狐憑き
夜の城下町に、秋の訪れを告げる大きな月が光を落とす。
昼間は賑わう城下町も、夜は人通りが途絶え、闇の支配下に入る。
そんな闇の中を、提灯の明かりと月明りを頼りに歩く男がいる。
男は少し酔っているのか、ご機嫌に鼻歌を歌いながら歩を進めていた。
普段は城内勤務だが、所用で出かけその先で接待を受けての帰りだ。男にとってはよくある事で、暗い夜道も不安はない。
後数回、角を曲がれば自分の家だ。酔ってはいるが、意識はしっかりしている。
カサカサカサ!
暗い路地で物音がした。男は反射的に提灯を路地の方に向ける。
白い着物が提灯の灯りに照らされ、浮かび上がった。
男は最初ギョッとしたが、幽霊等を信じない性格なのか、気丈にも路地の中に足を踏み入れ、着物姿の上を提灯で照らした。
月明りの中、十代後半と思しき、綺麗な少女の顔が照らし出された。
「どおしたんだ、娘さん?」
男は当然の質問をした。当たり前だ、こんな夜更けに、女子供が路地裏にいるのは不自然極まりない。しかも寝床に入る時のような着物で、秋の夜に出て来る格好ではない。
「寒いだろう、こっちへおいで」
男は少女に近づき、手をとった。少し暖かい感触が男に伝わる。
幽霊等信じていないが、温かい手に触れて、男は少し安堵した。
安堵したと同時に、如何わしい衝動が男の中に沸いてきた。
「家へおいで、一晩泊めてやるよ」
男は少女の事を、色町から逃げてきた娘と思い込んだ。
男と行為に及ぶ時に、嫌になって逃げて来たのだろう。
男は、「どうせ色町の女だ、優ししてやれば、一晩楽しませてくれるだろう」と心で呟き、少女の手を引っ張った。
少女が路地から出されて、月明かりの元にさらされる。
綺麗な少女だ。提灯の灯りで見た時もそう思ったが、月光の下では更に美しさが増した。
妖艶の美しさという物を、男は初めて感じた。
「さ、さあ、行こうか」
男は一刻も早く、この少女を楽しみたいという衝動にかられ、急がすように、先程とは違う反対側の手を握った。
ぬるりと、少女の手を掴んだ腕がほどけた。
男は何かの液体が手に着いている感触を憶え、提灯で照らしてみた。
赤い液体が自分の手を染めている。
男は恐る恐る少女の方に提灯を向けてみる。所々だが、少女の白い着物にも赤い色が付着している。
そして男が先程触った少女の手は、更に真っ赤に彩られていた。
少女は赤い手に何かを握りしめている。男はそれが何なのか直ぐにさとった。
男根だ!
自分にも付いているものを、少女が握りしめている。
少女が妖艶な笑みを浮かべて男に近づいていく。男は震えながら後ろに下がる。
ひぇ~~~~~~~
男は情けない悲鳴を上げて、提灯を少女の方へ投げ捨てた。
投げられた提灯は少女には当たらず、路地の奥へと落ち燃えはじめる。
燃える提灯の灯りの向こうに、股から血を流し続けながら、絶命していく人の姿が照らしだされた。
男は抱いた欲望などは吹っ飛ばし、踵を返し一目散に逃げ始めた。
男の上空で風の音がする。その後、男の前に少女が立ちはだかった。
瞬時に少女が男を飛び越え、行く手を塞いだのだ。人の跳躍力ではない。
男と少女の目が合った。瞬間、男の身体が動かなくなる。いや、動けなくなった。
少女は男に抱きつき接吻をしたまま、手を股間にはわせる。
遠目には、興奮した男女が夜の闇に紛れて、行為に及んでいるようにも見えるが、男の男根は大きくなるどころか、恐怖で縮んでいたことだろう。
少女が唇を男から離した。離れた男の口から血が溢れ出て来る。
少女の前歯が何かを銜えている。
舌だ。恐らく少女が男の舌を噛み切ったのだろう。
少女が股間に当てた手を勢いよく後ろに引き、男を後方へ押した。
ゲッッ!
男は僅かな悲鳴を上げた後、股間から血を流しながら倒れた。
少女の手には血だらけの男根が握られている。
男は、舌を噛み切られた時に、呼吸に障害をきし、意識が混沌としていたので、男根をちぎられても痛さを感じなかったかもしれない。
ぺチ!
少女は男根を男の顔へ投げつけ、血で濡れた歯を見せて笑った。
キャハハハハハ キャハハハハハ
そして今度は、血だらけの口を開いて、大声で笑った。
暗い闇が支配する城下町に、少女の笑声が響く。
月光が舞台を照らすかのように、惨劇の現場で笑う少女に光を落とし続けた。
「助さん、角さん、次の町で休むとしますか」
「そうですなご隠居、次は高知藩の城下。何もなければよいですが」
「そうじゃな。山内豊昌殿も政を頑張っておるようなので大丈夫でしょう」
光圀一行は阿波を抜け、土佐の町へと足を踏み入れていた。
賑わう町で、人だかりが見える。店の前で揉め事のようだ。
「ご隠居、何の騒ぎですかね」
「うむ、酒屋の前にやくざ者ですか」
光圀達が遠巻きに見ていると、一人の娘が店の中から引きずられてきた。
娘を庇おうとして、店主らしき男がやくざ者から乱暴を受ける。
「助さん、角さん!」
光圀の号令と共に助と角が騒ぎの中に入って行った。
助が娘からやくざ者を引き離す。角が店主に乱暴を働く男達を叩きのめしていく。
「なんだ! てめーら」
やくざ者達が助と角を囲むが、角が一歩前に出ると、その迫力に恐れをなし後ずさる。
「おぼえてやがれーー!!!」
やくざ者達は散りじりに逃げて行った。
「大丈夫ですかな」
角に助けられた店主に、光圀が微笑みを浮かべ声をかけた。
「ありがとうございます」
店主は礼を述べた後、光圀達を店の中に招き入れた。
「本当にありがとうございました」
「いえいえ、大した事ではありません。しかし何故娘さんがやくざ者に」
「はい、実は・・・・」
店主は名を富田吉次郎と名乗り、この酒屋の主で、娘をお絹と紹介した。
吉次郎の話では、この所、妙な殺しが続いているとの事だった。
「妙な殺しですか」
「はい」
吉次郎は娘に目配せして、自室に戻るようにうながした。殺しの話を娘に聞かせたくないないのだろう。
娘が席を外した後、吉次郎が話の続きを始めた。
殺しの件数はここ三か月の間で五件。全てが男で、皆、男根をちぎられていたとの事だった。
「男根をですか。でも何故娘さんが」
「はい、役所では男に恨みを持つ、女の犯行と決めつけているみたいでして」
吉次郎はあまり言いたくない話なのだろ、少し俯かげんで喋りだした。
お絹には縁談が決まっていたのだが、酒屋の商いが芳しくないので、先方から借金を背負はされたら迷惑と、断りを入れられてしまったらしい。
その経緯でお絹が男を恨んでいると疑い、役所と繋がりのあるやくざ者の、虎臓一家が娘を連れて行こうとしたとの事だった。
吉次郎はお礼に、この町に滞在中は家に泊まるよう願いでた。光圀達もまた虎臓一家が来ては危ないと思い、この申し出を受けた。
「ご隠居、何か無理矢理に犯人を造り出しているような」
「うむ、助さんもそう感じますかな」
あてがわれた部屋で、光圀達は吉次郎のお話を整理する。
犯人と疑われて、連れて行かれた女が他に二人はいるらしい。いずれも男に騙された過去はあるが、今は普通に生活をしていたとの事だった。
「助さん、角さん。夜の見回り、お願いできますかな」
光圀は助三郎が囮になる策を立てた。老人や武骨な大男では囮になりづらいと考えたのだろう。
助を囮にして、犯人をおびき出す。普通の女子が自分よりも力のある男の男根を引きちぎれる訳はない。光圀は妖がこの事件に関係していると確信していた。
夜の町を、男が一人で歩いている。
目的地があって歩いているようには見えない。ただ歩いている。
歳は二十代半ば位だろう、町人のようだが、弱々しさはない。何か覚悟を持っているように見える。
男は急に背後に風を感じ振り返った。
三歩位先に、白い着物を着た女が立っている。
女は妖艶な笑みを口元にたたえ、潤んだ瞳で男を見た。
男は女に触ろうと足を踏みだすが足が動かない。腕も上がらない。
女がゆっくりと微笑を浮かべながら男の方へ歩み寄る。妖艶な微笑だ。
普段なら性欲を掻き立てられる色香が女から発せられる。しかし男の額からは恐怖からの汗が浮かぶ。
男よりも背が低い女は、下から男を見上げ抱きついてきた。
女が男と唇を重ねようとした時、背後から刀が振り落とされた。
女は瞬時に男の背後へと飛び、刀を振り落とした人間と対峙する。
助三郎だ。助は妖刀『暁宗』を構え直し、女を睨んだ。
先ほどまで女が抱き着いていた男は、気を失ったのか、その場で倒れ込んだ。
女は再び妖艶な笑みを浮かべ、助三郎を見た。しかし助の身体が動がなくなる事はない。
助が暁宗の刃先を女に向けながら、ゆっくりと近づいていく。
女から妖艶な笑みが消えた。と同時に女の目が吊り上がり、背中が大きく膨らんだ。
膨らんだ背のせいか、女は手を地に着き、獣のような姿勢をとった。
グゥオオオオオーーーーーーーー!!!!!
女が口を大きく開けて吠えた。
地の底から聞こえて来るような声だ。周りの空気が震え出しているのではないかと錯覚を憶える。
女の身体から異質な気が溢れ出してくる。 瘴気だ!
普通の人間が発する事など出来ない気、妖の類が身に纏う気だ。
グゥオオオオオオーーーーーーーーーー!!!!!!!
女が再び吠えた。ネコ科の猛獣が吠える時のように、首が揺れる。
シュッ!!
光圀が葵退魔銃を放った。鬼の類なら確実に銃弾が命中していただろう。しかし女は弾道を予測していたかのように跳ね、銃弾をかわしす。
光圀が次の銃弾を撃ち込もうとした時、女が重力を無視した動きで跳躍して屋根に上へと移動し、上から光圀達を見下ろした。光圀達を見る目が夜行性動物のように光を放つ。
角之進が路地から屋根へと素早く登り、妖と対峙した。
バランスの悪い屋根の上だが、二人とも揺らぐ事はない。
角の背後から追い風が吹く。それを合図のように大男が動いた。
正拳が妖の顔へと放たれる。妖がバク中でそれをかわし、屋根に足が着くか、着かない瞬間に角の方へと喰らいついて行った。
角が素早く横へ動き、妖をかわすタイミングで肘打ちを降ろす。
妖に肘打ちに当たると見えた時、急に妖の速度が上がり、それをかわした。
屋根の上で、先程と反対に対峙する二人。
路地から角が登ってきたように、助が屋根へと登り、妖を挟んだ。下からは光圀が銃を構える。
グギャオオオーーーーーーーー
男三人を順次に睨んだ後、妖は夜空へと咆哮を上げた。そして、助走もつけずに跳躍し、隣の屋根、また隣の屋根へと移動して行き、暗い闇に呑まれるように消えて行った。
緊張がとけ、角と助が光圀の元へと降りてきた。
「ご隠居、これが屋根の上に落ちてました」
助が光圀に櫛を渡す。町民がつけるような櫛ではない、べっこうで鮮やかな細工が施された高価な櫛だ。
「これは本格的に、水戸家としての退魔になりそうですね」
白髪の老人は櫛を月にかざし、険しい表情で顎鬚を撫でた。
「清二さん!」
角之進が背中におぶっていた男を酒屋の奥の部屋へ寝かせると、娘のお絹が走り込んできた。
「知り合いですかな?」
「はい」
お絹は寝かされた清二の顔を触りながら、声を震わせた。
「大丈夫。気を失っているだけです」
光圀は彼女を落ち着かせると、妖の件を伏せて、吉次郎とお絹に、道で倒れていた清二を助けたと説明した。
清二の具合を気にかけるお絹の気持ちが通じたのか、彼が恐怖から覚めるように、ハッと目を覚ました。
「清二さん大丈夫?」
お絹が清二に抱きつきながら、具合を確認する。
清二は酒蔵の次男坊で、お絹との婚姻を破棄した相手と吉次郎から事情を聞かされた。
お絹と吉次郎の顔を見て安心したのか、清二が大きく息をした。
「お絹ちゃん、俺は何故ここに?」
事態を飲み込めない清二に吉次郎が、こちらにいる光圀達が助けてくれた事を話す。
「清二さん、何故あそこにいたのですかな?」
「はい・・・・」。
清二は光圀にお礼を言うと、自身の事情を話し始めた。
清二は親に無理矢理に婚姻を破棄された事。自分はまだお絹と夫婦になる気である事を伝え、お絹が殺しの疑いをかけられていると知り、真犯人を捕まえようと、夜の町へ出かけた事を話した。
「清二さん、無茶をしないで」
「でも俺、お絹ちゃんが心配で」
抱き合う二人を後にして、光圀達はあてがわれた部屋へと戻った。
吉次郎も娘の嬉し涙を見て、微笑みながら部屋を後にした。
婚儀が流れてから暗い雰囲気だった酒屋に、久しぶりに明かりが差し込んだ夜となった。
「姫の状態はどうじゃ?」
高知城で藩主、山内豊正が一人の家臣に小声で訊ねた。他の家臣に聞かれては具合が悪いのか、聞き取り難いほどの声の大きさだ。
「はい、昨夜も城を抜け出たもようです」
家臣の報告を受けて、豊正の顔色が少し青ざめた。
「しかし昨夜は、殺しの報告は上がっていません」
「誠か!」
安堵からか、家臣の報告に豊正が声のトーンが上がった。しかし肩を下がらせ、大きく溜息をついた。
「昨夜は起きなかったが、これからは分からぬ」
「はい、しかし今は眠っておられます」
「そうじゃのー 眠れば七日は起きぬ時もある」
「後、気のなる事が」
「何じゃ、申せ」
「姫の櫛が見当たりませぬ」
豊正の顔色が更に青くなった。
豊正が姫の異変に気付いたのは三月程前の事だった。侍女から髪結いをされている時に急に倒れ、しばらく意識がない状態が続いた。医者にみせたが、悪い所はなく、眠っているだけという診断だった。
豊正が職務の間、たまたま一人で姫を見ていた時に急に姫が目を覚ました。
「おー! 幸音。具合はどうじゃ?」
声を掛けられた姫の幸音は、しばらく豊正の顔を見つめた後、口を吊り上げて禍々しい笑顔を見せた。
「ゆ、ゆ・・きね・・・・」
言葉を失った豊正の顔から視線を外さづに幸音は立ち上がり、上から豊正を見た。
『これからだ』
普段聞いている幸音の声ではなかった。
ガラガラで、ザワザワで、喉から出ているような感じではなく、頭に響いてくるような声だ。
「・・・何が、 これから何だ」
唾を飲み込めながら、豊正は幸音を見上げた。
幸音が大きく目を見開いて、大きく口を開けた。
キャハ! キャハハハハハハハ!!!!
声を出して、大きく笑った後、崩れるように倒れ、幸音は再び眠りについた。
その後、幸音が忽然と寝床から姿を消す夜があった。翌朝、いつのまにか戻ってきた幸音の着物は赤く染まり、右手は人の身体に腕を突っ込んだにではないかと思われる位の血痕がついていた。
そういう事があった昨夜は必ず、男根をちぎられた殺人が行われていた。
この事は、城ではごく一部の人間しか知らない。
「姫を、幸音を外へ出してはならぬ。見張りの数を増やすのじゃ」
豊正は側近の者へ内密に命を出した。そして幸音の寝室の前へと足早に歩を進める。
少しだけ襖を開け、中の様子を伺う。寝ているであろうと思われた幸音が、こちらを見て笑っていた。
まるで豊正が来るあろうと知っていたかのように笑っていた。
でも、豊正が愛する姫の笑顔ではなかった。口を大きく吊り上げて、目は見開き血走っている。
豊正は襖を静かに閉めると、その場でへたり込み、首を項垂れながら涙をこらえ唇を噛んだ。
「お前ら! 今日は覚悟しやがれ!」
翌朝、吉次郎の酒屋に虎臓一家が押し寄せてきた。
「やめろ!」
虎臓一家の前に昨夜から泊まっていた清二が立ちはだかる。
「何だ、清二じゃねえか」
清二と顔見知りなのか、虎臓が若い衆の間からでてきた。
「清二、お前もこんな酒屋とは縁を切り、俺の所の酒屋へ酒を回すほうが儲かるぞ。献上酒蔵の値に見合う金を出してやろう」
「うるさい、お前の所の酒屋はぼったくりじゃないか、そんな所に家の酒は回せない」
「ほう、言うじゃねえか。だがここの酒屋はもう終わりだよ。殺しの下手人がいるからな」
「お絹ちゃんは人殺しじゃない!」
「うるせい! それを決めるのはお役人様だ! 今日はいらしてんだよ」
虎臓の言葉が合図のように、後ろから役人が出てきた。それもただの役人ではない。豊正の側近の男だ。
「拙者は今回の殺しの件を、殿から直々にさずかった遠田勲司と申す」
「おっ! お殿様直々の命ですか」
清二が弱腰になる。当然だろう、やくざ相手でも引けを取らない男でも、国の藩主には逆らえない。
「おやおや、城からお偉い様が直々に捕り物ですかな」
店の奥から光圀達が顔を出してきた。お絹と吉次郎は角と助の後ろで怯えながら様子を伺っている。
「なんだ貴様は」
「はい、私共は旅の者で、越後のちりめん問屋の隠居で光右衛門と申します。」
「よそ者には関係のない話だ」
「いえいえ、こちらでお世話になっている身。関係なくはありません」
光圀が遠田の前にたちはだかった。
「邪魔をするか、無礼者め!」
遠田がムチを振り上げた。その手を素早く角之進が掴む。
「うぬぬ~ おのれらー 逆らうか!」
「いいえ、逆らいはいたしませぬ。お絹さんを連れて行くと言うのなら私達も同行いたします」
「なんじゃと!」
光圀は怒りの形相を向ける遠田に、懐から手ぬぐをとり出し、中にある櫛をそっと見せた。
「そっ それは・・・」
遠田は言葉を失い、光圀達を見た。
「お絹さん、悪いようにはしません。私達と無実を訴えに城に行きましょう」
光圀達は酒屋を出て城へ向かう。吉次郎と清二には、後は自分達にまかせるように伝えた。吉次郎達と清二も光圀と遠田のやり取りを見て思うところがあったのだろう、全てを光圀に託した。
やくざ者たちは、何か訳が分からずのまま遠田に追い返されてしまい、光圀達は役人に取り囲まれながら、城下町を後にした。
「何! 旅の爺が櫛を持っていただと!」
豊正が遠田に荒く声を上げた。
「で、取り上げたのか」
一時の感情で声を荒げたが、他の者に聞かれたくないのだろう、声のトーンを落とした。
「はっ、それが連れの大男が睨みをきかしておりまして、手が出せません」
「何を言っておる、そんな者取り押さえればよいであろう」
「それが、なかなかの強者で」
「分った。牢に入れておるのだな、儂が直々に行こう。金目的かもしれん。罰を与えてやる」
櫛が気になる豊正は、自ら取り返そうと思い、牢屋へと遠田だけを引き連れて向かう。他の者に寝たきりの姫の櫛が城下に落ちていたと知られたくないのだろう。
豊正が牢屋へ着くと、白髪の爺が中で瞑想中なのか座禅を組んで、目を閉じていた。
脇に遠田から聞いていた大男と、もう一人正座で黙する男がいた。豊正は一瞬、角が明王像で、助が如来の従者。光圀が本尊に見え、境内での仏像と重なる絵ずらに息をのんだ。
「えーぃ」
豊正は光圀達から発せられる気に呑まれそうになったが、お家の大騒動と自分を取り戻し、掛け声で気合を入れた。
「そち達か、櫛を持っておるのは」
光圀がゆっくりと目を開け、豊正を見た。
「はい、さようです」
光圀は一気にオーラを脱ぎ捨て、ちりめん問屋の隠居の顔になり、笑顔で豊正に返事をした。
「そなたが持つ櫛を見せてくれぬか」
下々のような態度の光圀に少し安堵しながら、豊正は本題を口にした。
「心当たりがある櫛ですかな」
「旅の者には関係ない事じゃ」
「果たして、そうですかな」
意味ありげな言葉を言いながら、光圀は懐から手ぬぐいを取り出し、くるまれた櫛を自分の膝の前に置いた。牢の柵があり、外からは手を伸ばしても届かない距離だ。しかし、見る事は十分可能だ。豊正は櫛を見て、溜息をついた。
「いくら所望じゃ?」
「お金はいりませぬ。一つ見ていただきたい物があります」
光圀の返事に豊正は気をそがれた。金を要求してきたら、ゆすりの罪で罰しようと考えていたのだが、当てが外れた感じだ。
白髪の老人は豊正の態度など気にせずに、懐から紫の布を取り出し、角に渡した。
角が柵に近づき、紫の布を豊正に渡す。受け取った豊正は、得体の知れない物が入っているのではと、戸惑いの顔を見せたが、光圀の笑顔を見て少し気を緩めたのか、ゆっくりと紫の布をほどく。
中から蝋燭の明かりに照らされた、三つ葉葵の印籠が顔を出した。
「はっ!!」
豊正も、横で印籠を見た遠田も目を見開き、印籠と光圀を何度も見返した。
「豊正殿、忍びの旅じゃ。大事にはせん。はやく出してくれぬか」
牢の外で土下座をする二人に、光圀が優しく声をかける。
「後、櫛の持ち主にも合わせていただきますぞ」
「ははっ」
優しい声から一変して、厳しい表情で光圀が牢内から声をかけた。
牢から出された光圀達は、城内の一室で、事態のあらましを豊正から確認する。
姫の状態からして、何かに憑りつかれているのは明白。しかしそれが何者で、何が原因で憑りついているのか分からない。憑き物はただ追い払えば良いという物ではない。憑かれた原因を取り除かなければ、何度も憑りつかれる。憑りつかれた人間が死んでも、またその一族の者に憑りつき、悲劇が繰り返されるのだ。
「被害者は城の関係者のようですな」
光圀達は推測をする。被害者は城務めの者が多く、清二のような町人でも、献上酒蔵という家柄で、何度か城内に足を踏み入れた事のある者ばかりだった。
「城が呪われているという事でしょうか」
助の言葉に豊正がギョッとした。自分の居城が呪われているなどと城主は考えたくないだろう。
「いや、それなら山内家に被害者が出るでしょう」
光圀の否定の言葉に豊正は少し安堵する。しかし山内家の被害者は出ていないが、加害者は山内家の人間だ。これは山内家にとって重要な事実だ。
「献上酒蔵の清二さんは次男坊、そんなに多くは城内に入っていないでしょう。城内での行動を全て思い出してもらいましょう」
光圀は城内での行動が、この一連の騒動の発端と考える。城内で何かをした人間が、憑りつかれた姫に殺されたのではと考えをまとめた。
清二の聞き取りは助三郎に任せた。お絹の濡れ絹を晴らすには、清二の記憶が頼りだと伝言を託す。
惚れた女の為なら、城での行動を思い出せという、納得のいかない事も真剣に思い出すだろう。
光圀と角之進は幸音を監視するため、寝室に近い部屋で待機する事にした。
「豊正殿、其方も苦しいだろいうが、一番苦しんでおるのは姫君じゃ。必ず助けようぞ」
光圀の言葉に豊正は涙を浮かべ、頭を下げた。
月は出ているが、薄い雲がかかり、淡い光が城下を照らす。
待機していた光圀は、異質な気を感じ、目を覚ました。横を見ると角も同じ気を感じたのか、光圀と目を合わせた。
同じ部屋にいる豊正と遠田は起きる気配がない。常人なら感じられない気だが、起きれないのは眠らされているというよりも、意識を失わされているようだ。
姫が城の外へと抜けだす時、城全体がこのような状態になっていたので、誰も姫を止められなかったのだろう。
光圀と角之進はゆっくりと部屋を出て、姫の寝室に繋がる廊下にた立った。
姫の寝室の襖がゆっくりと開く。人が開けているのではなく、自動扉のように静かに開く。
暫くすると、白い寝着物を着た幸音が出て来た。ゆっくりとした足取りで、音が聞こえない。
廊下を踏む音、床が軋む音がしない。足は床に着いているのだが、宙に浮いているのではないかと思えるほどの静かさだ。
幸音が歩を進める毎に、廊下の両端に火の玉ほどの炎がポツ、ポツと現れる。まるでファッションショーの演出のようだ。
姫が妖艶な笑みを浮かべる。潤んだ瞳。濡れて淡く光る唇。着物の裾から覗く、白くなまめかしい太もも。
全ての男を虜にしてしまうのではないかと思えるほどの艶やかさだ。
「ナウマク・サマンダバザラダン・カン」
光圀が印を結び、不動明王のマントラを唱える。角は早九字を唱え、気を高める。
幸音から妖艶な笑みが消えた。
高知城の廊下に異質な気が降りてきて、空気を重くする。
「ナウマク・サマンダバザラダン・カン」
光圀が集中力を高めるために再度マントラを唱えた。
幸音の顔が変貌する。目は吊り上がり、開いた口は耳元まで裂け、背中が盛り上がり手を床に着ける。
見た目は人の形を残してはいるが、四本足の獣に見えても不思議はない。
幸音が跳躍して右側の壁に足をつけた後、その反動を使い速い動きで光圀に襲い掛かった。
角が光圀の前に立ち、姫の攻撃をブロックする。
角のブロックで跳ね返されるように姫は後方に跳んだ。
光圀が後方に下がる姫に葵退魔銃を放つ。しかし、この前の夜と同じで、弾道を読んでいるかのように弾をよける。だが、以前のような町中ではなく、四方を囲まれた城の廊下、動きにくそうな感がある。
角之進が正拳を姫の顔面に放った。姫は正拳をかいくぐり、光圀の前に立つ。
廊下で角と光圀が姫を挟む並びになった。
「オン・バサラダド・バン」
光圀が智拳印を結び、姫へと近づいていく。
『無駄だ、密法は我が守護にある』
ザラザラとした声が光圀の頭の中に響いた。しかし光圀が智拳印を解く事はなく、額に汗をにじませながら歩を進め幸音に近づいて行く。視点は決して幸音の目から離さない。
幸音が跳躍して、光圀の頭上を飛び越えた。
「弥晴! 今です!」
「六根清浄急急如律令!!」
光圀の背後から声が響いた。
廊下を走り抜けようとした幸音が壁にぶち当たったように、後方へと弾かれる。
「角さん!」
角が光圀の号令で素早く幸音の元へ駆け寄り、手刀で後頭部を叩いた。姫はそのまま角の腕の中に倒れた。
『密法を使う者よ、今宵は大人しくしてやるとしよう。だが我が怒りは収まらぬぞ』
光圀の頭に言葉が響く。しかし姫の口は閉ざされたままだ。
白髪の老人が片膝を床に着け、大きく呼吸をした。この老人がここまで消耗するのは珍しい事だ。
「ご隠居、大丈夫ですか?」
姫を抱いた角が、光圀を案じ近づいてきた。彼も消耗しているのが分る。変化した幸音の気が凄すぎるのだ。並の瘴気ではない、彼女に近づくだけ、触れるだけでかなりの体力と霊力を奪われるのだ。
「とりあえずは、上手くいきました」
光圀は額に汗を浮かべながらも、いつもの笑顔を見せた。
憑依された身体を一時的に動けなくする事で、時を稼ごうする光圀の案だ。しかしこの案も優れた術者が二人いて、体術に優れた者がいなければ成しえない案だっただろう。
ニャ~~~~ァ
いつからいたのか、黒猫が光圀の足下で心配気な鳴き声をだした。
「角さん、そして弥晴。これは単なる狐憑きではありませんね」
老人はゆっくりと立ち上がり、角に抱かれる姫の顔を覗きこんだ。
「これは恐らく、神憑でしょう」
光圀は衰弱して眠る姫の寝顔を見て、自分の言葉に確信を持った。
「ご老公様、神憑きとは?」
待機していた部屋で、意識を取り戻した豊正と遠田が光圀に訊ねる。
幸音は寝室で寝かせ、部屋の前で角が見張りをしている。
「そもそも狐憑きとは、狐が人にとりつくわけではない」
心配顔の二人に、白髪の爺が解説をする。今夜はもう大丈夫と思われるのだろう、それぞれの前に、にぎり飯と湯呑が置かれている。体力の回復をはかるのだろう。
光圀は一度茶をすすり、二人を見た。
「狐と言われているのは、雑多な霊の総称としてつけられておる」
光圀がいう神憑きとは、雑多な低級霊ではなく、上位霊、神格のある物に憑りつかれているという事らしい。この場合、祓うのではなく、いさめて出て行ってもらうしかない。いかな優れた術者でも、神には勝てないのだ。
「娘に憑りついているのは、どんな霊なのでしょうか?」
「恐らくは、宇迦之御魂神、お稲荷様じゃ。またはそれに連なる眷属であろう」
「お、お稲荷様ですか」
光圀の言葉に二人は顔を見合わせた。自分の娘がお稲荷様という大神に、憑りつかれるいわれが思い当たらないないのだ。
「何か理由があるはずです。助さんの調べをまちましょう。今夜一晩はお稲荷様がくれた慈悲です」
「慈悲ですか」
意味が分からず、二人はまた顔を見合わせた。
光圀のいう慈悲とは、宇迦之御魂神クラスの神霊なら、光圀と弥晴の術など振り切り、外へ出ていただろう。これは光圀達にチャンスをくれたという事になる。神のくれたチャンス、慈悲であると言っているのだ。
光圀が湯呑に手を伸ばした時に、廊下に足音が響いた。
「戻ってきたようですな」
光圀の言葉が聞こえたのか、助がゆっくりと襖を開けて入ってきた。
「分りましたか?」
「確信はありませんが、恐らくは」
「では、夜が明けたら調べにいきますか」
「はい」
光圀達は夜明けと共に城内の一角を目指した。城内にしては雑草が生い茂る、見回りのルートからも外れる寂しい場所だ。
「ここですか」
角之進が雑草を踏み、光圀達を通りやすい道を造る。雑草の先に大きい木が生えている。その木の根元、雑草の茂みの奥深くに、獣の死骸が見つかった。ほぼ白骨化していたが、狐の亡骸とすぐに分かった。
光圀は狐の亡骸を木から少し離れた所に埋葬し、豊正に祠を建てるように指示をだした。
「掛巻も恐き稲荷大神の大前に恐み恐みも白さく ・・・・」
光圀が埋葬した土の前で祝詞を読み上げる。その調べは秋風にのり、城内へと響いた。
姫の寝室。時は深夜を過ぎている。
光圀は姫の寝床の前で静かに目を閉じる。狐を埋葬してから半日以上が過ぎた。部屋の前には助と角が待機している。
灯していた行燈の火が消え、寝室の気が突如変化した。
光圀がゆっくりと目を開けると、瘴気を纏うように布団の上に立つ幸音がいる。
幸音の足元には、輪を描くように青い炎が揺らいでいた。
獣の姿勢はとっていないが、禍々しい顔は昨日のままだ。
『昨日の術者か』
光圀が深く二度お辞儀をする。
「どうか、しばし様子を見ていただきたく、お願い申しあげたてまつります」
『できぬと言えば』
「再度、お眠りいただくように努力いたします」
『わらわを払わぬのか』
「私では役不足故に」
『これだけの結界をはれる術者がよく言うは』
幸音が手を伸ばすと、指先に静電気のような火花が走る。
光圀はこの交渉が決裂した時に備えて、弥晴と共に姫が部屋から出られぬように、何重もの結界をはりめぐらせていた。しかし神格を有する妖には、時間稼ぎにしかならない事は良く知っている。
光圀は黙したまま、再び頭を下げた。
『其方が言うように、しばし様子を見てやろう。しかし次は無きものと心得よ』
幸音がドサリ! と布団の上に倒れた。青い炎は消え、部屋が真っ暗になる。
「神の気まぐれですか」
光圀の独り言が、暗い部屋に吸い込まれた。
「ご老公様、ありがとうございました」
豊正が深々と光圀に頭を下げた。本来なら、女子達に無実の罪を着せて、下手人扱いしていた事を罰していただろう。しかし捕えた女達は牢に入れず、城内の一室で軟禁し、読み書きを教えていたらしい。
殺しの騒ぎが治まれば、城内に侍女として迎えようとしていたとの事だった。
「いやいや、礼はお稲荷様に言うべきじゃな。それに、神の審判を受けるのはこれからじゃ」
「はい、山内家は末裔までお稲荷様を信仰いたし、守護神にいたします」
「うむ、神の荒魂に触れぬように心得なさい」
「はい」
光圀と大神との対話から三日が過ぎた。姫は衰弱してはいたが、意識を戻し、食事ができるまで回復していた。
「殺しの件じゃが、姫に罪はないぞ」
「はい」
「あれは、神が下した天罰じゃ」
光圀と豊正は木の横に設けられた、小さな祠を見た。いずれは本格的な社を設け、お祀りすると豊正は約束している。
「まさか城内の者が、あそこをかわや代わりにしていたとは、思いもよりませんでした」
狐の亡骸が横たわっていた木に、城内の者がかわやへ行くのを面倒に思い、小便をしていた。
その尿が狐の亡骸にかかり、怒りをかったため、男根をちぎられるという殺しが起きていたらしい。
酒蔵の清二も、献上の酒を城に運んだ時、緊張から尿意をもようし、木のそばでするようにと言われ、尿を亡骸にかけてしまった為に狙われたのだろう。
「あの狐様は宇迦之御魂神の眷属で、現世での修行を終えたのでしょう」
「はい」
「しっかりと祀られよ、神は罰も下すが、家を護ってもくださる」
「はい、肝に銘じて」
光圀一行が城を後にする。それを見送る豊正達は深々と礼をしている。
見上げると、天守閣の上に浮かぶ雲が狐の形に見え、城を守護するかのように見えた。そして天守を吹き抜ける風は、狐の鳴き声のように聞こえ、秋の空に舞った。