高野衆
山の中。村からも里からも遠くはなれ、恐らく獣しか足を踏み入れない奥の奥。木と木の間が少しだけ開けた場所で男が一人座っている。
目をつむり、動く事は無く、山に溶け込み、山の木々と同じよに、自然にそこに座る。
男は修行中なのか、汚れた僧衣を纏っていた。
汚れてはいるが、みすぼらしいと言う事はない。むしろ気品のようなものを感じさせる。
虫の音の中で、微かに空気を揺らす静かな呼吸が、男が生きている事を証明している。
呼吸も仙道の呼吸法、小周天を取り入れているのか、体の中で気が循環するように巡る。
しかし男が仙道を学んだ事はない。今までの修行で身についた呼吸法だ。
ピキッ! パキッ!
山の中の気が変わった。澄んだ空気の中に瘴気が降りてくる。
高々と伸びた木々の間にこぼれる月明かりを遮るように、瘴気が濃くなっていく。
男の背後で何かが蠢く気配を感じる。常人では感じる事の出来ない気配だ。
蛇のような瘴気が男の身体にまとわりつく。渦状にまとわり、身体をしめつけるようだ。
背後で蠢く物は徐々に男との距離を詰める。だが男は動かない。
シャーーーーーー
蠢く物が突如、男に牙をむいた。
常人なら、訳もわからず五体をバラバラにされ、殺されている速さだ。
しかし男は、瞬時に独鈷杵を蠢く物の顎に突き刺した。
蠢く物が後方へ飛んだ。こぼれる月明かりの下で蠢く物の姿が浮かぶ。
猿人だ!
だが、普通の猿人ではない、目が一つで額の中央にあり、鼻が低く無いに等しい。開いた二つの穴が、鼻であると誇示しているようだ。
「オン・バサラヤキシャ・ウン」
男がマントラを唱え、独鈷杵に念を入れる。
独鈷杵が念に応えるように、瘴気で曇る月明りを薄く反射した。
「オン・バサラヤキシャ・ウン」
男は再度マントラを唱え、低い姿勢をとり猿人へと走る。
猿人は男を迎え撃つべく、腰に力をいれた姿勢で両腕を広げた。
猿人の視界から男が消えた。
男は木々の間を跳躍して、猿人の頭に独鈷杵を突き刺した。
猿人は悲鳴を上げる事なく草木の間に倒れた。
瘴気が消えていき、猿人の身体も霧のように、静かに消滅していった。
明るさを取り戻した月が、草の上に転がる独鈷杵を照らす。
男は独鈷杵を拾い、猿人が現れた方角へと足を進める。
木々の中、ひたすら大きい木がそびえたっている。
木の根の方に空洞が出来ていて、裸の少女が眠っているのが見えた。
少女は十四、五歳だろうか、微かに動く胸が生きている事を伝える。
男は少女を抱き上げ、夜が明ける前の山を降りて行った。
光圀一行は山を越え、麓の村まで後少しと言う所を歩いていた。
「ご隠居、あれは?」
助三郎が木々の間で倒れている人を見つけた。
角之進が走り、倒れている人を抱きかかえる。
「子供ですな」
角は子供が息をしているのを確かめる。外傷もなく、寝ているだけのように思われた。
「大丈夫です。怪我もありません」
「しかし何故子供がこんな山のなかで」
光圀は顎鬚をさすりながら、子供の顔を覗き込んだ。
子供は寝息をたてている。歳は五つもいってない位だろか、綺麗な顔立ちで男女の区別がつけにくい。
着ている着物から男の子と判断できるが、女物の着物を着ていたら女の子と思われるだろう。
「んーーーん」
角に抱かれ揺られたせいか、子供が目を覚ました。
子供は光圀達を見て、怯えた表情を見せる。
「大丈夫じゃ」
白髪の老人は、子供に安心できる笑顔をみせ、頭を撫でた。
「坊やの家はどこかな?」
「・・・」
子供は辺りを見渡し、麓の方を指さした。
「じゃあ、おじさん達が送ってあげよう」
角が子供を肩車に乗せる。子供が初めて笑顔をみせた。
二メートルは超える角之進の身長だ、今までと違う景色になり、肩の上で子供がはしゃぎはじめる。
角はバランス良く子供を乗せたまま山を降りて行った。
「良太だ!」
村に着くと、子供を肩車した角の元に村人が集まって来た。
村人の前で子供を下ろすと、子供は一人の女性の前へ走って行った。
「良太!」
女性は子供、良太を抱きしめた後、光圀達を見て会釈をする。
女性は二十を過ぎた位だろうか、他の村人よりも品があるように感じられた。
「ありがとうございます」
女性の前に出てきた男が光圀達に頭を下げた。
「私は庄屋の佐栄吉と申します。この良太の父親です」
「女房の和葉です」
良太を抱きしめながら和葉も頭を下げた。
佐栄吉は和葉よりかなり年上に見えた。いや、庄屋を職務としているのなら、それなりの歳のはずだ。
「いやいや、礼には及びません。山で寝ていた所を連れて来ただけですから」
光圀は優しい笑顔を村人達に見せた。
「旅の途中ですか? 良かったら私どもの家で休憩してください」
「よろしいのですか」
「はい、大したおもてなしはできませんが、お食事でも」
佐栄吉に連れられて庄屋の家に向かう一行。途中で見える田んぼの収穫から裕福な村なのではと想像できた。事実、すれ違う農民達も生活に貧窮している様子は無い。
案内された佐栄吉の家も屋敷並の大きさで、使用人達が光圀達を出迎えた。
「どうして良太は山で寝ていたのですかな?」
落ち着きのある庭が見える部屋で茶を飲む光圀、率直に疑問を口にした。
「はあ、あの子はもうすぐ五つになるのですが、少し成長が遅く、会話が出来るようになったのも最近の事で」
「・・・・・」
「良太が言うには、山に呼ばれたからと、これで今年に入って三度目なのでございます」
「ご心配な事ですな」
「私達もあの子から目を離さぬようにしていたのですが・・・ まあ、良太の話は置いときまして、夕食も用意してますので今夜はお泊りください」
「お言葉に甘えさせていただきましょう」
「ごゆっくりどうぞ」
佐栄吉は笑顔で光圀達の部屋を出ていった。無理もないと光圀は思う。多分佐栄吉は四十は超えているだろう、あの年で授かった子宝が無事に帰ってきたのだ、嬉しくて仕方ないのだろう。だから助けた光圀達をもてなそうとしているのだ。
「ご隠居、山が呼んでいるとは?」
助三郎が心配気に訊ねる。過去にも同じような事案があったのだろう。
「子供がいう事ですから信憑性はありませんが、探る必要があります」
「私が村人から探ってきましょう」
角之進が巨体を立ち上げ、出ていった。
光圀はいつのまに姿を現した黒猫をみて頷いた。黒猫は光圀の真意を理解したかのように、一声鳴いた後に姿を消した。
白髪の老人は庭を眺め、顎鬚を撫でた。
「角さーん、こっちも頼むよ」
村人達が角之進に声を掛ける。最初は怖がっていた村人達も角の人柄が分ったのか、「大男が野良仕事を凄い力で手伝ってくれる」と評判になり、角之進は人気者になっていた。
「角さん達が庄屋様の子供を助けたのですね」
お喋り好きそうな女性が野良仕事をしながら角に話しかけてきた。
角も情報を仕入れられそうなチャンスなので、笑顔で応じた。
「助けたと言うよりも、山で寝ていたのを起こしただけだけどな」
「へ~ そうなんだ」
「庄屋さんと和葉さんは歳がだいぶ離れてそうだが」
「あぁ~ 和葉さんは後妻だからね」
女性が言うには、和葉は数年前に山で行方不明になった所を旅の僧に助けられた。その後奇妙な雰囲気を醸し出す彼女を娶ろうとする村人はおらず、両親にも先立たれた彼女を不憫に思い、使用人で雇っていた佐栄吉が妻に迎えたのだそうだ。
「庄屋様も一年前に奥様に先立たれて寂しい時だったんだねー」
「ほうー 行方不明になってから五年後に庄屋さんの嫁になったのか」
「んだ、でも和葉さんも庄屋様も良かったよ、子宝にも恵まれて」
女性は心底、喜んでいるようだった。この村の繁栄は佐栄吉の尽力のおかげだそうで、村人は皆、妻に先立たれて伏せている佐栄吉を心配していたそうだ。
「だから子供が助かったと聞いた時、皆喜んだんだよ」
粗方の情報が入った時、日が暮れかけ野良仕事の終了を告げる。
角は村人と別れ、庄屋の家へと足を向ける。
「山帰りの娘と、旅の僧か・・・」
角は一人ごちた後、渋い表情を浮かべる。これからの展開が想像できたのか、気合を入れるかのように深呼吸した後、夕焼けを背に走り出した。
「そうでしたか」
庄屋の家に戻った角は、村での話を光圀に伝えた。
「やはり良太は山の精を受けていると考えられます」
助が、心配していた事が当たってしまい、渋い顔を浮かべた。
山には色々な気が集まる。それらが人形をとったものが妖精と呼ばれ、小人もいれば、猿人もいる。力の強い妖精は山神となる。
妖精は実態化しても雄と雌の概念が無いため子孫を増やせない。死ぬと言う概念もないが、力が衰え、消えるという事はある。だから妖精は人間の女を攫い、自分の精を植え付け、生まれた子供を山に向かい受ける。
和葉は十年前に山の精を受け、その後良太を産んだ。山の精は妖力に満ちている。今の良太は普通の人間と変わらないが、数年後にはどう変貌するか分からない。
「山に呼ばれるという事は、覚醒が近いのかも知れませんね」
「危ないという事ですか?」
助が眉間に皺を寄せる。五歳の子供が山に連れ戻されるのだ。いや、攫われると言った方がよいだろう。
「弥晴に結界を依頼しました、暫くは山からの誘いを防げるでしょう」
光圀は障子戸を開け庭を臨む。秋から冬に向かう風が光圀の髭を揺らす。
山の精を受けた者を救う方法はまだ確立されていない。光圀の真言も、助三郎の妖刀も通用しない。
白髪の老人は暗闇の向こうにあるであろう山に視線を向けた。
深夜、光圀は静かな気配で目を覚ました。
助と角も同じように目を覚まし、障子戸越しに気配を探る。
気配は妖魔ではない、鍛錬を行い気配を消しながら進む人の気配。感じるか感じられないか、あるかないかの気配。光圀達だからこそ、感じられる気配。だが、忍びではない。他の特殊な鍛錬を積んだ者の気配だ。
気配はまっすぐに良太がいる、佐栄吉夫妻の寝室へ向かっている。
助と角は立ち上がり、一気に障子戸を開いた。
これだけ気配を消せる手相には、正面から挑む方が闘いやすいと考えたのだろう。
佐栄吉の部屋へ向かっていた気配の主達が、一斉に光圀達へ襲い掛かってきた。
光圀達は庭へと飛び降り、気配の主達と対峙する。
気配の主は三人。月明りの下に姿を現した。
三人共僧着を纏い、一人は独鈷杵を構え、一人は法輪、もう一人は戟を携えている。
戟を持った僧が角に襲い掛かる。戟とは槍に似た武器で、長さは二メートルを超えている。
普通の戟は精々一メートル五十位で、二メートルを超える戟は使い難いと思われるが、この僧は角を突いてかわされた後、瞬時に戟を跳ね上げ、上段から振り下ろした。
角は上体を前に踏み込み、戟をクロスした腕で受け止めた。常人なら腕が折れている一撃だ。
独鈷杵を構えた僧も同時に動いていた。独鈷杵を右手に握り助へと走る。
迅い!
瞬時に助の前に着き、独鈷杵を突き刺そうと振りかぶった。
助も素早い動きで妖刀、暁宗を鞘から抜き一撃を防いだ。
法輪の僧も動いていた。光圀めがけて法輪を飛ばす。法輪は回転しながら白髪の老人を襲う。
シュッ!
光圀が法輪へ葵退魔銃を放つ。
法輪が砕け散った。
「俺の法輪を砕く銃。葵退魔銃か」
法輪を扱う僧が低い声を出した。
「葵退魔銃を知っている其方は高野者か」
法輪の僧が唇の片方を吊り上げた。
「俺は慈按」
慈按は名乗りながら新しい法輪を取り出した。慈按、背丈は百六十を超えたくらいだが、体格は角之進にひけをとらない。法輪を掴む腕は太く、深手を負ったような傷跡が残っている。
「光圀公とお見受けする」
「貴様! ご老公と知っての狼藉か」
「我ら高野衆は、水戸家の下についているわけでは無い!」
慈按が助三郎を睨みつけた。
退魔業において、水戸家と高野衆は棲み分けをしているだけで、高野山真言宗が水戸家の下に就いているという事はない。
水戸家は権力が絡む武家での退魔を主流とし、高野衆は村民、町民の間で起きる退魔を生業としていた。
高野山真言宗は、慈按が言う通り水戸家の配下にあるわけではない。
「我らは山の精を受けた子供の始末をしに来た」
「始末だと!」
角が怒りを露わに一歩前に出た。戟を持つ僧が矛先を角に向ける。
「あの子供の母親は、十年位前にこの澐鄭が助けた女だ」
慈按が横にいる独鈷杵を持つ男を指さした。
澐鄭。慈按よりも背は高く、線が細い印象を受けるが、無駄な肉がついていないだけで、貧弱な事はない。
澐鄭は光圀達に鋭い視線を向ける。
「あの子の始末は我ら高野衆に権利がある。水戸家は口出し無用!」
光圀達と高野衆が睨み合っていると、騒ぎを聞きつけてか、使用人達が庭に出て来た。
「どうかされましたか?」
佐栄吉も寝床から出て来て、光圀達の傍にやって来る。
高野衆かき消すように姿を消した。
「きゃーーーーーーー」
母屋で悲鳴が上がる。
しまった! と舌打ちをして、助と角が母屋へと走る。
障子戸は破壊され、母屋は夜風にさらされている。
二人が部屋に入ると、和葉が布団の上で泣き崩れていた。
「良太が! 良太が!」
部屋の中には良太の姿は見えず、獣毛が散らばっている。
「和葉さん、何があったのです?」
助は狼狽する和葉の両肩に手を置き、落ち着くようになだめた。
「猿の群れが行き成り入ってきて、良太を連れていったの」
和葉は助三郎にすがるように泣き崩れる。
子供の名を叫ぶ母親の声が、夜の風に運ばれ村中に響いた。
静寂を乱すように猿の群れが山に向かう。
群れの真ん中にいる猿がボスだろうか、身体が他の猿より二周り位は大きい。背に子供を乗せている。
乗せていると言うより、子供がしがみ付いているように見える。
猿の群れは暗い麓を抜けて、山の奥へと入ろうとする。
疾い!
怒涛の如く、山へと向かう。
猿の進軍の前に、三人の人影が月明かりに浮かぶ。
一人が前に出て、法輪を放つ。慈按だ。
澐鄭も独鈷杵を右手に跳躍した。
放たれた法輪が猿の陣営を崩す。
「玄妬!」慈按が叫んだ。
戟を持った男、玄妬が走ってくるボス猿の前に立ちはだかる。
ボス猿は子供を背に預けたまま、玄妬を飛び越そうと跳躍する。玄妬が頭上を飛ぶ猿の腹に戟を突き刺した。
ボス猿は落下し、背の子供も地面に打ち付けられると思われたが、子供は宙で回転し地上に降り立った。
ググググググ シュユユューーーーーー
子供、良太は四つん這いになりながら、高野衆を威嚇する。
幼児がとる仕草ではない、いや人間がとる仕草とは言えない。
「山の精が目覚めかけている」
慈按が眉間に皺を寄せて良太を睨みつける。彼は良太の仕草を見て言ったのではなく、猿の群れを操る事が出来てきている事で判断する。
猿の群れが良太を攫ったのではなく、良太が猿の群れを呼んだのだ。
慈按が法輪を構える。良太の周りには再び猿が集まってきている。
「慈按様、法輪で猿を散らして下さい。隙を見て私が子供に術をかけます」
澐鄭が独鈷杵を右手に握り、懐から呪符を取り出した。
「術でいけるか?」
「まだ今なら」
「俺が補助する」
玄妬が戟を猿の方に向け走り出した。
猿が数匹玄妬に飛びかかる。慈按が法輪を猿の群れに放つ。
猿共が良太から離れた。それを見た澐鄭が良太に向かって走る。
良太が向かってくる澐鄭に飛びかかった。
澐鄭は良太を受け止め、ヘッドロックの形で身動きを封じた。
「オン・バサラド・バン!」
額に呪符を張り付け、顔の前で印を結んでいく。
「ナウマク・サマンダボタナン・アビラウンケン!」
良太が痙攣するように少し震えた後、地に伏した。
猿の群れが我に返ったように、散りじりになって山へ帰って行く。
澐鄭が良太を抱き上げ呪符を外した。
山に静寂が戻り、静かに闇が開けようとしていた。
光圀達が急ぎ山に入ろうと、麓に向かう途中で猿の死骸が点在していた。
助三郎が、木々の間に僧衣を掛けられ横たわる良太を見つけ、庄屋の家に連れて帰った。
良太は土で汚れてはいたが、眠っているだけのように思われる。
「ご隠居、良太の懐に書状が挟まれておりました」
書状は光圀宛で、裏には梵字が一字だけ書かれている。
光圀は書状を読んだ後に、助三郎、角之進と共に佐栄吉と和葉が居る部屋を訪ねた。
部屋に入ると、寝ている良太の顔を撫でる和葉の姿が目に入った。
「佐栄吉さん、和葉さん、大事なお話があります」
光圀は印籠を助から受け取ると、佐栄吉の前に差し出して自分の正体を明かした。
佐栄吉と和葉は慌ててひれ伏し、改めて礼を述べる。
白髪の老人は笑顔で応対し、今まで通りで良いと笑う。
「良太は間違いなく二人の血を受け継いだ子供じゃが、山の精の宿命を帯びておる」
光圀は二人に山の精について説明した後、昨夜の騒ぎは高野山からの使いが来たからだと告げた。
「今のままでは良太は山に攫われるじゃろう」
「ご老公様、どうしたら良いのでしょうか?」
涙目になりながらすがってくる佐栄吉に、光圀は先程の書状を見せた。
「これは高野山の使いの者からの書状じゃ、良太を迎える用意があると書かれてました」
「良太を高野山に!」
「高野山で修行して、山の精の宿命を利用し退魔師になるよう薦めています」
「しかし良太はまだ五つです」
光圀は書状に、良太が十歳になる頃に高野山から迎えが来ると話す。それまでは昨日、高野山からの使いが施した術、「大日魔封師業」が山の精の活動を押さえると説明した。
「男の子はいつか家を出るものです。高野山に預けるのが懸命でしょう」
「良太を退魔師に・・・・」
不安げな佐栄吉に、白髪の老人はもう一つの案を告げる。
良太が山の精の宿命を克服した後、退魔師が自分に合わないと思うなら住職の道もある。
その時はこの地に水戸家が寺を建立すると約束した。
天下の副将軍に、そこまでの約束を貰うとさすがに断れない。それに五年後、良太が山に攫われるのは確実だろうとも思う。佐栄吉と和葉は光圀に「よろしくお願いいたします」と頭を下げた。
慈按は自分が良太に高野山の修行を薦めるより、光圀に説得してもらう方が良いと判断して、この書状を託したのだろう。
「十歳までの五年間は、高野山がくれた五年間です。しっかりと親の愛情を注いであげてください」
白髪の老人は、山の精の宿命を背負った子供の頭を優しく撫でた後、山の方に視線を移す。
夕日に映える山に風音が響く。少し荒れた風の音が、子供を取られた恨み節のように光圀には感じられた。