式霊(しきだま)
「悔しいか?」
「悔しいです」
「奴らを恨むか?」
「恨みます」
「死して恨むか?」
「死して恨みます」
暗がりの小屋で、男二人が対峙している。
一人は百姓だろうか、乱れた曲げにつぎはぎだらけの着物を着ている。
もう一人は僧侶風の身なりで、修行僧なのか、くたびれた衣をまとっていた。
百姓の男は、僧侶にしがみついた。
「そなたが死して恨むと言うなら、これを授けよう」
「これは?」
「そなたの恨みをはらす物だ」
「恨みをはらす・・・」
「さよう」
男は渡された物、紙片を両手で受け取った。
僧侶はそれ以上、何も言わずに男から離れ、暗い山へと続く道に姿を消した。
「勘弁してください」
「えーい! うるさいわ!」
「この娘はまだ五つです」
「関係ないわ!」
光圀一行が農村に入った時、争う声が聞こえた。
小屋の前で数人の役人と、百姓達がもめているのが見える。
役人が子供の手を無理矢理に引っ張り、連れ去ろうとしているようだ。
「助さん、角さん」
「はっ!」
助と角が役人の元へ走り、助三郎が子供を取り返した。
「何だ!貴様らは!」
役人達は百姓との間に入り込んだ助と角を囲み、刀を抜いた。
角之進の迫力に押された一人の役人が、恐怖からか、返事を聞かずに切りかかった。
無理もない、初めて角之進を見る人は、まず目を外して関わらないようにするだろう。
今みたいに敵対してしまうと、殺られる前に殺らねばと思い、襲いかかってしまうのだ。
角は向かってくる役人の刀をかいくぐり、当て身をくらわす。役人は地に伏し気絶した。
「おのれー!」
次々と役人が角に切りかかる。しかし刃が角を傷つける事はない。
ものの一分もかからずに、一番偉いであろう役人を残して、皆負傷を負い、戦意を消失していた。
「おのれー! おのれー! 覚えておれ!」
役人達は、気絶している男を抱え逃げて行った。
「ありがとうございます。 ありがとうございます」
娘を抱きかかえながら、百姓の男は何度も頭を下げた。
「ありがとうございました」
首長らしい男が、光圀の前に出てきた。
光圀は、皆が安心する笑みで男を見た。
「どうして役人が、子供を連れて行こうとしたのですかな?」
「ここでは何ですので、私の家で」
男はこの村で庄屋を務める者で、居能貞孝と名乗った。
貞孝の家は、村の外れにあり、庄屋という地位に就けているが、立派とは言えない。他の百姓達の家より少し大きいくらいだけだ。
貞孝は一行を部屋に案内して、姿を消した後、茶を持って部屋に入ってきた。
「おまたせをいたしました」
「いや、お気を使わずに」
茶をすすめる貞孝に、光圀は礼を述べ茶を口に運んだ。
居能貞孝、庄屋を名乗るわりには貧しい生活をしているようで、痩せているというよりは窶れている印象を受ける。
歳は三十後半だそうだが、陰を感じさせるせいか、四十半ばは過ぎているように見えた。
「改めて感謝もうしあげます」
貞孝は深々と頭を下げた。
「いやいや。 それより何故役人が子供を連れ去ろうとしたのですかな?」
「はい、生贄でございます」
「生贄だと!」
角が少し大きな声を出した。光圀も助と視線を合わせる。
水戸家と、真言高野衆が妖魔を討つようになり、生贄等の風習は禁止になっているはずだ。
「生贄を捧げるような妖魔は、高野衆が退治していっているはずなのでは」
光圀が率直な意見を述べる。
この時代、町、農村などでの妖による事案は高野山の高野衆が退治を担い。武家、仏閣等の権力が絡む事案には水戸家が対応しているのだ。
「はい。私もお代官様にそう進言したのですが、退治されるまでは生贄をだすのだと言われまして」
「ふむ。 で、生贄を与える妖魔とは、どのような妖かな」
「獣の妖にございます」
「妖獣ですか。 いつ頃から被害を」
貞孝が言うには、ここ三か月位前、急に妖獣が現れたそうだ。
山菜採りに出かけた村人が被害を受けたのに始まり、退治に赴いた役人達もことごとく殺されたらしい。
命からがら逃げ延びた役人が言うには、妖獣は二メートルは超える黒い化け物だったそうだ。
妖獣は役人の屍を喰らい、数人の役人の遺体を引きずり、山の奥に消えたという。
妖獣を恐れた代官の山江正孝は、高野衆が来るまで、村人から生贄をだすよう指示を出したというのだ。
「今までに何人が犠牲になったのですか?」
「・・・ ・・ 二人でございます」
貞孝は声を詰まらせながら答え、唇を噛み締めた。
村人から犠牲を出したのが余程悲しかったのだろう、涙が頬をつたう。
「すみません。みっともない姿を」
「いやいや、お気持ち御察しいたします」
貞孝は庄屋の位にいる人間だけに、涙を拭う頃には気持ちを切り替え、光圀達に接し始めた。
しかし光圀は、貞孝が涙を拭った後の、暗い影のある瞳を見逃さなかった。
「何もありませんが、良ければ今晩お泊りになってはいかがでしようか」
「そうですな、また役人が来て、村人を連れて行かれては困りますからな」
「ありがとうございます。ここ数日中には高野衆の方々も来られると思いますので」
用心棒みたいな事を頼んで申し訳ないと頭を下げ、貞孝は食事の用意があるのでと、部屋を出ていった。
「ご隠居、どういたしますか?」
「うむ、この件は水戸家で解決しましょう」
「わかりました」助と角が頷く。
「弥晴、いますか?」
「ニャー」
いつのまにか黒猫が、光圀の前に鎮座している。
「高野衆に今回の件から、手を引くように伝えてもらえますか」
黒猫が現れた時と同じように、忽然と姿を消した。
光圀は顎鬚をさすった後、考えをまとめるように茶をすすった。
「貞孝! 居るか!」
朝食の粥を食べている時に、家の外が騒がしくなる。光圀達は箸を置き、家の外に出た。
「お前達、まだいたのか」
昨日の役人が光圀達を見て、顔を歪める。
「いえいえ、昨日お役人様に逆らってしまったので、お詫びをしようとお待ちしておりました」
「何を今更!」
「お詫びに今からお代官様の所にご同行させていただきます」
「何を言っているのだ貴様は!」
役人は光圀を見た後、助を見た。その後慌てたように辺りを見渡す。
「昨日の大男はどうした?」
痛い目にあわされた角が居ないのに気づき、役人は声のトーンを落とした。
「はい、昨日のお詫びにあの者を生贄になるように命じました」
「それは誠か?」
「はい、ですから今頃は妖獣に食べられているかもしれません」
「そうか、わかった。 でわ、お前達をしょっ引いていくぞ」
役人が光圀を縄で縛ろうとするのを助三郎が制す。
「我々は旅の者、 なのに生贄を差し出したのですよ。そんな我々に縄をかけるのは、いかがなものですか」
それもそうかと、役人は縄をかけるのをやめた。
「貞孝はどうした?」
「はい、庄屋様は生贄の男を山の麓まで案内しております」
「そうか」
役人達は光圀達と助三郎を連れて、屋敷へと向かった。一方角之進は、貞孝と山へと向かっていた。
「角殿、大丈夫でございますか?」
「ああ、案内はこの辺りまででいいぜ」
「しかし妖獣は、昨日の役人のようにはいきませんぞ」
「わかってるよ」
角は唇に笑みを作り山の奥へ入って行った、貞孝には角の態度が、妖獣と会うのが楽しみでしょうがないように見えた。
村に着いた貞孝は、光圀達が役人に連れて行かれた事を村人から聞いた。
「庄屋様、旅の人を巻き込んでしまって、おら達はどうしたらよいか?」
「大丈夫だ、私に任せておきなさい。今夜でケリをつける」
「今夜?」
村人の問に答えず貞孝は自分の家に戻って行った。
「では、牢屋で待つがよい」
役人が光圀達を牢屋へ連れて行くよう指示を出す。
「待ちなさい。牢屋の前に代官今村殿に話があるので、会いにいきます」
白髪の老人は役人に背を向け、城内へと歩き始める。
「貴様! 何を言っておるか!」
役人が光圀の肩を掴もうとした時、助三郎がその腕を掴み、後ろ手に回した。
「痛! 痛! きっ! 貴様! 何をするか! 者ども、こ奴らを取り押さえろ!」
役人達が、光圀を捕らえようとおそいかかる。白髪の老人は杖を槍のように操り、次々と役人達を叩きのめしていく。
助三郎も、後ろ手に取った役人を蹴り出した後、刀を抜いた。
役人達は四人がかりで助三郎に刃を向けるが、傷つける事ができず、逆に峰うちで叩かれ負傷していった。
「助さん、もうよろしいでしょう」
「はっ!」
助が懐から印籠を取り出した。
「静まれ! 静まれ! この紋所が目に入らぬかー!!」
役人達が印籠に描かれた三つ葉葵を見て、顔色を変える。
「このお方をどなたと心得る。さきの副将軍! 水戸光圀公であらせられるぞ! ご老公の御膳である、皆の者! 頭が高い! 控えおろうー!!!」
役人達の顔色が青ざめる。皆、動揺しながらも地べたにひれ伏した。
「今村殿は城内においでか?」
光圀はひれ伏す役人達を見まわした。
「恐れながら、今村様は今病に臥しております」
「病に!」
「はっ! 半月くらい前から、寝床に鬼が出ると申して、日に日に窶れていかれまして」
「鬼とな?」
「はっ!」
「今村殿の所へ案内せよ」
光圀達が今村の寝床に案内され入って行った。今村の状態がとても悪く、座敷で光圀達を迎える事ができなかったのだ。
「水戸のご老公様、こんな無様な姿で申し訳ございません」
今村は寝床から起き上がろうとしたが、光圀がそれを制した。
「今村殿、生贄は禁止の方向である事は知っていよう」
「はい、しかし妖獣が余りに強いので、犠牲を最小限にと思い、仕方なしに」
「何が仕方なしですか!!」
白髪の老人が、病に臥せる男を激しく叱咤した。
「しかも、村人から生贄を出すよう命じるとはもってのほか!」
「申し訳ございませぬ」
今村がきつく目を閉じた。その目からは涙が流れ、布団にしみ込んだ。
病のせいで、かなり気弱になっているのだろう。武士が叱咤された位で涙を流す事はない。あるいは、自分の現状が、生贄に関係して起きているのかもしれないと思い、後悔しての涙かもしれない。
「そちは今、病の身。沙汰は追って行うとしよう」
「はい」
「で、鬼とはどのような鬼かな」
光圀が副将軍の顔から、退魔師の顔になる。
「はい、まさに絵で見たような鬼なのですが、身体が透けているのです」
「身体が透けている!?」
「はい、それに鬼は私にしか見えていないのです」
光圀は心当たりがあるのか、しばし顎鬚をさする。
「今夜は私が傍に就きましょう」
「それは心強いです。ありがとうございます」
光圀は今村に安心するように伝え、寝床を後にした。
山に夕映えが訪れる。しかし、その時間は一瞬だ。
秋の山は一気に暗闇に包まれ、人の時間は終わる。
これからは人以外の者が動き始める。
角之進は闇に目を慣らす。幸い月明りに恵まれ、暗黒というわけではない。
ビキッ! ビキッ! カサッ!
何者かが枯れ葉、枯れ木を踏みながら角に近づいてくる。
気配を消す事もない。自分が山の主だと誇示しているみたいだ。
風に流され、獣臭が角の鼻をかすめる。
獣臭の他にも臭いが混じる。嗅いだことのある臭いだ。
角が臭いの記憶を探っていると、臭いの元が一気に距離を詰めた。
速い!
野生の獣の動きでは無い。
角は二の腕をクロスして、顔をブロックした。
一気に距離を詰めて来た奴が、同時に攻撃を仕掛けてきたのだ。
ドバン!!
重い衝撃が角の二の腕から、全身に伝わる。
角は素早く蹴りを相手の腹に入れた。
ドスン!!
濡れた布団を蹴るような感覚が足に伝わる。
相手との距離が少し開き、月明りの下で姿が見えた。
熊だ!
体長三メール近い熊が角の前に立ちはだかる。
熊は二足立ちから、前屈みになり、四足での姿勢をとると、一気に跳躍して角に襲いかかってきた。熊であって、熊でない動き。真さに妖獣だ。
常人なら後ろ手に下がり、妖獣の攻撃をかわし、距離をとる状況だが、角は違う。
妖獣の身体を全身で受け止め、胴体を二の腕掴み、そのままバックドロップの姿勢で投げをうった。
角はこの時代の格闘技に精通した男で、剣技よりも、力にこだわる人間だ。
妖獣は頭から地面に叩きつけられた。普通なら頭蓋骨が割れ、首の骨も折られ、即死してもおかしくない。
月明かりの下、角は横たわる妖獣から少し距離をとった。まだ終わっていないと、角の経験値が告げる。
妖獣が立ち上がった。首はあらぬ方向を向き、背骨も折れたのか、胴体が歪んでいる。
獣臭が角の鼻を再びかすめる。そしてもう一つの臭い。
死臭だ!
角は確信して、妖獣との距離を素早く縮めた。
正拳を妖獣の顔にぶち込み、牙を折りながら、妖獣の口に腕を入れた。
そして舌を掴み、一気に引き出す。
長い舌が、唾液をまき散らしながら、月の光にあてられた。
舌に字が書かれた布が縫い付けられている。
角は刀で舌を切り離した。
切られた舌が、草の上で蜥蜴の尻尾のように蠢く。
角は妖刀を持たない。いや、持てない。妖刀を操るには天の才が要求されるからだ。
それに、角に妖刀はいらない。今まで、体術と力で、数々の妖魔を倒してきた。
今のような事態の対処法も、光圀に教わっている。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前!」 」
角は早九字を唱え、蠢く舌に拳を振り下ろした。
光圀が傍で見ているせいか、今村は久しぶりに熟睡状態に入った。
ここ数日、鬼が怖くて眠る事が出来ず、病の悪化に拍車がかかっている。
鬼が出た時に部下を呼んでも、他の者には見えない為、対処のしようがなかったのだ。
光圀は今村から少し距離を置いた所に座して、経典を読みながら、時が来るのを待った。
ピキッ!! シュッ!!
明らかに空気が変わった。
行燈内の蝋燭が静かに揺れる。鬼が怖いせいだろう、寝床には十個の行燈があった。
次々と行燈の火が消えていく。最後の行燈だけが消えずに大きく揺れた。
今村が息を荒くして目を覚ました。 が、目の玉を動かすだけで言葉が出ない。
部屋に瘴気が溢れてくる。瘴気は部屋で旋回し、渦状を作る。
渦の中心から手が出てきた。足が出てきた。そして鬼が姿を現した。
「ウギャーーーーーー」
今村が悲鳴を上げた。
鬼が代官の周りをゆっくりと歩く。顔を嘗め回すように歩く。
今村が言うように半透明だが、所々はっきりと実態化してきている。絵に描いたような鬼で、背丈は二メートルを超えている。
鬼の口から涎がこぼれ、今村の顔を濡らす。唾液は実態化していて、今村の顔の上で糸をひきながら布団に流れた。
「ごっ、ご老・・公・さま。 お助け・を 」
代官は目だけを動かし、喉から声を絞りだした。
しかし、光圀は動かない。じっと今村を見つめる。
鬼が代官の顔を掴んで、寝床から引き出した。
「ご・ろう・・こう・・さま」
代官は涙を流し訴える。鬼の手で顔を押さえられているせいで、呼吸がしにくくなっているようだ。
「今村よ、怖いか?」
光圀が問いかけた。鬼に殺されかけている男に聞く問ではない。
「ひーーー ひーーーーー -- ひーーーーーーーーー 」
今村は返事の代わりに、引きずった悲鳴で答える。
「生贄にされた二人も、さぞ怖かっただろう」
「 い け・・に・ ・え・・・・ 」
「そうだ、妖獣に喰われた人達だ」
鬼が今村の腕を掴んでねじる。
「ひっ ひぇ ひぇ ぎゃあああーーーーーーーーーーーーーー」
ボキッ! バキッ!
代官の腕がねじ折られた。
「生贄にされた者は、手足をもがれて喰われていたそうだ」
光圀は座したまま、目の前の惨事を見ている。
グゥオーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!
鬼が初めて吠えた。吠えているよりも、泣いているように見える。
悲しい鬼の泣き吠えだ。
鬼の実態化が進んできた。透けている所がほぼなくなってきている。
グシューーー ギュシューーーー
鬼が鳴きながら失神している今村の喉を掴んだ。
シュッ! シュッ!
光圀が葵退魔銃を連射する。
二発とも鬼の胸元に当たり、喉にかけた手が離された。
シュッ!
再び光圀が葵退魔銃を頭部に放った。
鬼はその場で倒れこんだ。
「助さん!」
部屋の外で待機していた助三郎が妖刀「暁宗」を抜いて走り込んできた。
助は鬼の傍までいくと、間髪を入れずに鬼の頭を掴み首をはねた。
部屋中の瘴気が鬼の身体に吸い込まれるように吸収されていき、同時に鬼の身体も消滅した。
助が掴んでいた鬼の頭部が青い炎で燃える紙片に変わり、ゆっくりと気絶している代官の傍に落ちて消えた。
「ご隠居、これは?」
助が妖刀を鞘に差し込みながら、紙片の燃えカスを見つめた。
「うむ、貞孝の家にまいりましょう」
今村の対処を役人に命じ、光圀と助三郎は屋敷を後にして、貞孝の家に向かった。
途中、山の方から歩いてくる大きな人影と出くわした。角之進だ。
角は早九字で、とりあえず封印している妖獣の舌を光圀に見せた。
「これは死人返りの呪法!」
舌が芋虫のようにもぞりと動いた。
「助さん、始末してください」
助が暁宗を抜き、舌に縫われている布を切り裂いた。
角の早九字は、動きを封じる事は出来るが、消滅まではできない。最後は妖刀で切り裂き、魔の力を妖刀に吸わせるか、光圀の真言で初めて消滅させる事ができる。
「妖獣は、造られた妖獣だったようですな」
「造られた妖獣!」
「恐らく、死ぬ寸前までいたぶり、人間を恨むように殺して、死人返りの呪法で生き返らせる」
光圀は推測した。熊を生け捕りにして、自由を奪い、嬲り殺した。その後、邪法で蘇った熊は、人間への復讐心しか持っていないため人を襲い続ける。
「誰が、何の目的でそんな事を?」
「貞孝の家に行けば、何か分かるはずです」
一行は貞孝の家に着いた。明かりは点いていない。
角が戸を開け、先に中へ入る。光圀、助三郎が後に続いた。
入った瞬間に、直ぐに分かる臭いがした。血の臭いだ。
角が貞孝の寝床がある部屋の襖を開ける。
真っ暗だ、窓も閉めきり、一切の明かりが入って来ない。
助が夜目を頼りに行燈に火を点けた。
貞孝が腹と頭部から血を流して倒れているのが見える。目を見開いてはいるが、絶命しているのは明白だった。
「やはりな」
光圀は顎鬚をさすりながら、貞孝の額を見ている。
助と角も貞孝の額を覗き込んだ。
貞孝の額、左側に皮膚を突き破って角が生えている。
間もないのか、角には、肉片と血がこびりついていた。
「あの鬼は貞孝だったのですか?」
「鬼?」
事態がわからない角に助が、代官屋敷での事を話した。
「鬼ではありません。生霊です」
光圀が二人に教える。屋敷での鬼は生霊で、半透明の間は相手に危害を加えられない。しかし、力が強くなってきていて、今日のように実態化すると相手を直に殺す事ができる。
だが、実態化すると言う事は鬼になる事。もう人には戻れなとの事だった。
「庄屋を生業としている者が生霊を飛ばせるのですか?」
「式霊です」
「式霊?」
「陰陽道で式神があるでしょう。神の代わりに自分の生霊を飛ばしたのでしょう」
助は青く燃える紙片を思い出した。
「あの紙片は呪符だったのですか」
「呪法のかかった紙片、これと恨みの心があれば、生霊も飛ばせるでしょう」
「恨み?」
「村人から聞いたのです。二人の生贄は、貞孝の家内と息子だったそうです」
「それはひどい」
光圀は貞孝の傍らに座り、目を閉じさせた。
「家内と息子は、最初に生贄になると決めた貞孝を止めたそうです」
「・・・・・・・」
「庄屋として村を護らねばならない貞孝が死んでいけないと」
角と助が貞孝の遺体を、光圀の指示で仰向けに寝かせ、手を組ませた。
「貞孝は村人と一緒に野良仕事をする男。この村が大好きだったのでしょう」
白髪の老人は、貞孝の部屋にあった経典、般若心経を唱える。
唱えながらも、心をよぎるのはこの一件の首謀者。
妖獣を造り、恨みの為の紙片を渡した人物。
この一件は、この人物が絵図を書いたよう思われる。
光圀の脳裏に 随風 の二文字が浮かぶ。
般若心経を唱える声が大きくなった。
夜の静寂に包まれた村に、般若心経が悲しく響いた。