剣士ではなく剣の視点なことが、やはり気になるが……。
「手始めに、新しい体が必要ですねー。うーんどうしよ」
おい。
「大丈夫ですようー。すぐ思いつくでしょ。魂の拡散止めるのも限界あるですから、すぐに思いつけなかったらアウトですけど」
ちょっと! そんないい加減な!
「まあまあ。限界を延ばすために、とりあえず眠っててくださいですよう。ねーんねーんねこねこー。にゃ~にゃにゃにゃ~」
あまりにも適当な子守唄を歌われ、そんなバカなと思いながら眠気の訪れを感じる。先ほどひとりだった時の眠気と違い、眠れば終わりという予感はない。無駄に心地のいい眠気だった。
魂に目も瞼もないが、それでも目を閉じて、身を任せることにした。
どうせ、ほかにどうしようもないのだ。
◆
目が覚めて最初に見たのは、木製の梁と天井だった。いかにも古びていて、木目模様も汚れて見える。
左を向けば、同じく木製の壁と、ガラス窓。外の光景は眠る前とそう変わらない。
右を向けば、床に日本刀が突き刺さり、その傍らに鞘が置かれている。
内装からして、どうやら小さな山小屋らしい。中央に囲炉裏のようなものがある。どういうわけか、空気が少し血生臭い。少女の姿はない。
上体を起こし、見下ろすと、自分が厚い敷き布の上に寝ていたことを知る。同時に、自分自身が和ゴスを着ていることも知る。
「んん?」
疑問に出た声もまた『鈴を転がすような』もので、思わず喉を押さえると、喉仏がない。
その手を見れば、白魚のような優美さを持ちながら、小指と薬指の付け根の掌にはタコがあった。
髪に触れれば、元の自分より少し長い気がする。左右に飾りリボンが括られている感触。
胸は控えめながらに確かに膨らんでいて、脚の間に手をやると、なかった。
再び日本刀を見た。いや、その磨き抜かれた刀身を鏡代わりとして、映り込む自分の姿を希生は見た。
あの少女がそこにいた。
「ええー……」
現実逃避気味に、そのまま日本刀を観察する。先端が床に突き刺さっていて全容は見えないが、刃渡りは70cm程度はあるだろうか。
その反りと言い、優雅な刃文と言い、確かに日本刀だろうと思うのだが、鍔や柄など、拵えにはどこか西洋的な趣もあった。あの少女の顔立ちがそうであったような、ハーフめいた雰囲気。
剣に関する鑑定眼などないが、美しい剣だと思えた。あの少女がこの剣を持てば、それはそれは絵になるだろう。
今は自分はその少女の姿になっているようなのだが……。
不意に、剣の刃文が『波打った』。固定された文様であるはずのそれが、まるで音声の周波数を示すかのように波打ったのだ。そう思ったのは、同時に声が聞こえてきたから。
剣から声が聞こえてくる。
「あー。ちょっと寝ちゃってたんですよう」
あの少女の声だった。
「なに……? どういうことなの……? 誰!?」
「『永劫の魔剣』アイオーン。って名乗ったですよね? この剣こそがアイオーンの本体。人間の姿は化身体って言って、まあ仮のものってゆーか、自分で歩きたいときとかに使うものなんですけど」
声の度に刃文を揺らしながら、剣は――アイオーンはよく通る声で言う。
こうして聞いていると、希生の声とアイオーンの声とは違う。余人が聞けば同じなのかもしれないが、希生には微妙に違って聞こえる。自分の声を録音して聞くと違う声になる現象と同じだろう。空気を伝った音波を耳だけで聞くか、体内を響く骨伝導でも同時に聞くかによる、聞こえ方の違い。
姿が全く同じになってしまったのだ、声すらも同じだったら、耐えられなかったかもしれない。元の自分とはかけ離れた声でも、『それがアイオーンの声ではない』と感じられるならマシだ。
「で、アイオーンさん」
「さんは要らないですよう。キキの所有物ですしー」
「じゃあアイオーン」
「思い切ってあだ名にしてみたり」
「……イオ?」
「はい!」
いい顔で笑っているのが、あまりにも容易く想像できる声だった。
「ところで今さらですけどキキはキキ呼びでいいんです? ご主人さま、旦那さま、マスター、お兄ちゃん、どんな呼び方でもこのアイオーンが愛情を込めて呼ばせていただくんですよう」
「いや普通でいいから。で、なに? 結局何がどういうことなの?」
「手頃な体がないから、アイオーンのを使ったんですよう」
一文で終わった。
希生は頭を抱えた。重大な事態のはずなのに、あまりにも軽い口調で言われた。
と言うか、そうか、つまり、全て夢ではなかったのだ。死んだことも、魂となってアイオーンに会ったことも。
「化身体ってホントに必要かなー? 念動魔術で良くない? って作られてから長年ずっと思ってたんですけど、必要でしたねー。こんな形で役に立つとは思いませんでした! 流石は最強の魔剣のアイオーン! きゃっきゃっ」
きゃっきゃっ、は恐らくはしゃいでいる様子のオノマトペだと思うのだが、それを口でそのまま発音している。いや、剣だから口はないが。
「まあ……死んで魂だけになってここに来たみたいだし、元の体なんてないし……」
性別が変わったことも、今はまだ実感が湧かない。
「そういえば、ここ何なん? どこ?」
そう、それも気になっていた。死んだあと、気が付いたら来ていたから、あの世だろうか?
「リュオルフ王国東方面のグラジオラス辺境伯領、フィーユ山脈の一角ですよう。ってゆーことを聞きたいんじゃないですよね? 分かってるです分かってるです」
まあまあ逸らないで、というような口調だった。
「異世界ですよう」
また一文で終わってしまった。
顎をしゃくって詳細を促す。
「世界ってゆーのはいくつもあって、まあそれぞれに独立してたりくっついたり離れたりすれ違ったりいろいろしてるんですけど、そんな中で世界を越えて呼び出されたり、たまたま迷い込んじゃったりってことは稀にあるんですよう。キキはそーゆー世界の迷子だと思うの。そこに理由があるのかないのかは……。アイオーンより前に誰かと会ったりはしてないみたいですよね」
頷く。
気付いたらあそこにいて、そしてすぐにアイオーンと出会ったのだ。召喚主を名乗る何者かはいなかった。
やはり偶然の迷子なのだろう。
「ってなると、元の世界に戻るのは難しいですねー。てゆーかほぼ無理? 軽く記憶読んだ感じ、未知の異界っぽかったですから。まあ深く読めば違うかもしれないし、アイオーンにとって未知なだけで、誰かが知ってるかもしれないですけどー。ともあれ知る限り航路は確立されてないですし、てゆーかされてる方が珍しいですし。世界間跳躍ができる魔術師も滅多にいないですしー」
「最初の時も思ったけどさ、さらっとひとの記憶読むのやめない?」
「そこですかー」
帰れない、ああ、重大なのだろう。
だが希生に待っている人はいないし、失くして惜しいものもない。
いや金は多少惜しいが。それも殆どは親の遺産と保険金で、自分で稼いだものばかりではない。
「今生きてるからいいよ。こっちの世界で生きるのも……イオが助けてくれるんでしょ」
「それはもちろん! キキと契約した魔剣ですからねー! バンバンお助けですよう。手始めに、この山を下りて人里に向かうところからですねー」
そうだ、現在地は無人の山小屋だった。
山道があったはずだから、遭難せずに下山できるだろうか。道が途切れていたりしないだろうか。あるいは獣が出るのも困る。
「やっぱり熊とか出るの?」
危機の実感があまりにも薄っぺらなまま、何の気なしに聞く。
「熊も出るですけど。それより――」
言いかけたアイオーンが黙ったのは、その時、山小屋の外から何かを激しく叩く音が聞こえてきたからだ。山小屋の扉ではなく、もっと向こうで、多数の何か重いものが、何か硬いものを何度も殴打している。
急な音に驚いて首を竦めながら、希生は音の方角に目を向けた。壁が見える。
「実際に見てみるのが早いですねー。行ってみるといいんですよう。結界張ってあって安全ですから、大丈夫ですよう?」
「結界って……」
そもそも、アイオーンという喋る魔剣の存在自体が超常のものだ。結界というオカルトが実在していても不思議ではない。
音は結界を壊そうと叩いているのだろう。
ともすれば、人智を超えた魔物の類が。
未だそれを目にしていない希生は、むしろファンタジー存在への期待感で目を輝かせた。そういったものは嫌いではない。
立ち上がる。体は違和感なく動いた。まるで産まれた時からこの体だったかのようだ。
アイオーンである剣を握り、床から引き抜いて持っていく。安全とは言われたが、備えはあってもいいだろう。たとえ剣の心得など一切なくてもだ。一緒に行かない意味もないし。
扉を開け、外へ出ていく。
山小屋の前に山道が通っている。その一帯、山小屋を中心に半径十数m程度が、薄赤い半透明の光の膜によってドーム状に覆われていた。これが結界だろう。
結界を挟んですぐ向こう側に、それらはいた。
それらは人間によく似ていた。麻らしき貫頭衣を纏い、何らかの獣の角を加工したのだろう首飾りをつけ、手に手に石槍や石斧を持ち結界を叩く姿は、原始人を思わせる。足元は素足ではなく、紐で足首に結びつけるタイプのサンダルを履いている。
その全てが、幼い少女の姿をしていた。アイオーンの化身体、今の希生の姿よりもう何歳か若い、小学生くらいだ。それが血走った目で、何か解読不能の言語らしき叫び声をあげている。
その肌は緑色で、耳は尖った形をして、犬歯が発達し牙のようで、額に二本の小さな角が生えていた。髪は普通に金色だった。
何よりの異常は、その全てが『同じ姿をしている』ということだ。身長が同じ、体格が同じ、顔立ちが同じ、結界を破壊できなくて苛立つ表情も同じ。まるでクローンの群れだ。
それが10人近く。
「ゴブリンですよう」
「あれゴブリンなの!?」
ゴブリンってもっとこう、しわくちゃで鷲鼻で、醜い外見をしているんじゃないのか……?
肌色とか角とか細かいところ除いたら人間じゃねーか。
小さいのはイメージ通りだが、それでも幼女の群れは何かがおかしい。
「ふーん、キキのゴブリンのイメージってそーゆーのなんです?」
「さらっとひとの思考読むのやめない?」
「契約主のメンタルやバイタルの把握は大切ですよう」
恐る恐る結界に近づいてみる。
剣を持った希生の接近に伴って、ゴブリンらはますます興奮し結界に武器を叩きつけるが、壊れる様子はなかった。
「ゴブリンは繁殖力に優れた魔人種ですう。成長が早い上に単為生殖が可能で、エサさえあればバンバン増えるです。代わりに、成体になっても、見た通り子供みたいなんですけど。食性は肉食寄りの雑食。人や家畜も攫ってエサにするから困るんですよねー。ここら辺はフィーユ山脈の中でもゴブリンの中心的な支配域からはちょっと外れてるから、数が少なめですよう」
「これで少ないのかよ……」
10人(匹?)近くいるぞ。あ、あとから少し来て増えた。
原始人のような緑肌クローン幼女の集団が結界をやたらと叩いている光景をずっと見ていると、気が滅入ってくる。
「とにかくこの……ゴブリンの群れを突破しないと下山できない、と」
「ですよう」
「って言っても……楽勝じゃない?」
希生は手の中のアイオーンに視線を落とした。
「何とかっていう誰かが作った、物凄い魔剣なんでしょ? ゴブリンとかどうせザコ枠だし、一捻りでしょ」
「稀代の鍛冶師にして錬金術師ヒノコ・アダマンティオスが作り上げた『天上七剣』の一振り、『永劫の魔剣』アイオーンですよう。なんですけどー」
なんだか歯切れが悪い。
希生は鍔を指で叩いて、先を促した。
「なんですけど、力の大半が封じられてるんですよねー、今。ゴブリンの群れとかちょいヤバ」
「えぇ……」
めちゃくちゃアテにしていたのに……。
「キキの魂を化身体に無理やり定着させるために、常にアホみたいな量の魔力を消費してるからですよう?」
「すいません……」
「ホントなら天を裂き地を砕くも朝飯前なんですけどねー。最強かっこわらいの魔剣ですよう」
剣なのに朝飯を食べるのか……?
しかし、そんな力技で体をくれていたとは。
さて、となると、どうするか。
希生は喧嘩もろくにしたことがない貧弱な凡人である。
アイオーンに特別な能力が何らなくても、流石に純粋な剣としての性能、切れ味や頑丈さは相応のものがあるはずだ。
しかしそんなものは焼け石に水。あれだけの数の武器を持ったゴブリンに囲まれてしまえば、たとえ相手が幼女だとしてもあっと言う間にやられてしまう。多勢に無勢だ。
少々ロリコンの気がある希生としては、幼女に寄って集って殺されるなら本望なのではないか、と一瞬血迷うが、そんなはずがない。
どんな形であれ、死ぬのは嫌だ。だから魂の拡散を拒み、ここでこうしているのである。
「何か方法は?」
「ひとつにはホブゴブリンを待つことですよう」
ホブゴブリン。
「ゴブリンの一形態で、生殖能力を持たない代わりに高い戦闘力を持った個体ですよう。ホブがいるとき、ゴブリンたちはまずホブをぶつけてくる。最大戦力の最大攻撃で出端を挫いて、雑兵ゴブリンがその傷口を広げていく戦法ですう。でも逆に、そこでホブをやっつけちゃうことができれば、雑兵ゴブリンは恐れて逃げ散っていくんですよう。その後もホブの血の匂いがゴブリン除けに!」
「なるほど! たった一匹を倒すだけで群れを追い返せる。効率的な短期決戦を挑めるんだ。で、ホブゴブリンはどれくらい強いの?」
「石斧の一撃で太い木を薙ぎ倒すですう」
「無理」
木を倒すには、人が時間をかけて何度も斧を叩きつけ、更にはその切れ込みの入れ方で木自体の重量すら利用して、それでようやく伐採できるのだ。
それをただの一撃で為す相手に、勝てるわけがない。ミンチになってしまう。
「雑兵に袋叩きにされるのと違って、痛いのは一瞬ですよう? オススメ」
「勧めんな! 何とかならんの!? 魔剣の能力もゼロじゃないんでしょ!?」
アイオーンは力の大半が封じられていると言った。逆に言えば、少しは力を使えるはずだ。
一縷の望みを懸けて問い詰めると、彼女は答えた。
「もちろんですよう。身体強化の魔法! これを使えばなんと~」
「なんと!?」
「ホブへの勝率が約1%に上がるんですようー。やったね!」
「やってられねーわ! あっそうだ結界! こんな山小屋の周囲をぐるっと包み込むほど広い結界が張れるんだから、人ひとり分の小さい結界を纏っていくのは」
これは名案だろう。結界を固定された壁ではなく、鎧として使うのだ。雑兵ゴブリンにこれだけ殴られてビクともしない結界なのだから、下山には充分な性能のはずだ。
しかし流石にホブゴブリンは無理だろうか。希生は思案した。
「この結界はキキの施術前に張ったですから、まだ魔力に余裕があったんですようー。だからホブが来ても、効果が切れるまでは安全な程度には強力ですけど。今はもっと小さくて脆い結界しか張れないですう」
「そうか……。て言うか、ちょっと待って、効果が切れるってなに?」
この結界、時間制限あるの?
「そりゃあ込めた魔力にも限りがあって、補充ができないんですから、いつかは結界も消えちゃうんですよう。殴られるペースにもよるですけど、だいたい1週間くらいですねー」
1週間。長いようで短い時間だ。
それだけの時間が過ぎれば、最早身を守る結界はなく、ゴブリンの跋扈するこの山に放り出されることになる。
着の身着のままで。命の恩人だが大した力のない魔剣ひとつを手に。
希生は死を感じた。
「どうすんのこれ……」
声は震えていた。
「あとは、そうですねー。修行でもするです? 1週間でゴブリンに勝てるように」
「修行って……」
結局、修行することになった。
ゴブリンらが結界をガンガン叩き続ける騒音をBGMに、希生は生を希った。