第一章2 認めたくないものだな。異世界トリップなどと言う世迷言は。
夢を見た。
夢の中で私は、静御前みたいな白と緋の狩衣を着て、裸足で河原に立っていた。
見渡せば一面の砂利道で、灰色の重たげな流れが、遥か彼方まで続いている。。
とても長閑な夢だった。
見下ろすと、足元に少女がいた。
少女は私の高校の制服を着ていて、無心に何かを食べている。
近づいてみると、人の気配を感じたのか少女が驚愕の表情で振り向いた。
「あなた……あなた、なんで、ここに?!」
「何でって。――てゆうかそれ、美味しい?」
夢の中で何故ここにいるのかなんて聞かれても答えようもない。仕方なく問いで返すと、答えるでもなく「おい……しい?」とオウム返して、食べていた“何か”を、ぐいと此方に差し出して来た。「……たべ、る?」
「要らない」
「……」
暫く見つめ合っていると、飽きたように視線を外した少女が、シャクリ、とまた“それ”を咀嚼する
冷たい砂利の上にぺたりとお嬢さん座りをして、幼子の様に口の周りを真っ赤に染めて食事をしている。よほどお腹一杯に食べたのか、制服の腹部が、不自然な程にぱんぱんに膨らんでいた。
する事もないので少女の隣に腰を下ろしてその食事風景を眺めていると、不意に少女が顔を上げて、私の瞳をまじまじ見つめた。
「これおいしい、わからないけど、あなたはとてもおいしかった」
上機嫌に振り向いてにっこりと嗤った少女の顔は、何故か、私のそれによく似ていた。
「わっ」
目が覚めた。
なんだかよく覚えてはいないが、すごく可笑しな夢を見ていた気がする。
いつまでもこんな所に居てはえっちゃんのお家の人に迷惑だろうから、早く自宅に帰らなければ、と思い出して、そういえば空が赤い事を不審に思った。
(朝焼け……?にしては気温が高いし……)
とはいえ夕焼けの時間は当に過ぎたし、さっき時計を見た時既に六時を超えていたから、これは朝焼けなのだろう。
(と、いうか……)
神社の賽銭箱の前に居たはずが、気づけば知らない川辺の砂利の上に腰かけていた。
川幅は海の様に広いが、流れ方や形状から見てどうやらこれは大河である。
(ここはどこだ……)
何だか頭がぼうっとする。目の前に霞が掛かったような、というとかなり語弊があるが、「見えているのに見られていない」というのだろうか。どこがどう可笑しい、という訳ではないのだ。ただ、まるで何か、ぼんやりと画面の向こうの、余り興味のない映画でも見ているかのような、そんなそぐわない感覚がするのである。
それだけではない。
先ほどまで可笑しな夢を見ていたせいだろうか。
無視できない程ではないが、微妙に、お腹の辺りが、微かに気持ちが悪かった。
とはいえ、吐きそう、という程でもない。例えるなら軽い車酔いとか、それにも満たない程度の、学級会で点呼されたら「はい、元気です」と普通に答えてしまう程には些細な、無視できる程度の不調である。多分、寝ぼけているせいだろう。そう結論づけて、とりあえず、せめてもう少し見晴らしのいい場所に行こうと、手近な土手をよじ登ってみる事にした。
お金をかけるなら一に足元二に下着、という母の方針のもと、本革製の割といい靴を履いているからかもしれない。通学用のローファーというのは、見かけに寄らず意外に歩きやすいのだ。通学カバンを担ぎなおし、ぐい、と足に力を入れて一気に三歩程で駆け上がると、辺り一面腰の高さ程もある、黄金色の草原が広がっていた。完全に見覚えのない景色である。見渡せど、民家の一つも見当たらない。
「……まあ、こういう時の地図アプリだよな」
私の通っている高校では、携帯電話やスマートフォンの持ち込みは、基本的に校則で禁止とされている。
とはいえ、このご時世だ。鞄に携帯電話の類を忍ばせていない高校生など、余程の事情がない限り存在しないのではないだろうか。例にもれず、私の鞄にも、お気に入りのアニメキャラのカバーが付いたスマートフォンが入れてある。
待ち受けを見ると、液晶のデジタル時計は十九時二十分を指していた。……どう見ても、日の入り後の空の色ではないのだが。
「……圏外」
左上の赤い文字に顔を顰めつつ、念のために地図アプリを開いてみる。――当然ではあるが、表示は灰色のマス目模様の上を暫く彷徨ったのち、完全にフリーズしてしまった。
「Wi-Fiもないもんなー」
仕方がない。地図は一先ずあきらめて、誰かしらに道でも尋ねようと思い到った。
最悪人がいなくとも、真っ直ぐ歩いていればいずれは何処かしらの駅にでも当たるだろう。
この時私は、未だ自分が日本の、地元の街に居ると信じて疑ってはいなかった。また、自分がどれほど見慣れない土地に瞬間移動していようとも、夢だと判じる気にはなれなかった。普通に考えればそうだろう。人は普通そうそう異世界にトラップなんてするはずがないのだから、大方似たような駅に誤って降りてしまったのだ。光と見えたのは立眩みかなにかのせいで、風景が見慣れないのは、きっと山道を反対に下ってしまったのだ、と考えていた。
――だとしたら、この見渡す限り続く土手は何だろう。
自分はそれほど背の低い方ではないと思っているが、私の腰ほどもある葦らしい草が、地平線の果てまで生い茂っている。
駅どころか、民家一つ見当たらない。
急に、先ほどの気持ちの悪さがぶり返してきた。
ぶり返して来た、というより、悪化した、というのだろうか。とても立ってはいられなくなって、思わずその場に膝をついた。
血の臭いがする。
そういえば。先ほどから、辺りに鉄のような臭いが満ちているのだ。
視線を下ろした。瞬間、“それ”とまともの目が合ってしまった。
「っひ!」
引き攣れた息が漏れる。弾かれた様に立ち上がってまじまじとそれを見つめ直した。
人間、本当に驚いた時は、「きゃー」なんて色っぽい声は出せないものだ。
草に擦れたスカートが、所々赤く汚れている。
――……前言を撤回する。これは断じて夢である。もしくはあれだ。どっきりか何かだ。
足元には、イネ科っぽい草の間に埋もれるように、幾人もの亡骸が折り重なるようにして倒れていた。
「なん……ふぎゃ?!」
今度こそ何か固いものに盛大に躓いた。
「……ぐ、」
「な、なに?!」
見れば、それはどうやら全身鎧に身を包んだ外人の男、らしかった。
何やら西洋っぽい紋の刻まれた胸部は良くわからない赤いものでべっとりと汚れ、腹部の鎖帷子の下からは、大量の血のような物があふれている。
「あー……後ろから刺された系?」
中から血が溢れているにも関わらず帷子が破れていないところを見ると、後ろからざっくりと貫通されたのだろう……などと現実逃避をしながら、思わず条件反射で男の口元を拭ってやった。血を吐いたのだろうか、せっかく綺麗な顔立ちをしているのに、顔の半分がべったりと赤く汚れている。そう、綺麗な顔立ちをしているのだ。色白の滑らかな頬は酷く血に汚れているものの、切れ長の目元を彩る褐色の睫毛は夕日をかざして鮮やかな紅に輝き、スッと通った鼻筋や苦し気に寄せられた形の良い眉根は、どこか神秘的な程に秀麗である。もしも彼が俳優なら、間もなくブレイク間違いなしだろう。なんか死体っぷりもかなり真に迫ってるし。
「……っ、ぇ、……か?」
どうしたものか見つめていると、死体が急に細く目を開けて噎せた。
「え、うわっ」
と、思った瞬間、男の頬を拭っていた手をガッチリと捕まれる。早い。この死体すごく動きが早い。避ける暇すらなかった。
「常闇の女神、戦場の乙女……。俺を、迎えに来てくれたのか?」
ガッチリと弥夜の手を掴んで身を起こした男が、何かとんでもない事を呟いた。思わず、頬をひくりと引きつらせる。
どっきり、にしては周りの見晴らしが良すぎるし、何より鎧男の体温が低すぎだ。
それにしても。
――やばい、この死体、ものすごく握力がつよい。
「?!うわっ」
私の手を捕まえた男が、再び、糸が切れたようにバッタリと倒れこんだ。
「――うそやん……」
しっかりと左手を拘束されたまま、寒空の下呆然と呟く。
そのまま気絶したらしい鎧の死体男は、もはや目を覚ます気配すらなかった。