妖
江戸城下町にかかる橋の上で、細身の男が月を眺めている。
男は細身だが、貧弱ではない。着痩せするタイプなのだろう、覗いた腕から、引き締まった筋肉が見える。
男はラフな着物に脇差しを携え、切れ長の目で月から視線を外し、橋の登り口へ首を動かした。
月の明かりの中、大きな影が近づいて来る。
影は二足歩行だから人間であろう、だが大き過ぎる。優に二メートルは超えている。
そして横幅もあり、身体全体から厚みを感じさせる。
やがて大きな男が、細見の男、佐々木助三郎の前に立った。
大きな男からは、闘気が立ち昇り、夜でもわかる鋭い目で、細見の男を見下ろした。
「あんたが、江戸の弁慶かい?」
大男からの闘気をサラリと受け流し、細見の男が大男を見上げた。
シュッ!
大男は、自分の気を軽く受け流した男へ、足払いを入れる。
速い!
態勢を動かす事なく放たれた足払いに、常人ならその場で倒されていただろう。だが助三郎は、瞬時に反応して、後方へと飛びのいていた。
シャッ!
大男が後方に着地した男の前に拳を入れる。大男の動きも尋常ではない。
後方に飛びのいた助の前へと、素早く移動して、拳を入れたのだ。
大男の口元に笑みがこぼれる。自然に出た笑みだ。
「ハハハ。やれやれ、ただの闘い馬鹿でしたか」
大男の後方で声が聞こえた。
大男の口元から笑みが消えた。初めての経験だった。
気配を感じる事なく、後ろを取られたのだ。
常に360度、周りを感じながら闘ってきた。決して、前の男だけに、意識を集中していたわけではない。
今までも、同時に十人以上の強者と闘った事もある。それでも背後を取られた事はない。
大男の身体から闘気が消えた。この男にとって背後を取られるのは、負けを意味するのかもしれない。
「ハハハハハ」
月の明かりに照らされ、白髪の老人が笑っているのが見えた。
「江戸の弁慶、いや、渥美角之進よ、強者と闘いたいなら、私と一緒に来ませんか」
穏和な笑みで大男を見上げる老人が、ゆっくりと自分の顎鬚を撫でた。
大きな男が山の中を歩く。散策という感じではない。ただ、山の奥へと歩いて行く。
大きな男、名を渥美角之進と言った。彼は先日、老人に背後を取られ初めての負けを認めた。しかし老人の誘いには応じなかった。
すんなりと背後を取られた、自分が許せなかったのだろう。再び修行に戻り自分を鍛え、再びあの老人と細身の男の前に立つつもりだ。
修行と言っても、技を極める訳ではない。さまざまな体術は既に身に付けている。足りないのは、相手を感じる気だ。これを極めなければ、老人の誘いに乗っても足手まといになりかねないだろうと思っている。
「足手まといか」
角は独り言ちた後、唇に笑みを浮かべた。
あの老人の誘いに乗る事を、自分自身決めているのをおかしく思った。
不思議な老人だった。人を惹きつけ、安心させる魅力をもつ人だ。
細身の男にも興味をそそられている。あの男が剣を抜けば、自分はどこまで戦えるだろうか。
角の全身に力が入る。強者の事を考えると、無意識に力が入ってしまう。
大男は、山の開けた場所に腰を下ろして、目を閉じた。
強者を目の前にすると、興奮して気の操りが疎かになる。だから先日も、老人の気配を見逃したのだ。
いや、違う!
強者を前にして、気が疎かになっただけではない。自分の油断でもない。あの老人の気の使い方、気配の消し方が自分を上回っていたからだ。
まず、相手の力を認める事、そして自分が相手よりも劣っている事を認める事。そこから始めなければ成長はない。
角は静かに目を閉じ、周りにある獣の気配、植物の気配、風の気配、そしてあらゆる自然の気配を感じられるように、山に溶け込みながら、自分の気を練り上げていった。
何日か山で過ごした後、角之進は食料調達のために、麓の村へと降りて行った。
山で猪等を狩り、山菜を採る等して食料は得られるが、野菜と穀物が欲しくなる。そういう時はいつも、村で野良作業を手伝い、食料を分けてもらっているのだ。
村人達も初めは角の事を怖がるが、働きぶりや気のいい性格に惹かれ、あっという間に村の人気者になっている。
この日も、穀物を分けてもらおうと村まで下りてきたが、様子がおかしく、一軒の家に人だかりができていた。
「どうしたんだい?」
家の外を遠巻きに見ている村人に声を掛けた。
「ああ角さん。吟さんが獣に襲われて亡くなったんだよ」
「吟さんが! 獣に?」
吟さんは、村の中でも働き者で、気さくな若者だった。
「身体のあちらこちらを喰われていたらしいよ」
角は村人達の背後から、家の中を伺った。
中では、吟の父母と祖母が遺体の傍で肩を落としていて、庄屋の唐本が三人を慰めているようだった。
角は吟さん一家には、良くしてもらっていたので、いたためれなくなり、家の中へと入っていった。
「角さん・・」
父と母が、泣き腫れた目で角を見る。祖母は呆然と遺体を見つめていた。
「吟さんに、お別れを言ってもいいかい?」
三人は無言で頷いた。
角は手を合わせた後、吟の顔に掛けられている布をそっとめくった。
頬肉が喰いちぎられ、奥歯がむき出しになっている。身体も同じ状態なんだろうと想像がつく。
「吟さん、痛かったろう。仇は俺がとるよ」
角は大きな手で、優しく頬をなで、再び布を顔に被せ手を合わせた。
遺族に礼をした後、唐本と一緒に家を出た角は、彼に声を掛けた。
「唐本さんよ、人の味を覚えた獣はやっかいだ」
角はこれからも、獣が襲いに来るであろうと、唐本に告げる。
「ああ、わかっている。」
唐本も角の言いたい事を理解しているのだろう、力強く頷いた。
野良仕事を終えた男が家路を急ぐ。畑から家までは左程遠くないが、先ごろの吟さんの事件がある。
男は少し速足で、沈みかけた陽を頼りに歩をすすめた。
カサ!
前方にある道具小屋で物音がした。小屋と言っても穴だらけの小屋で、犬猫が時々はいりこんでいる。
道具に糞尿を巻き散らかせられた事もあったので、男は追い払おうと小屋の中に足を踏み入れた。
ガリ! ゴキ! ズズズーーー
何か硬い物を齧る音と、液体をすするような音がする。
弱い光が、壁の隙間から入り込み、薄暗く小屋の中を照らす。
ズズズーーッ グジュュ グジュュ
背中を丸めた者が、何かを喰らっていた。
何かとは、男は気付いている。 人だ!
着物から覗く腕は細く、手のひらが小さい。恐らく子供だろう。
男は恐怖しながらも、自分でも驚く位冷静に、後ろへ下がった。
グニュ
男が少し弾力のある物を踏んでしまい、態勢を崩し、後方に倒れた。
よろけながら、踏んだ物が視界に入る。 少女の生首だ!
少女と目が合った。首だけの少女だが、瞳には悲しみと絶望感を訴えている。
男の恐怖が、限界を超えた。
ギェーーーー!!!
悲鳴を上げ、小屋の外へと転げ出る。転げながら後ろを振り返る。
薄明りの中、背中を丸めた者がこちらを見ていた。
知っている老婆だ!
吟さんとこの祖母が、光る目でこちらを見ている。
男は腰を抜かしながらも、近くにあった庄屋の家に駆けこんだ。
「しょっ! 庄屋様! たすっ、 助けてくだせー!」
男は大声を出し、何度も扉を叩いた。
・・・・・・
しかし、灯り中からのが見える中からの返事はない。
「しょっ、 庄屋様ー」
男が叩くのをやめた時、背後から肩を掴まれた。
ひぇーーーーーー!!!!
悲鳴を上げて、男はその場で腰をぬかした。
「どうした里吉?」
見上げると薄闇の中、唐本が立っている。
「庄屋様ーーー」
里吉は、安心からか、震える手で唐本にしがみつき、涙を流していた。
「ばっちゃんが、吟さんのばっちゃんが・・」
「お留さんがどうした?」
「・・ こ、子供を喰らっていた・・」
「そんな馬鹿な」
「本当だ!」
唐本は、怖がる里吉に現場まで案内をさせ、小屋の中へと入っていった。
やがて小屋から出てきた唐本の、青ざめた顔色を提灯の明かりが照らす。
「酷いな・・・」
「んだ」
「本当にお留さんだったのか?」
「間違いね」
「よし、吟さんの家に行くぞ」
「お、俺もか?」
唐本は震える里吉を従え、陽が沈み、暗闇が迫る中を、吟の家へと向かった。
「唐本だ、お留さんはいるか?」
唐本達が吟さんの家に入ると、お留と息子夫婦は食事の最中だった。
吟が亡くなって日が浅いせいだろう、どこか重い、静かな食事風景だ。
「庄屋様、どうしましたか?」
吟の父が椀を置き、唐本を見た。
唐本は家の中を見回した後、お留を見る。
「今、子供が獣に襲われてな」
「獣に! 吟のようにか?」
「ああ、酷いもんだ」
「そうか・・・・」
下を向く吟の父を見ながら、唐本は再びお留を見た。あれだけ惨状だ、里吉の話が本当なら、お留の身体に返り血がついていても不思議はない。喰らっていたのなら尚更だ。しかしお留にその形跡は見当たらない。
「お留さんは、ずっと家にいたのか」
「おっ母か? ずっといたぞ」
「そうか・・」
唐本は後ろを振り返り里吉を見る。彼は震えながらお留を見ていた。
お留は、吟の枕元にいた時のように、椀に箸をつける事なく、茫然と座っていた。
「また殺しだと!」
村に下りて来た角之進が、深刻な表情の唐本を見た。
里吉には口止めをしていたのだが、お留の仕業だと噂が広まっているという。
「でも、お留さんは家から出ていないんだろう」
「ああ、家族の話だと、吟が死んでから家の外には出てないそうだ」
「でも、里吉は見たと」
「ああ」
殺しの後、お留を見た唐本は、彼女に血の跡は無かったという。とすると、里吉の見間違いという線が濃い。
角は悲しみに暮れる子供の家へと向かい、お悔やみ時に遺体を確認させてもらった。
吟の時と同じで、所々喰いちぎられている。こんな喰い方を人間ができるものだろうか。まして、顎の力が弱ってきている老婆にできるはずがない。
「唐本さんよ、あれは人がやれる殺し方じゃねえ」
「じゃあ何に殺されたと」
「・・・ わからねえ。だが人じゃねえ」
二人が話ている所に、村人が慌ててやってきた。血気な者達が、吟の家にいるお留を、始末しようとして家に向かったらしい。
角達は急ぎ、お留の家へと向かう。子供が殺されたのだ、先走った者が証拠も無しにお留達に危害を加える恐れがあるからだ。
「お前達、何をしている!」
家の前に、引きずり出されたであろうお留が、村人に囲まれていた。
「やめるんだ!」
唐本が声をかけるが、怒りに満ちた者は、桑を振り上げ、お留を威嚇している。
「止めるな、庄屋様!」
「そうだ、仇を討つだ!」
振り下ろされそうな桑を、大きな手が掴んだ。角之進だ。
「やめろ。お留さんが殺したんじゃねえ」
「角さん、しかし見た者が」
「あの仕業は、人にできねえ」
角は子供の遺体を思い出す。胴から離された首は刃物で切られたものじゃなかった。明らかに引きちぎられたものだ。普通の人にそんな力はない。
「じゃあ何の仕業と言うんだ!」
角は言葉に詰まる。人にできる所業じゃない、しかし獣だと思い浮かぶのは熊位だ。「だが熊じゃない」と角の直感が示す。
「俺が見回りをする」
「角さんが」
「ああ、必ず仇は俺が討つ」
不謹慎だと分かっているが、角の心は躍動していた。未知の敵への恐怖、人ではない、人の力を上回る物への恐怖。それよりも闘いへの悦びが角の心を支配していた。
「暫く厄介になるぜ」
角は唐本の家に拠点を構える。見回りをするのは日が暮れる前からだ。直ぐに動ける村の中の方が都合が良い。それに唐本は庄屋だ、村人の家よりも大きい、角の巨体でも窮屈感は少ないだろう。角は離れの前を通り過ぎ、本宅に案内された。
「家族や、使用人はいないのか?」
お茶を出す唐本に角が訪ねた。
「ああ、妻は身体が弱いのでな、部屋で寝ておるよ」
「すまないな、押しかけたみたいで」
「いやいや、見回りをしてくれる人に窮屈な思いはさせられんよ」
唐本もお茶をすすりながら、申し訳なさそうに腰を曲げた。
「役人にこの件を伝えたのか?」
「ああ、吟さんの時に伝えたが、返事がまだない」
「そうか、役人もただの獣と思っているのかもな」
この時代、村人が一人二人獣に襲われたとて、役所が直ぐに動く事はない。被害が増えれば、役人は重い腰を上げるだろう。
「ここに来る前、里吉に会いに行ったんだが、会えなかったよ」
角は出されたお茶に手をつけず唐本を見た。
「居なかったのか?」
「いや、気配はするが戸に立て掛けをしていてな。出てこなかったよ」
「そうか、よほど恐ろしかったんだろう」
「あの様子じゃ、誰とも会っていないだろう」
誰かと会ったとは思えない里吉。では噂を広げているのは誰か、角は暗に唐本に尋ねている。
「そろそろ見回りだな」
角の意図を理解していないのか、唐本は陰りが進む庭を見ていた。
「私も村の若者と見回りに行くよ。二手に分かれよう」
血気な者達が先走らないようにと、唐本は提案した。
「ああ、わかった。俺は子供が殺された付近を、唐本さん達は畑の方を頼む」
角達は二手に分かれ見回りに入った。唐本達が畑の方へ向かうのを確認した後、角は唐本の家へと引き返す。どうも心の引っ掛かりが拭えない。唐本の口ぶりだと里吉から噂が流れたのではと。しかし里吉のあの状態なら、誰とも会っていないのではないか、それに普通なら病人が寝ている本宅よりも、離れに案内される所はずだ。
角は沈みかけた陽が刺す離れの前に立った。本宅の方に目をやったが、寝込んでいるという妻の気配は感じられない。角はゆっくりと離れの戸を開けた。
薄日刺す部屋の中には誰もいない。目を凝らして部屋の中を見ると、不自然な畳の個所があったので畳をはがしみた。
床に穴が空いている。中から嫌な匂いが漂いでてきた。
知っている匂い。死臭だ。
「やはりな」
持って来た灯りを照らすと、人だったであろう部位が散乱していた。
角はすぐさまその場を離れ、畑の方へと走り出した。
陽は暮れ、夜の闇が辺りの支配を始める。
ギャーーー!!!
ウヮーーーー!!
角が向かう畑の脇道で悲鳴が連呼し、夜風の中、血臭が漂う。
角は脇道へと身を入れ、目を凝らす。
前方に月明りの中、奇妙な物が後ろ向きで道を塞いでいた。
獣だ、いや、獣かもしれない。獣と言い切れない者が角の前にいた。
大きく揺れる尻尾、巨大な胴回り。有に二メートルは超えていると思われる全長。
「か、かく さん」
獣の向こうにいる男が、震える声を出した。
男の声を聞いて、獣が角の方へと向きを変えた。
「ほうー 熊ではないな」
角は獣を睨みながら、全体を確認する。
過去、熊なら闘った事がある。だから如何に仕留めるかは分かる。しかし目の前にいる物は熊ではない。
大きさは二メートルを超えるヒグマ級だが、顔が違う。
「大狸か!」
狸には似ているが、規格外の大きさ、それに口元から飛び出した牙が普通の狸とは違う。
「化狸というやつか」
月明りを受け、獣の目が赤色に光っている。
角は唇の端を吊り上げ、不適な笑みを浮かべた。
山ごもりで、様々な獣を仕留めてきたが、妖の類は初めてだ。
ギュウーーー
獣が唸るように、角を威嚇する。威嚇というより、食事の邪魔をされた事を怒っているという感じだ。
「しょっ、庄屋様が」
「ああ、分かっている。こいつが唐本に化けてやがったんだ」
ギュウォーーオーーーーーー!!!
化狸が動いた。熊のように二本足で状態を起こし、前足で角に襲い掛かる。
角は状態を下げ、ギリギリで見切るように化狸の鋭い爪をかわした。
化狸はかわされるのを分かっていたかのように、回転して太い尾を顔面へと叩きつけてきた。
角はこん棒のような尾を、両腕をクロスして受け止める。
強い衝撃が角の腕に伝わった。普通の人間、いや、身体を鍛えている強者でもこの攻撃を受ければ、腕は折れ顔面へと尾をくらい、即死しているレベルだ。
化狸が少しだけ距離をおいた。唐本に化けている時に、角は強いであろうと予測しての攻撃のようだ。
角は口元に笑みを浮かべる。本人が意識しての笑みではない。身体が高揚し自然に出て来てしまったのだ。
今度は角から動いた。体制を低くしての足払いだ。しかし化狸は獣ではない。野生の動物のように突進して来て、相手の攻撃を受ける事をしない。知恵がある。しかも変化するだけの齢を超えてきているはずだ。それだけの経験がある。化狸は足払いを跳躍で避け、角の方へと飛び掛かってきた。
角は化狸の爪を側面に避け、横から胴体を両腕で捕まえる。そのまま地面へと、頭から叩きつけた。
ゲャフ!!
地面が揺れる程の衝撃で叩きつけられた化狸は、身体を痙攣させた後動かなくなった。
「角さん!」
「やった!」
襲われていた村人が、血を流しながらも角の方へとやって来た。一人が犠牲になったようだが、他の者は軽傷のようだ。皆遠巻きに化狸をみる。
パカパカ! パカパカ!
肥爪の音と足音が聞こえて来た。提灯の明かりが徐々に近づいて来るのが見える。
馬は角達の前に止まり、馬上の男が皆を見下ろした後化狸を見た。
「代官の八幡だ。其方達が倒したのか?」
「ああ」
角は八幡に、鋭い視線を向けた。
「この獣は代官として私が処分する、荷車を持ってこい」
八幡は村人に命じた。村人も代官の命令なので直ぐに荷車を運んでくる。
役人達が化狸を荷車に乗せ、動かないように縄で縛っていった。
「行くぞ」
八幡は角達に労いの言葉も無く、早々に来た道を戻って行った。
角は村人に促されるまで、遠のく提灯の明かりを見つめていた。
「同じ匂いがしやがる」
誰に聞こえる事もない角の言葉が、夜の闇に吸い込まれていった。
「角さん、ありがとう!」
翌日村人達が角の元に集まる。血気な者達もお留達に詫びを入れたらしい。
獣の件は解決したと、皆安堵の息をついた。
しかし角は違う。代官の唐突な現れ方、陽が暮れてから代官自らが取り締まりに来るのは腑に落ちない。獣を見ても慌てた様子もなく、淡々と処理を進めていく様子。それに、あの八幡という男、怪しいと角の直感が告げる。村人の不安を煽るわけにはいかないが、暫くは早めに野良仕事を終えるように指示を出した。村人達も数人の犠牲者が出ているので、角の指示にしたがった。
化狸が倒され、十日が過ぎた。村人も平穏な日々が戻ったと思い始めていた。
角は庄屋の家に住み込み、夜回りを続けている。あれから唐本の家を調べたが、生きている者はいなかった。離れの遺体を調べた時、腑に落ちない事があった。村人から聞いていた唐本の家族、使用人の数と遺体の数が合わないのだ。化狸の食べ方から見て、骨まで全部食べたとは思えない。
角は思う、化狸の残忍性を。奴は悲鳴を上げ、泣き叫びながら喰われて息絶える人間が好きなのだ。だから、あちこちの部位を喰いちぎる食べ方をする。
「許せねえな・・」
角は埋葬した墓の前で手を合わせ、一つの手段を思い浮かべる。
化狸を持ち帰った代官屋敷に忍び込む事だ。あれから代官からの音沙汰はない。化狸についての取り調べが無く、村についての被害確認も無い。
「吟さんや、お前達の仇は必ず討つぜ」
角は手を合わせた後、夕暮れ迫る村を後にした。
陽が沈み、闇が支配を始める時刻。月明りだけが、闇に抵抗するかのように地上を照らす。
角は巨体からは想像できない身軽さで、代官屋敷の中に忍び込んでいた。
「また一人消えたらしいぜ」
見回りの者だろうか、二人組がひそひそと話す声が聞こえてきた。
「その前も二人、急に辞めたとかで居なくなったな」
「そうだ、ここ一月の間に十人はいなくなっている」
「城からの補充人員もないから、休みなしだよ」
「俺もだぜ」
二人は疲れた様子をみせながら、大男が息を潜める植栽の前を通り過ぎていく。
「十日前に、八幡様が部下を引き連れて出かけた事を覚えてるか」
「ああ、あれは急だったな」
「あの時に同行した者達が消えたか、辞めたかしているらしいぞ」
「あの夜に何かあったのかな」
「何かあったんだろうな、庄屋がずっと屋敷にいるからな」
「あまり詮索するのは危険かもな」
二人の会話を聞き、確信を得たかのように角は気配を絶つのをやめ、見回りの背後に立った。
行き成り背後からの気配を感じた二人は、振り返りざま大男の出現に我が目を疑った。
角は一人に当て身をくらわし気絶させた後、もう一人の胸ぐら掴み、睨みをきかせる。
「代官はどこにいる?」
見回りの者は、息ができないまま苦し気に呻きながら、屋敷の奥を指さした。
角は見回りの者を、そのまま気絶させた後、屋敷の奥へと上がって行った。
「やはり来ましたか」
廊下の正面に小柄な人影が立っている。
「唐本さんかよ。いや、だった者か」
揺れる蝋燭の灯りに照らされ、唐本が立っていた。
「角さんはしつこいですな」
「あきらめが悪いんだよ。なぜ、まだ唐本の姿をしている」
「一度化けた人間の方が、楽なんですよ」
「ほう、そうゆうものか」
「そうゆうものなんです」
「お留ではないんだな」
「老婆が屋敷にいたら変でしょう」
「常識はあるんだな」
にっ! と不気味な笑みを浮かべた後唐本が動いた。
瞬時に角との距離を詰め、指を伸ばし目を狙ってきた。角は後方の庭へ飛び回避する。
ケヒ!
唐本も跳躍して、着地する角へ蹴りを入れてきた。それをクロスした腕で防ぎ、少し距離を置く。
庭での騒ぎを聞きつけてか、役人がわらわらと出て来た。
「曲者だ、捕らえよ」
屋敷の奥から声がした。代官の八幡だ。
八幡はゆっくりと庭へ降り、周りの役人達に指示を出した。
役人達が次々と、角を捕らえようと向かって行くが、悶絶させられ倒れていった。
「やはり役人っでは無理でしたね」
唐本が月明かりの下で、姿を変えていく。
「この前は、食事の邪魔をされて我を忘れましたが、今日は違いますよ」
唐本だった者の周りに瘴気が集まり渦を巻く。まるで蜷局を巻く蛇のようだ。化狸が瘴気を纏ながら本来の大きさなっていく。
ケヒ ケヒ ケヒ
化狸が呼気を吐き出す度に瘴気が霧散し、消えていっては現れ蜷局を巻き続ける。
この代官屋敷自体が、異様な磁場を形成して、瘴気が発生しやすい状況なのかもしれない。
「儂も手を貸そう」
八幡が瘴気蠢く庭を進み、角に近づいて行く。
「やっと手に入れた餌場だ、邪魔する奴は食い殺す」
八幡が喋りながら瘴気の息を吐く。吐きながら、身体が大きくなり、化狸へと変化していく。
「ファ ファ ファ、かく さんよ、われ らの えさになれ」
人間からの変化を解いたせいか、話し方に違和感がある。口の構造が人間と違うので、空気を漏らしながら喋っているからだろう。
化狸達は左右、前方斜めから徐々に距離を詰めてきた。
角は嘗て唐本だった方へと走り出した。妖の能力、力量等は分からない、二体同時に戦うのは危険だ。しかし一度倒している方だと多少なりともダメージが残っているはず、そう判断して攻撃を仕掛ける。
正拳突きからの回し蹴りを頭部に入れた。重いダメージが角の脚に伝わる。少しふらついた化狸を視界の端にいれ、低く腰を落とした。
背後から八幡だった化狸が鋭利な爪で、角の頭部を突いてきたのだ。
角は低い体勢からふらつく化狸に掌底を入れる。あくまでも攻撃は唐本だった方に集中させる。掌底を受けた化狸がフラフラと地面に倒れる。
掌底を入れた瞬間、左から鋭利な爪が飛んできた。気付いてはいたが、かわせば掌底の威力が落ちる。
角はギリギリのタイミングで横に逃げたが、左腕の肉をえぐられた。
傷を庇う暇を与えない連続攻撃が角を襲う。
大男は攻撃をかわしながら、一体の化狸が地面に伏しているのを確認し、もう一体の化狸との距離を置いた。
えぐられた左腕の痛みを感じながら、角は口元に笑みを浮かべる。
闘っている。そして生きている事を実感する。
角の心は躍動する。楽しいのだ! 楽しくて仕方がない。力を目一杯発揮できる。自分が求めていた物がこの瞬間にある。
間を置いた角へと化狸が跳躍した。鋭い爪が瞬時に角を襲う。右、左、右、左と次々と仕掛けてくる。
角を休ませない、考える隙を与えない。化狸の本能的な攻撃だろう。角を危険と感じているのだ。
攻撃をかわしながら、地面に伏していた化狸がフラフラと起き上がるのが視界の隅に入る。その僅かな隙に、八幡だった化狸の鋭利な爪が頭上から襲ってきた。クロスで防ぐ事は出来ない、化狸の爪が大男の腕ごと切り落とすだろう。
大男は、反射的に後方へと飛んだ。飛んで着地した瞬間に横から化狸の尻尾が襲ってきた。
爪を振り落とした後、化狸が回転しながら勢いをつけて、尾を叩きつけてきたのだ。
横からの衝撃で、角は唐本だった化狸の方へと飛ばされた。そこには爪を立たせた化狸が待ち構えている。見事な連携だと感心した。普通ならここで死を覚悟するだろうが、角はしない。闘いの最中に、ある気配を感じていたからだ。
あるか無いか分からない気配。山ごもりの前なら感じていなかっただろう気配。
角は確信を持って、爪を光らせる化狸へ飛ばされながら、攻撃の体制をとった。
大男は飛ばされながらも、身体を捻り正面から蹴りを入れに行く。普通ならあり得ない、化狸の鋭利な爪で足を切り落とされてしまうからだ。
シャキーーーーン
バキ! ドォーーーン
化狸の振り落とされた腕と、角の蹴りが交差したかに見えた瞬間、唐本だった化狸は後方へ飛ばされた。
そのまま倒れ込み、腕を庇うように身体を丸めた。牙が覗く口元からは血が流れている。
「余計な事だったかな」
細身の男助三郎が、抜き身の短い刀を持って庭に立っていた。助が化狸の爪を前足ごと切り落としたのだ。そして、そのまま身体を丸めている化狸に近づくと、妖刀暁宗を化狸に突き刺した。
ギィーーーー
化狸は短い悲鳴を上げた後、ガスが抜けるようにしぼんでいき、皮だけの普通サイズの狸となった。
「いや、助かったよ。だが、ここからは一人でやらしてくれ」
角は素直に礼を述べた後、残っている化狸と対峙した。
ケヒ、 ケヒ、 グギャーーーオ
八幡だった化狸は、赤い目で助を睨んだ後、角を見て牙を見せ吠えた。
変化するほど歳を経た狸だ。人間いう物を理解しているのかも知れない。人間の中には、闘う事に誇りを持つ者、闘う事に生き甲斐を感じている者。そういう人間がいるという事を知っているのだろう。
化狸は熊のように立ち上がり、前足を高く上げた。鋭い爪が月光で鈍く照らされる。
角は両拳を腰に当て、一撃必殺の構で、足腰に力を入れ呼吸を整える。
ケヒーーーーーーー!!!
化狸が正面から突進して来る。 速い!
しかし化狸は狡猾だ。そのまま爪で攻撃してくるのか、途中で回し蹴りのように尾で仕掛けてくるのか、まだ見極められない。
角は間近に接近してくるまで、それを見極める。
化狸は身体を回転する事なく、鋭利な爪がある前足を振り下ろした。
角は爪の攻撃を上回る速さで、拳を化狸の体中に叩き込む。
傷ついている左腕から鮮血が飛び散る。恐らく痛みもあるだろうが、連打で拳を叩き続ける。
化狸は角の拳を受け続けるしか出来ない。それほど拳の速度が速いのだ。
ハァーーーー ハァッ!!
角が少し間を開け、渾身の右アッパーを放った。
バギッ! ドス!
化狸の巨体が少し浮き上がり、後方に倒れた。
「そこまです」
倒れて痙攣している化狸の横に、何時からいたのか白髪の老人が近づいて来た。
「齢百は超えている狸老爺ですね」
老人は懐から銃を取り出した。洗練された銃で、柄の部分に三つ葉葵が施され、この時代の銃とは思えないフォルムをもつ。
銃身に彫られた三つ葉葵が角の目に入った瞬間、角は老人の正体を悟った。
シュッ!
サイレンサーを装着したような銃声が空気を震わせる。老人が化狸の頭部に葵退魔銃を放ったのだ。
ギャ、 グーー ゥーー ゥーーー
痙攣していた化狸が、苦悶の声をあげながら、体をくねらせ縮んでいく。
「元は狸ですが、叩き殺したりはできないのですよ。妖は妖刀か、呪詛が込められた弾が使える私の銃ではないと始末できません」
化狸はしぼんで、皮だけになっていた。
「水戸の御老公様でしたか」
角はその場で座り、頭を下げた。
「藩主から陰陽網に知らせが入りましてな、貴殿がいたので様子を見させてもらっていました。狸老爺は、人に化け、人々の不信感を煽るのですよ」
陰陽網は全国の怪異をまとめる機関のネットワークで、権力が絡む事案は水戸家へ、庶民が関する怪異は高野衆へと依頼がいく仕組みになっている。今回は代官の動きに不審を感じた藩主が、陰陽網に知らせたとの事だった。
「こちらこそ、手助けいただき、感謝いたします」
「ハハハ、そんな堅苦しいのは抜きじゃ」
「いや、しかし」
「ハハハ では、この前の話、答えを聞かせてもらえますかな」
「強者と闘う話ですか」
「さよう」
「その強者というのは?」
「今回のような妖です」
角は光圀の言葉で、無意識な笑みを唇に浮かべた。
この老人に仕えれば、また妖と闘える。自分の力を揮える。その思いが顔に出てしまったのだろう。
角の笑みで、答えは分かっていたが、光圀は穏和な笑顔で尋ねた。
「いかがですかな?」
「謹んで、お受けいたします」
瘴気が晴れ明かりを取り戻した月が、これからの大きな闘いに胸躍らせる大男へと力を送るように光を落とし続けていた。