第ニ章3 ヒロインより先に脱ぐ男。そういえば初登場でも脱いでいた。サービスのつもりだろうか。
このファルダン国内において、風呂のある家は珍しい。
元々水の豊かな国と言うわけではない為風呂が贅沢品と言うことも一因ではあるかもしれないが、主な要因は庶民向けの大衆浴場の不潔さからくる国民達の風呂へ偏見と忌避感であると思う。
騎士団にいた俺はわりと風呂で汗を流すのが好きだが、貴族たちの中には風呂が皮膚病の要因になるだとかいう流言を信じているものも多く、中には意地でも身体を洗わないと言うおっさんもいるらしい。
侍女たちの噂によればその男に用がある時は臭いを辿れば城の端からだって直ぐに居場所がわかるという。なんというかこう、恐ろしい話だ。決して対面したくない。
青い硝子の石鹸置きから白い塊を取って、充分に泡立てる。雲のような泡が独特の柔らかな芳香を広げ始めたら先に顔と頭を洗い、その後全身を洗って頭から湯で流してゆく。気持ちがいい。やはり風呂というものは心が洗われる。領地の屋敷にある風呂は各部屋の簡易なバスタブのみであったから、年上の友人宅にあるこの部屋ごとの大きな浴場が幼い頃はとても好きで、図々しいくらいに通い詰めていた記憶がある。ラナートはラナートで当時は俺の姉上を好いていたから、俺の幼い図々しさを寧ろ積極的に受け入れてくれていたようではあるが。
お互い代替わりのドタバタがあったからこの館に泊まるのはもう10年近くぶりになるだろうか。
つくづく、時が経つのは早いものだ。
この国の騎士の象徴である長い髪をまとめて、香油が垂らしてあるらしい湯の中に浸かる。と、見計らったように柔らかな声がかけられた。
「リュイボスさん、着替えとタオル、ここ置きますので」
「かたじけない」
礼を言うと、少し笑った気配がする。この娘、呼び方はアルで良いと言ったのに、頑なに苗字呼びから変えようとしない。態度からして嫌われているようにはおもえないが、やはり会って日の浅い男相手では警戒をしているのだろうか。
「ミヤも入るか?」
「おや、良いんですか」
冗談で誘って見れば、ミヤがクスリと笑う声が今度こそはっきりと聞こえた。ーーあまり警戒はしていないらしい。というか、意外と慣れていやがる。
「嘘です。なんてこと言うんですか。リュイボスさんが上がったら私も入って良いそうですから、さっさと洗っちゃってくださいな」
なんとまぁ。傲岸不遜な物言いだ。
「ーー人を急かすな」
返事をするが、ミヤはさっさと部屋へ戻って行ってしまったらしかった。普通の女子であれば(たまに男子も)目を合わせただけでも怯えてくる物だが、あの小娘は、始終至って傲岸不遜だ。なんて奴だ。
あの河原で出会った日、少女は自分が迷子で、おそらく異世界の人間であると名乗った。
肩の下、背中の真ん中あたりでバッサリと切られた黒髪に、裾の恐ろしく短いスカート、それでいて労働を知らない柔らかな手のひら。確かにどの特徴を見てもこの国の人間ではあり得ないが、まさか別の世界から来た、などという世迷言をそのまま信用する訳にも行かない。
とはいえ彼女の目は嘘を付いている様子は無かったから、恐らくはなにかの衝撃で本人は本当にそのように思い込んでしまっているのだろう。
黒髪に黒い目、平坦な顔だちと言えば、数十年以前に滅亡した帝国、タイレイ人の特徴と一致している。
我が国の重鎮であった数代前のロザート大公の奥方レイ=ユーラン皇妃を除いては、国一つまるごと溶岩の下に埋もれてしまった筈であるが、もしかしたら生き残った国民がいたのかも知れない。
国境付近に蔓延る女衒達の中には、そうした「珍しもの」を集めて好事家に高く売りつけて居るような輩もいる。ミヤがそうした見世から逃れて来たのだとすれば、短い髪や奇妙な服装も説明がつくだろう。若しくは……。瀕死の重傷を、たった一晩でほぼ完治させて見せたあの異能。本人は「ふざけんな私じゃねーですよそっちで勝手に治ったんじゃないですか人のせいにすんなです」などと真っ向否定していたが、状況的に彼女の能力以外にありえない。あの異能を求めて襲撃された可能性もあるかもしれない。
元々着ていた服はボタンが引き千切られ、用を為さなくなっていた。親が心配をしている、故郷に帰らねば、と言っていたミヤ。タイレイは既に溶岩の下であり、タイレイ人がどこそこの街に定住しているとの記録もない事から考えると、彼女の両親は各地を転々と渡り歩いていた可能性が高い。そこを襲われたとすると……両親が見つかる可能性は、限りなく低いのでは無いだろうか。
「…………厄介な」
ポツリと呟いた言葉は、湯に溶けて消えていった。
連れの男がそんな厄介な想像を働かせているとはつゆ知らず。
久々の手仕事の達成感に浸っていた弥夜は、唐突なノックの音に機嫌よく返事をした。
「はい、ただ今」
「会いたかったアルヴェーラ!」
「おっふ?!」
扉を開けると突如弾丸のように飛び込んできた塊をうっかり両手で受け止め、つい条件反射で背中をポンポンしてからハッと身体を離した。
「どちら様です?!」
「君は誰だ?!」
ほぼ同時に叫んで、顔を見合わせる。
「失礼した。僕はロザートの第十二子、マティオラだ。君はアルヴェーラの侍女かな?」
「えと、ツヴェルフ、さん?ですか?……えと、すみませんがここはリュイボスさんの部屋でして、アルヴェーラさん?はいらっしゃらないですが」
「おかしいな、ブラントにアルはこっちだって聞いたんだが。ーーあ、それと。僕の事はマティオラと呼んでほしい」
アルはたしかにこの部屋だが、アルヴェーラ、とやらは多分女名では無いだろうか。
乱入者の顔をまじまじと見ると、乱入者ーーマティオラはひょろりと細い肩を竦め、太い眉を器用に片方あげて首を傾げた。
見れば焦げ茶の髪に、茶味がかった緑色の眼をしている。登場の仕方は唐突だったが、何故か見ていて安心する顔立ちの男だ。
「ところで、君は」
マティオラが言いかけた時丁度風呂から上がったらしいアルベルトが戻ってきた。マティオラを見つけ、恐ろしく嫌そうに顔を歪めている。
「…………ツヴェルフが何故ここに」
「アルヴェーラ!!!会いたかった!」
瞬間、マティオラが吹っ飛んだ。ように見えた。
実際のところはアルベルトに向かって飛びついたマティオラを、アルベルトが背負い投げの要領で吹っ飛ばしたようだった。もくもくと埃をあげる壁掛けと、下にパラパラと落ちる石の破片が、その勢いの凄まじさを物語っている。……って、他所様の家でなんて事をしてくれるんだ。
「…………大変ご無礼を、マティオラ=ツヴェルフ・ロザート卿。何用あってこちらに?」
心底嫌そうな低い声ながらそこそこ丁重な口調でアルベルトが問うと、マティオラは花が咲くように色白の頰を綻ばせた。
「いたた……うむ、無論、君に逢いに来たのだ!」
「ほう、わたくしめに会いに、王都からブラント領までわざわざ?」
「愛する人に逢うためならば、距離など問題にはならないだろう?殿下から君が亡くなったと聞いた時は、この僕の心臓こそ止まってしまったかと思ったぞ」
そのまま止まればよかったのに。赤毛の騎士様が、ボソッと騎士らしからぬ発言をした。
「それは、ご心配をおかけしたようでして。私はこの通りピンシャンしておりますれば、ご心配には及びませぬ」
「君はいつだって照れ屋さんだな!」
「あ"?」
低っっっくい声で言いかけて、アルベルトがグッと堪えるように押し黙った。もしかしたらこのマティオラさん、割と身分が高いのかもしれない。
しかしなんだろう、聞く感じによるとこれは、酒天が好きそうな展開だろうか。酒天の薄い本に出てくるみたいな展開だろうか。私はわりと、ノマカプの方が好みなのだが。
「コホン……ご無礼を。しかし卿は王都の守りを任されていたはず。何故都を離れなされた」
「勅を出した王が身罷られたからな」
さらりと言って、マティオラが可愛らしく小首を傾げる。あぁ、なぜか初対面なのに安心すると思ったら、ふとした仕草が海親に似ているんだ。
「王はいない。それでも君が仕えるエルバルド殿下がいればこそ僕があそこを守る意味はあった。しかし下らん貴族らは殿下を見限り、事もあろうに前王弟を新たな王として迎えるらしい。下らん。心底下らない。僕はあんなくそじじいに仕える為に卿になったわけでは無いからね」
「成る程。その意見には賛成です」
アルベルトが頷くと、マティオラはふわりと微笑した。顔立ちはどちらかというと地味であるのに、笑うと急に華やかになる。
「賛成してくれると思っていた」
「……………………私は既に殿下に忠義を捧げておりますれば」
「そういう君に、僕は愛を捧げている。あの舞踏会で君をみた日から、ずっと」
ニッコリと笑って、マティオラがまた可愛らしく小首を傾げる。どうやらこの仕草が癖になっているらしかった。
「舞踏会?」
アルベルトの後ろからひょっこり聞いて見ると、マティオラは花開くように笑み崩れた。
「あれは21の春だった。アルヴェーラは14だったかな。深緑のドレスでバルコニーに立つ姿は、女神の様に美しかった」
「卿、いや弥夜違う、任務で仕方なく……っ」
アルベルトが何故か焦った様に目を泳がせ、マティオラを黙らせようと手を伸ばす。……マティオラが、意外な身の軽さでヒラリと避けた。
「声をかける紳士達を不器用に躱し、やけくその様に微笑みながら僕に向かって進んで来る美少女……。あの人は確かにアルヴェーラと名乗った。わかるかい君、僕は絵をやっている。だから服の上からでもその人のおおよその骨格は手に取るようにわかるんだ。でだよ、その美少女が君、男なんだ。どう見ても男なんだ!!!でも美少女なんだ。僕に向かって微笑んでいるんだ。わかるかい?!」
「なんとなくわかります。男の娘なら仕方がない」
「弥夜?!」
「そうだ。仕方がなかったんだ。その人は暗殺者から俺を守って、見た目よりずっと低い声で、僕の手を取ってこう言ったんだ」
ーーご無事ですか、卿。お部屋へご案内致します。どうかそのまま、御手を。
「僕はその美しい人に恋をしてしまった」
「キャー素敵ー!そのギャップに惚れてしまう!」
アルベルトにギリギリと締め上げられながらうっとりと微笑むマティオラに相槌を打つと、アルベルトが胡乱げにこちらを睨みつけてきた。
ーーと。
「…………おい、貴様らは人の屋敷で何を暴れているんだ?」
思えば扉が開けっ放しであった。
そして、扉の前には大きなゴリラが仁王立ちしている。アルベルトはマティオラを羽交い締めにしたまま、マティオラはされたまま、私はきゃー素敵のポーズのままぽかんと扉を眺めて……つ、と同時に目を逸らした。
なんだろう、お風呂に入りそびれそうな予感がひしひしとするのだが。今のうちにこっそり入っておいた方が良いだろうか。
そろりと抜け出して湯殿の扉を閉めた、瞬間。
若きブラント伯の一喝が、城内全体に響き渡った。
石鹸で髪洗うと大変な事になりますよね。でもリンスすると治る……。