曼荼羅
人里離れた山の中、忘れられたかのような寺院がある。いや、事実忘れられているのだろう。水飲み場は枯れ葉で埋もれ、釣鐘堂らしき建物には鐘の姿はない。
夕日刺す寺院の奥に本堂は見えるが、屋根の瓦は所々落ちていて、雨天時は堂内の雨漏りが伺える。扉だけは閉まっていて、中に入ろうとする者を拒んでいるようだ。
サク サク サク
枯れ葉を踏みまがら本堂へと近づく音が聞こえる。
シャリン シャリン
錫杖の金属が擦れる音も聞こえる。二人の男が本堂に向かっているようだ。
「ここかもしれないな」
「ああ、ここにあるかもしれない」
二人の男は本堂の前に立ち、中を伺うように立ち止まった。二人共僧兵のような姿をしていて、所々が破けている。今まで過酷な旅をして来たのかも知れない。
「宋雲は門で待機しているだろうな」
「ああ、明日までに我らが戻らなければ、御山に戻るように言っている」
シャリン サク サク
二人の僧は本堂への短い階段を上り、扉をゆっくりと開いた。
ブワッ!
中の空気が一気に出てきたような威圧感が二人を襲う。
「南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛」
「オン・バイタレイヤ・ソワカ オン・バイタレイヤ・ソワカ
オン・バイタレイヤ・ソワカ オン・バイタレイヤ・ソワカ オン・バイタレイヤ・ソワカ」
二人の僧は同時に詠唱し、弥勒菩薩の印を結びながらうす暗い本堂の中へと進む。
シューー・・・・ シューー・・・
本堂内の二人の足元から、蜷局を巻きながら何かが昇ってくる。瘴気だ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!
臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
二人の僧が速九字を唱え、印を紡いだ後に手刀を切った。
瘴気が霧散していき、僅かに射し込む夕日が本堂内を照らす。
本堂内の奥に、空気が濁っているとしか表現できない場所があった。
そこに掛け軸のような巻物が転がっている。
元は木であしらわれた台の上にあったのであろう、巻物の下は朽ち果てた木々が散乱している。
「これだな」
「ああ」
一人の僧が巻物に手を伸ばした。
バシッ!
ギャーーーー
青い火花が散り、千切れた僧の腕が本堂内の床に落ちる。
シャリン!
もう一人の僧が、錫杖で巻物を押さえにいった。
ガバシャーー!!!
ゴキ!
錫杖が飛ばされ、僧も本堂の壁に打ちのめされた。頭から壁にぶつかったため、首があらぬ方に向いている。即死かもしれない。
シャリン! シャリン! シャリン!
転がる錫杖の音が堂内に響く。
「オリャ!」
片腕を飛ばされた僧が、痛みを堪え懐から出した独鈷杵を掴み、巻物につきさした。
ビリビリビリーーー!!!!
青と白の閃光が堂内を照らす。
巻物を止めていた紐が切れた。同時に閃光も消える。
「紐が結界だったか」
僧は壁にもたれ座り込み、飛ばされた僧を振り返る。首が異様な角度で曲がっていて、呼吸はしていない。懐から布を出し、千切れた腕の根本から口を使い止血する。
僧は難とか立ち上がり、巻物へと向かう。このまま座っていたかったが、出血のため意識が飛んでしまいそうなので気力を振るう。
巻物は僅かに開いて、中の絵が見えている。いや、絵ではない、規則正しく並べられた円の中に梵字が一文字づつ書かれている。
ガサ!
背後で音がし、嫌な気配が立ち上がる。
何度も退魔業を行った僧にはわかった。嫌な気配、死人の気配だ。
僧は独鈷杵を握り振り返る。と同時に喉元を片腕で掴まれた。そのまま持ち上げられ、異様な首の角度の僧が下に見える。
グサッ! グサッ! グサッ!
独鈷杵を何度も腕に刺す。しかし掴まれた腕の力は弱まらない。やがて僧の意識薄れ、身体中の力が抜けていく。
バサ!
そのまま床に放り出され、痛さで少し意識がもどるが、出血のため意識の沼の底へと再び沈んでいく。
僧は消えゆく意識の中で、巻物を拾う首が曲がった僧を見て、残された片腕の拳を握りしめた。
山の奥、切り拓かれ多くの寺院が建立されている場所。
高野山、金剛峯寺。宗祖空海が入定し、祈りを捧げ続けている場所。真言宗の総本山。
「曼荼羅の一つが見つかっただと!」
「声が大きいぞ」
退魔堂の一室で高僧が三人、僧兵のいでたちの僧が三人、向かい会うように座っている。
「正確には曼荼羅らしき物だ」
「現物は何処に?」
「・・・無くなった」
「どういう事だ」
高僧が経緯を説明する。各地の寺を散策し、とある曼荼羅を探しだせという密命を事を。
密命とは、空海が入定前に描いた曼荼羅と、入定後に描いた曼荼羅を探し出す事だ。この二つの曼荼羅は空海が56億7000万年後に弥勒菩薩と共に下生した時、人類を救世するのに必要だと、権大僧正以上の者に口伝で伝えられてきていた。その曼荼羅が信長の比叡山焼き討ちの折り、危機を感じた当時の座主が、秘密裏に何処かの寺に隠したのだ。再び曼荼羅を金剛峯寺に保管するため、密命として三人グループで常に一組にのみ、その指示が与えられた。一組が潰れると次の三人グループへと受け継がれていくとの事だった。
「四国の廃寺を調査していた者達の一人が曼荼羅らしき物を持ち去った」
「密命を受けた高野衆がか?」
「高野衆だが、正しくはない」
「・・・」
僧兵のいでたちの者達は、高僧達の言葉を待った。
「片腕を失い瀕死の僧の話によると、回収事の事故で死んでいた者が持ち去ったのだ」
「死人返りか!」
「ああ、だがいかな術かがわからない」
空海が唐から持ち帰った様々な経典。その中に多くの秘術も記されていた。死人返りの術と言っても一つではない。だが、死んだ人間を直ぐに死人として蘇らせ、曼荼羅を持ち去らせる、しかも術者が周りにいない状態で。そういう指示を実行させるにはある程度の経緯が必要だ、直ぐに出来るものではない。
「それは何時の話だ」
「三日前だ」
「三日前だと、何故もっと早く動かなかった」
高野山中枢にかかわる事態。位がどこまでの者に伝え、そして誰の配下に任せられるかの協議があり、今に至ったと高僧達は伝えた。
「門で見張りをしていた僧は、誰も寺から出て来なかったと言っている」
「裏門から出た可能性が高いか」
「ああ、表門までの道もそうだが、裏門からの道はさらに険しくなっているとの事だ」
僧兵の一人が立ち上がった。
「その方が痕跡をたどりやすい、俺達に任せてくれるか」
慈按だ、百六十を超えた位の背丈だが、がっしりとした体格をしている。目を引くのは太い腕にある過去の大きな傷跡だ。
「いや、俺達だ」
慈按に引けを取らない体格の蔵按も立ち上がった。
「今回は事が事だ、そちら三組にやってもらう」
「そうだ、慈按、蔵按、そして壕按とそれぞれの配下の者達に任せたい。」
最後に名前を呼ばれた壕按。線が細く退魔を行う高野衆というよりは、前に並ぶ高僧のような雰囲気を持っている。
「わかりました」
最後に立ち上がった壕按が、静かに答えた。
「ご隠居、ここいらは修行僧が目立ちますね」
「お遍路巡りも多いですからね。高野聖の真念僧侶が八十八か所を記した、四国遍礼霊場記に取り組んでいるというのを聞いた事があります」
光圀一行は大洲藩の城下に来ていた。霊場巡りが庶民にも浸透してきており、街道にはそれなりの人が出ていた。
「首の曲がった修行僧がでるらしいぜ」
町で食事をしている光圀達の横で噂話が飛び交う。
「それで出くわした奴は、巻物と解けた紐を見せられたらしい」
「何処でだ?」
「遍路中の者が、近道しようと山の中に入ったら出たらしい。宿坊で噂になってた」
「熊じゃないのか?」
「さあ、でも首の曲がった僧にしろ、熊にしろ山に入らないと会わないで済むだろう」
「そうだな、地道に街道を行こう」
噂話は違う話へと移っていった。
「ご隠居、今の話どう思います」
「ええ、気にはなりますが、ここは高野衆の管轄になるでしょう。しかし巻物と紐ですか・・」
心当たりがあるのか、光圀は顎髭をさする。
「何かありますか?」
「いえ、ここは弘法大師ゆかりの地。結わば高野衆のお膝元です。任せる方がよいでしょう」
「そうですね、藩が絡むと我々が出た方がよいでしょうが、寺院も真言宗関係の寺が多いですからね」
水戸藩と高野衆は敵対しているわけでは無いが、同盟や上下関係があるわけではない。怪異に携わる大まかな線引きはしていて、陰陽網という連絡網は共有しているが全くの別組織だ。
ここは高野衆のお膝元、既に高野衆が動いているだろう。そう判断した光圀だが、一抹の不安があるのか、再び顎鬚を摩った。
「堯仁様、高野衆三按が同時に動きだしました」
「三按が? それは只事ではないな。何処へ向かっている」
「四国です」
「霊場四国か、何かあるな」
陽が射さない山の中、不自然に数か所ある小屋で、堯仁と呼ばれた男は、嫌な笑みを浮かべた。
「隋風様には俺から伝えておく。隠形にたけている者を四国へ向かわせろ」
「はっ!」
陰者が集まる里のような場所。所属する寺に嫌気がさし、呪術僧をやめたが者達が、呪術を活かして生活をしようとする場所。呪術を使った呪詛等を行うが、そういう事が嫌な者はここを勝手に出て行く。残るのは呪術を規律なしに使いたい者、金儲けのために呪術を使う者。そういう者が残り、組織らしきものができている。が基本は皆自分勝手に動く連中だ。だが、隋風というカリスマを持つ者には、従うようになってきていた。
「三按か・・、高野衆の凄腕の慈按、蔵按、壕按動くとは只事ではないな。面白い」
堯仁と呼ばれた男も、ただ面白そうだから、興味があるから動く。そんな感じだ、目的が有るわけではない。
「隋風様への報告は、向かわせた者に任して俺も四国へ向かうか・・ フフフ」
小屋の中から堯仁の気配が消えている。他にある小屋にも人の気配はない。この里事態に人の気配が感じられないのだ。
結界のため普通の人には近づけない里。まるで迷い家があるような里かもしれない。
「何か分かるか?」
「いや、痕跡がないな」
巻物が持ち去られてから四日目、慈按達は廃寺に来ていた。
堂内はまだ血臭がしていて、微かな瘴気が漂っている。
「呪術の痕跡が全く見当たらないな」
「ああ、蔵按達にも感じられないか?」
「ないな、壕按はどうだ?」
「私も同じですね」
慈按、蔵按、壕按達はそれぞれの配下の者と共に、堂内を探っている。死人返りの呪術が使われたのなら、何らかの形跡があると思っていたが、この三組をもってしても痕跡が感じられなかった。
「ここからは別行動ですね」
慈按と蔵按ほどの繋がりがない壕按は、別行動を提案する。堂内を探るのはこのメンバーでする方が早くて確実だが、広い山で、何処に行ったか分からない僧を探すのは別々の方が良いだろう。
「ああ、そうだな」
逃げた裏門が一番追いやすいが、四日も経っている事と、堂内の痕跡が全く無かった事などから、山全体を考えての追跡の方が良いと判断した三組は、それぞれ山の中に散っていった。
裏門からの追跡を担った慈按、雲鄭、玄妬達は、木々草花の倒れ等を調べていき、行方を追うが、日にちが経っているためか、痕跡は消えていて難航していた。
首の曲がった僧の気配はないが、違う気配を慈按達は感じていた。同族の気配だ。
目で合図した後、慈按達は気配の主を誘い込む策に入る。
少し開けた山間に出ると、慈按は直ぐの法輪を木々の上へと投げた。
宝輪は木々の枝を破壊しながら慈按の元まで戻ってくる。
「何奴じゃ」
慈按は木々の上を睨みつけながら、法輪を投げる構をとった。
雲鄭は独鈷杵をかまえ、玄妬は戟を三回まわした後、地に着けた。
返事が無い。しかし、明らかにこちらを伺う気配が微かにある。隠形にたけた者の気配だが、気配を消す妖に比べたらわかりやすい。
「陰者か。各宗派の呪術部隊から逃げ出した者が、我らに敵うか」
シュ! シュ! シュ!
慈按の挑発に乗ったのか、上から鋭利な礫が放たれた。
シュルルル
カン カン カン
慈按が礫を防ぐ事無く、法輪を礫が放たれたほうへと投げた。襲ってくる礫は、雲鄭と玄妬が弾きかえす。
バキ!
放たれた法輪は、木々を折りながら慈按の元へと返ってくる。
ドサッ!
木々の枝に紛れて人が落ちてきた。
駆けつけた玄妬が、戟を落ちて来た人に向けたが直ぐに戻した。
「傀儡か」
枝に挟まれるように、人型の傀儡が倒れていた。
「堯仁の奴か」
「ああ、厄介な奴が首を挟んで来たな」
「陰者より先に僧を見つけなければ」
慈按は懐より呪符を二枚取り出し、空に向けて投げる。呪符は鳥に姿を変え、木々の間を抜けていった。
蔵按と壕按に簡易式を送り、陰者の事を伝えたのだ。
「急ぐぞ!」
三人の姿は、山の奥へと消えていった。
「おい、下に何かいるぞ」
「ん・・」
木々の上から下を指さしながら、読唇術で会話をする男が二人。堯仁が放った陰者だろう。
下には雑草を踏みながら、身体をきずつける枝を、気にする事なく歩を進める僧がいた。
「あいつ、首が曲がってないか」
「ああ、恐らく死人だ」
堯仁からの指示は高野衆の目的探しだ。凄腕の三按が四国に来た目的を探る事だ。だが、地上に明らかに怪しい僧がいる。
「こいつが三按の目的じゃないのか」
「ありえるな」
二人は同じことを考えている。今の陰者の里で、堯仁の存在が気に入らないのだ。いつの間にか長気どりで、今回も偵察を命令したきた。里で暮らしているが、部下ではないのだ。
「死人を捕らえて持ち帰るか」
「ああ、それが良い」
元々は規律や縦社会等が嫌で、呪術部隊から離れた者たちだ。自己中の考えが前に立つのだろう
二人は木々から飛び降り、僧を前後で挟んだ。
「オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ」
前に立つ陰者が印を結び、大威徳明王の真言をとなえる。
僧の動きが止まり、前方の陰者が僧へと近づいていく。
首の曲がった僧は明らかに死んでいる。顔中は傷つき、目には枝が刺さったままになっていた。
背後の陰者は、独鈷杵を握りしめながら、僧へと近づく。
前方の陰者が、僧の懐に何かを差し込んでいるのが見え、それに手を伸ばした
バリバリバリ!!
青と白の火花がスパークし、陰者の腕が飛んでにく。
「オン・マユラ・キランディ・ソワカ」
背後の陰者が慌ててマントラを唱え、独鈷杵を僧の背中に突き立てた。
今までの経験から、これで死人は動きを止めると確信していた。しかし僧は素早く後ろを振り返り、陰者の頭部を掴む。この速さ、普通の死人の動きではない。
「この動き、隋風様の死人並みか!」
片腕になった陰者が、痛みに耐えながら、自分の独鈷杵を懐から出した。
メリメリメリ
「がぁーーーーー!!」
頭を掴まれた男が絶叫する。
メリ メリ グジューー
男の頭が握り潰された。
ドサ!
片腕の陰者の前に頭の潰れた遺体が投げられた。男の頭は歪み、眼球が飛び出し、耳からは脳髄が垂れ流れだしていた。
僧が片腕の陰者へと近づいていく。
「オン・シュチリ・キャラロハ・ソワカ」
陰者は、僧が先程動きを止めた、大威徳明王の真言を唱え、胸に突き刺した。
ガシ!
僧の動きは止まらなかった。僧は陰者の頭を掴んでいた。
メリメリメリ
ギャーーーーーー!!!
陰者の悲鳴が木霊する。しかし生い茂る木々が、それらを吸収し、山の静寂はすぐに戻る。
静寂に背を向けながら、再び歩き出した僧の背後に、頭の潰れた遺体が、静かに横たわっていた。
ギャーーーーーーーーー!!!
何処かからの悲鳴が、木々を反射しながら山中に響いた。
「いましたね」
悲鳴を聞きつけ、現場の近くにいた壕按が首の曲がった僧と接触した。
壕按の前にいた高野衆の瀞委が、独鈷杵を構え僧へと向かっていった。
「瀞委! 引きなさい!」
壕按の声が届いたのか、瀞委の独鈷杵は、僧を突き刺す手前で止まっていた。しかし、僧と独鈷杵の間に青白い火花がちらついている。
「下がるんだ! 瀞委!」
瀞委は素早く独鈷杵を引き、後ろへと跳んだ。あのまま突き刺していたら、瀞委の腕は吹き飛んでいただろう。
「壕按様、すみません」
少しづつ前進する僧を見据えたまま、瀞委は壕按に謝る。
「瀞委、先走り過ぎです。どうやら僧事態が結界になっているようですね」
「どうしましょうか?」
壕按の横で控えている蒔窯が戟を構ながら尋ねた。
「オン・バサラダルマ・キリ オン・バサラダルマ・キリ」
壕按が印を結び紡いでいく。救済の力が及ばない世界はないと言われる千手観音の真言だ(マントラ)。
僧が一時動きを止めてたが、再び動だそうとしているのか、小刻みに震えている。
「大丈夫か壕按」
「いけそうか壕按」
慈按と蔵按がほぼ同時に駆けつけてきた。
「この僧事態が曼荼羅の結界になっているんですよ」
「死人が結界!」
慈按と蔵按は壕按の言葉を一瞬で理解した。この僧に危害を加えると、反動で呪詛が返ってくるのだ。
「オン・バサラダルマ・キリ オン・バサラダルマ・キリ」
何とか足止めしようと、壕按が再びマントラを唱える。
「ナウマク・サマンダボダナン・バク」
「オン・アミリタテイゼイ・カラ・ウン」
慈按と蔵按も釈迦如来、阿弥陀如来の真言で僧の動きを止めようと唱える。
瀞委、雲鄭等の高野衆達は、僧の結界が解けるのを待ち、いつでも仕掛けられるように、それぞれの法具を構える。
三按達の額に汗が浮かび、地に落ちていく。慈按、蔵按、壕按もこれほど集中して呪術を行うは久しぶりかも知れない。
足を止めていた僧が、カクカクした動きで印を結びだした。
「ナ ウマク サマン ダボダナン アビラ ウン ケン」
カクカクしながらも確実に印を紡いでいく。
「な、なんだと!」
「馬鹿な!」
壕按と蔵按が思わず声がでた。当たり前だ、死人がマントラを唱えているのだ。
「法界定印だと!」
慈按が怒鳴るように声を発した。
首の曲がった僧が、腹部の前、組んだ左右の手で楕円形を作る法界定印を組んでいた。
バン!
暴風が吹いたかのように、地に生える雑草が千切れ、三按達、その他の者も周りの木々へと吹き飛ばされた。恐らく、その衝撃で皆、大なり小なり骨折等の重症を追っているだろう。
「やるしかないか」
口から血を流しながら立ち上がる慈按。その手は怪我で震えながらも、法輪を握りしめていた。
「おやめなさい」
立ち上がる慈按の背後から、場にそぐわない穏やかな声が届いた。
光圀だ。白髪の老人はゆっくりと首の曲がった僧へと近づいて行く。
三按や、その他の高野衆も、その歩みを止めれる雰囲気ではない。いや、光圀のオーラ的なものが、そうさせているのだろう。
「オン・マイタレイヤ・ソワカ」
弥勒菩薩呪を唱え、両手を下に広げながら、その場に結跏趺坐の形で座した。
僧は上からしばし光圀を見下ろす。沈黙の後、懐から巻物と千切れた紐を取り出し、光圀の前に差し出す。
光圀は一礼した後、巻物と紐を受け取り、紐を巻物に結び直した。
「南無大師遍照金剛」
巻物へ手刀で印をむすび、大師御宝号を唱える。僧を見上げるように見た後、両手で巻物を差し出した。曲がった首で巻物を見つめる僧。片手で巻物を握り、懐へと入れた。
僧がゆっくりと歩き始めた。それを見た高野衆が動き出そうとする。
「駄目です!」
光圀の制する声が静かに響いた。三按でさえ抗えない響きがあった。
「高野衆の者なら分かるでしょう。あの僧が纏う霊気を」
皆、黙り込んだ。
「奥の院で感じるものと同一のもの。あの僧は弘法大師に護られているのですよ」
「・・・・」
「曼荼羅の事は前座主様より伺っています。もし水戸家が見つけたら御山に返してくれるようにとお願いもされています。しかし・・」
光圀は推測ですがと注釈をいれ説明する。
曼荼羅は金剛峯寺という結界から出されると、空海が仕掛けた呪術が発動する仕組みになっていたのだろう。恐らく、下生した空海以外が紐を解くと爆発する呪法。再び安全な場所に運ぶ為の死人返りの呪法。この死人返りの呪法は空海のみが知り、他の者には解除も退治も不可能。天才空海のみが扱える術なのかもしれない。
「偶然僧と出くわした者が、巻物と紐を差し出されたという噂を聞きました。敵意が無い者に結界の修復を依頼したのでしょう」
だから光圀は、敵意が無い事を伝えるため、結跏趺坐の姿勢で僧の前に座ったのだ。
「今追っても、弘法大師の術に敵う者はいないでしょう。怪我人、死人が増えるだけです」
光圀は、木々や草に紛れて見えなくなっていく僧を見つめた。
「金剛峯寺に、曼荼羅を運ぶための手順書が記された古文書があるはずです」
事実、戦国時代に曼荼羅は高野山から出されている。手順を踏まないと今回のような事を繰り返すだけだと光圀は言っているのだ。
光圀の言葉を聞いた、三按と高野衆は誰も動こうとはしなかった。言われた事が本当だから、誰も動けないのだ。
ここは空海が修行を行った地。恐らく無数に結界が張られた場所がある。首の曲がった僧はそこへ曼荼羅を納めるだろう。
白髪の老人は、僧が消えた方角に、合掌をした後目を閉じ一礼する。
「南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛」
伝説的天才僧侶、空海に心からの敬意を払い、大師御宝号を唱える光圀に、山間の風が静かに吹きつけていた。