人魚
夜明け前、三人の男が漁に出ている。
波が穏やかで、船が揺れる事は無い。いや、逆に穏やか過ぎる。
「おい、くるんじゃねえか?」
「ああ、来そうだ」
普段と違う海の様子に、船上の男達が水面に目を凝らす。
「じゃあ、網を入れるぞ」
「おお」
一人の男が右側、二人の男が左側にそれぞれ網を投げ入れた。
静かな水面が、網の衝撃で小さな波を作る。
「おい、網が揺れてるぞ」
小一時間経ったころ、男が変化に気付いた。気付くと同時に、船が網に引っ張られ、右に傾く。
「よーし、引くぞ!」
三人の男が左側に寄り、網を引き始めた。しかし網の引きが強く、男達は引っ張られる。
先頭の男が船のへりに足を置き、なんとか支えた。
男達は渾身の力を込め、引っ張られまいと網を引く。やがて、水もに生き物の影が見えてきた。
「銛で突け!」
二人で網を引き、一人が銛で海面を突く。
キャワワワーーー!!
海面から奇声が上がる。網の揺れが酷くなり、網を持つ男達に力が入る。
ブス! ブス! ブス!
男が必死の形相で、銛をさらに打ち込んだ。
網の揺れが収まり、生き物が水面に浮いてきた。
一人の男が、生き物を引き上げようと、手を伸ばしす。
うぎゃーーー!!
男が悲鳴を上げ、後方に転げ込んだ。と同時に網の中にいた生き物が船上へと跳ね上がってきた。
網が銛で突かれ、穴が大きくなっていたのだろう。
船上に立つ生き物の口に、腕が咥えられている。転げ込んだ男の腕だ。
生き物の身体が、朝陽を反射して、キラキラと光っている。全身を覆っている鱗のせいだろう。
頭には毛が無く、左右に離れた目は真っ黒で、白目部分が僅かに伺える。
手には水掻きがあり、鋭利な爪が生えている。足は短く、背中から続く背びれが尾まで伸びていた。
半魚人!
この生き物を例えるなら、真さにこの名称だろう。
「この野郎!」
男が船を漕ぐ棒を振り上げ、半魚人に殴りかかる、しかし、棒は鱗で覆われた腕で防がれた。
硬い鱗が防具の役割を果たしているのだろう、半魚人は痛みを感じない動きで180度素早く回転した。
尾だ、背びれのついた尾が男を襲い、船のへりまで跳ね飛ばした。
男はぐったりと首を垂れる。その後、男の首がボタン! と船の床に落ちた。
尾の鰭が刃物のような鋭さで、男の首を切り落としたのだ。
ひぇーーー
残された男が、情けない悲鳴を上げ、後ずさる。
キュウーーーーー
半魚人が意味のない声を出しながら、男へと近づいていく。
転がっている銛が、男の視界に入ってきた。男は夢中で銛を拾い、半魚人へと投げつける。
グギャーーーーーーーーーー!!!!!!!!!
銛が鱗の薄いお腹へと刺さり、悲鳴を上げながら、半魚人が海に落ちた。
水しぶきが上がり、水面に波紋が広がっていく。
波紋は小さくなっていき、静かな海が戻ってきた。
首を切られた男は絶命している。
腕を喰いちぎられた男も、呼吸をしている気配がなかった。
残された男は、呆けながら昇る陽を見ていた。
ガタン!
左側に投げた網が引っ張られている。
男は恐る恐る網を引いてみる。
ゆっくり、ゆっくりと引いてみる。
半魚人だったたら恐ろしいが、先程よりも、全然重くない。
男が網を一気に引きあげ、船上に一尾の魚が跳ね上がった。
ハハハハハ
男は悲しく笑った。
「おい、漁れたぞ」
男は動くはずがない、二人の男に話しかけた。
オンギャ!
魚が鳴いた。
朝陽の中に映る魚は、上半身は人の姿、下半身は魚、俗に言う人魚そのものだった。
「ご隠居、賑やかな宿場町ですな」
「うむ、海が近くで魚がよく漁れるのでしょう」
「なるほど、それで景気がよくなり、賑わうわけですな」
光圀一行は、海岸辺りを抜け、城下に近い宿場町に入っていた。
町は活気に溢れていて、皆生き生きとしているように見えた。
「金はあるんだ! もっと飲ませろ!」
「うるせい! 金じゃねえんだよ! おまえ魚の事を喋っただろう!」
「喋ってねえよ」
飯屋の前の揉め事が、光圀一行の目に飛び込んできた。やくざ風の男達が、貧祖な男を取り囲んでいる。
「お代官様の使いが、俺の所にお調べにきたんだよ」
「俺は喋ってねえよ」
「なら、何故金を持ってやがんで!」
やくざ風の男が、貧祖な男の頬に短刀を突き付ける。
「助さん、角さん」
「はっ!」
助と角が騒ぎの中に飛び込んで行く。助が短刀を取り上げ、角が他のやくざ者達を威嚇する。
「な、なんでぇ、おめえらは!」
「いかんな、多勢に無勢だ、それに乱暴だろう」
「なにを! 殺ってやろうか」
「ほー、俺を殺るか」
角が巨体で迫力のあるオーラを放ち、やくざ者達を睨みつけた。
「くっそ、今日の所は引き上げてやるよ。駒吉! おぼえてやがれ! 」
やくざ者達にも、角の強さがわかるのだろう、捨て台詞を吐いて、引き上げていった。
「大丈夫か?」
「あ、ありがとうございます」
助が貧祖な男、駒吉を助け起こす。
「これ、あんたのか?」
角が落ちていた財布を駒吉に渡した。
駒吉は、慌てた様子をみせ、財布を素早く受け取り懐へとしまう。
「随分と景気がよさそうだな」
角が財布の重さから判断した言葉に、駒吉は卑屈な笑顔を見せた。
「いや、大漁だったからよ」
「ほう、やくざ者達が言っていた魚もその中にいたのか」
「いやあー ハハハハハ。とにかく助けてくれてありがとう」
駒吉は曖昧な笑いで返事を誤魔化し、逃げるようにその場から立ち去った。
光圀は駒吉の後ろ姿を見ながら静かに頷く。いつからいたのか、黒猫が駒吉の後を追うように、賑わう町中を走って行った。
「おい、あれを海水の井戸へ隠しとけよ!」
「へい」
平蔵が辺りを気にしながら、子分に命じる。桐真平蔵、この宿場町を牛耳るやくざの親分だ。
「駒吉の野郎、代官に喋ったにちがいねえ」
「そうですね」
酒をひっかけながら、子分達の顔を見た。
「おめらも、誰にも言うんじゃねえぞ」
「へい」
「あれを、江戸か京の役職の高い人に献上すれば、俺達を召し抱えてくれるぜ」
「そうですね親分、こんな田舎町よりも、良い暮らしができるかもです」
「ああ、しかも楽して暮らせるぜ ハハハハハ」
酒を呑みながら談笑するやくざ者達を、庭木の影で、息を潜めながら見ている男がいた。
駒吉だ。そして彼の横には、黒猫が大人しく鎮座している。
「そうか、あの井戸に隠してやがるのか」
一人ごちながら、駒吉は庭木からゆっくりと離れる。
バキ!
駒吉が枯れ木を踏んで、慌てて自分の口を塞いだ。
「誰だ!」
ニャーーオ
月明りを受けながら、黒猫が庭に出る。
「猫か、脅かしやがる」
庭で見張りをしていた子分が、猫に石を投げて追い払った。
駒吉は、その間に平蔵の家から、無事に距離を置くことができた、自分の家へと戻って行った。
人が気配が無くなった井戸に、黒猫がゆっくりと近づいて行く。
黒猫は一定の距離を保ったまま井戸を見つめる。
ニャー
黒猫が低い声で鳴いた。その鳴き声で、微妙に空気がゆれる。
いや、空気ではない。瘴気だ。
黒猫の瞳に、井戸から月へと立ち昇る、瘴気の揺らぎが映っていた。
「平蔵はおるかー!」
昼近く前、十二人の役人が平蔵の家にやって来た。
「これはこれは、お代官様、今日は何用で」
「御用改めじゃ」
「またですか、この前調べたでしょ。まあ、好きなだけ調べて下さい」
「この前は家の中だけだったからな。今日は庭を調べさせてもらう。特に井戸をな」
代官、三山両玄の言葉に平蔵の顔色が変わった。
「お、お代官様、な、何故井戸を?」
「調べてはいかんのか?」
「い、いえ」
三山がいやらしい笑いを浮かべる。この宿場町で、互いにうまい汁を分け合ってきただろうが、今はお互いを出し抜こうと、醜い争いをしているようだ。
「皆の者! 井戸を調べろ!」
代官の掛け声で、部下の役人達が庭へと走って行った。
「代官様! 居ました」
小一時間経った頃、庭から部下の声が響き、大きめの桶が代官の前に運ばれてきた。
「ハハハ平蔵、これは何かな」
桶を指さしながら、三山が平蔵を見て笑った。
「こ、これは時期を見て、お代官様に献上しようとしていた魚です」
平蔵は腸が煮えくり返るような状態だが、保身を考えての言葉を口にした。
「そうかそうか。では、今頂くとしよう。献上品という言葉を信じて、今回の件は不問にしてやるわ」
魚を自分の物にできた代官は、上機嫌で平蔵の家を後にする。
残された平蔵は、首を項垂れ、膝を地に着け、唇を噛みしめていた。
平蔵の横に何時からいたのか、黒猫が鎮座していた。
黒猫の瞳には、昨夜よりも濃い瘴気が映っていた。
「今夜ですかね」
宿場町の宿屋で、光圀が弥晴からの文を読みながら、顎鬚をさする。
「どうしますか?」
「ふむ、犠牲者が出てはいけないので、海から代官屋敷までの道に、人払いの結界をはりましょう」
「これは、大仕事ですな」
「はい、助さんは私と弥晴の結界張を手伝ってください」
「わかりました」
「角さんは、漁師の所へ行って、今夜の漁の禁止を伝えて下さい。その後、駒吉を連れて来てもらえますか」
「分かりました」
光圀達は、これから何が起きるのかを、把握しているのだろう。それに対しての準備を始める。
しかし彼らも実際に経験した訳ではない。だから用意周到に準備を進めなければならない。
海の掟。人と海との関わり、理。そして人が踏み入れてはいけない領域に、足を踏み入れてしまった事への代償。これらは経験しないと分からないのだ。
「さて、参りますか」
「はい」
光圀達が宿を出る。太陽はまだ上にあり、行き交う人々に、穏やかな陽の光が注いでいる。
しかし遥か遠くに暗雲が近づいている事を、白髪の老人は感じているのだろう、険しい表情で空を見上げた。
そんな老人の髭を揺らすように、湿った風が通り過ぎて行った。
「水戸藩の御用改めじゃ」
夕日刺す代官屋敷に光圀、助三郎、角之進と駒吉が入っていく。
駒吉が捕らえた人魚を、代官の三山が所持しているという疑いが名目だ。
「三山よ、この駒吉が捕らえた人魚を其方が所持しているのは本当か」
駒吉には、人魚を捕らえた事により、これから漁師達にどんな災いが及ぶか分からない事を諭し、ここに連れて来ている。
「いやー、知りませんなー 平蔵というやくざ者が、漁師から人魚を二束三文で買いたたいたと言う噂は聞きましたが、私は知りません」
「ほう、白を切ると申すか」
「とんでもございません、ご老公様に嘘を申す分けはありません」
「わかった、屋敷をあらためさせてもらうぞ」
「はっ 存分にお確かめ下さい」
三山は、頭をさげながら、ほくそ笑んだ。そして頭を上げた後、厳しい目で駒吉を睨みつけた。
駒吉は、背中を丸めながら震えている。事が天下の副将軍まで入ってくる大事になるとは思ってもみなかったのだろう。
「ご老公、見当たりません」
「こちらも見当たりません」
角と助が屋敷内の水のある所を調べてきたが、人魚が入った桶等は発見できなかった。
「どうですかな、ご老公様。人魚はいましたか?」
三山が笑いを堪えながら、光圀の顔を見た。
「うむ、いないようじゃ」
「では、お調べはこれまでという事でよろしいでしょうか」
「そうするしかありませんね」
諦めの言葉を吐き屋敷を出る光圀の背に、形だけのお礼をした後、三山は声を出して笑った。
「ご老公様、本当にお代官様が人魚を持って行ったんです」
屋敷を出た後、駒吉が自分に罪が回っては大変と思い、光圀の足元で土下座をした。
「わかってますよ」
「えっ?」
光圀の返答に、駒吉が以外な声をだした。代官屋敷に人魚がいなかった。しかし光圀は、代官が人魚を持っていると言っているのだ。
「あれは三山を試したのです」
「試した?」
「そうだぞ駒吉」
角がしゃがみながら、駒吉の脇に手を入れ、立たせながら白い歯を見せる。
「三山は水戸藩が、人魚を回収するというのを拒みました。自然の裁きを受けると、自分で判断したんですよ」
「自然の裁き?」
「駒吉、お前も漁師なら、自然の摂理を学びなさい。摂理に反するとどうなるか、見届けなさい」
夕日が沈み、明るさを増した月が四人を照らす。しかし湿った風が強くなり雲を運ぶ。
やがて雲は天を覆い、雨粒を地面に落としだしていた。
ギュギュ!
ギュギュ!
キューーー キューーーー
人払いの結界が張られた宿場町の通りで、雨音と共に異様な音と鳴き声のような音が響く。
「来たようですね」
光圀が宿屋の二階部屋、通りを見下ろせる窓をゆっくりと開ける。
シタシタと降る雨の中、通りに所々照らされた明かりを受け、身体の鱗を反射させながら動く人影が見えた。
人影は一体ではなく、通りを埋め尽くすほどの数がひしめき合っていた。
「駒吉、あれに見覚えがありますか」
光圀の隣で、下を見下ろしながら震えている駒吉に、小声で尋ねた。
「は、はい、あれは人魚を捕らえた時に、遭遇した化け物です」
「そう、恐らくあれは海の精霊でしょう」
「海の精霊?」
「山には山の、海には海の守り人がいるのです」
白髪の老人は、妖の行列を見下ろしながら、小声で話しを続ける。
山の精霊は人に子を産ませ、山へと戻させる。海の精霊も同じように、人に子を産ませるのだろうと光圀は言う。そして生まれた子が人魚なのだろうと推測する。
水戸家も高野山も、山の神秘を全て把握している分けではないが、海の神秘については、山以上に解らない事が多いのだ。
「あの行列は何処へいくんですか?」
「駒吉も分かっているでしょう。子を迎えにいくんですよ」
光圀は代官屋敷がある方角を見る。その方角には、暗闇の中で立ち昇る、瘴気の揺らぎがみえる。
当然駒吉にもわかっていた、そして老人が言いたいことも伝わってくる。もし自分が、あの人魚を隠し持っていたら、自然の裁きを受けていたのは「駒吉、あなたですよ」と。
駒吉は半魚人の行列を見下ろしながら、更に震える自分の身体を、両腕で抱きしめた。
「降ってきたか」
強い雨が宿場町を濡らす。昼間の天気が嘘のような空模様だ。
昼間の光景を思い出しながら、三山が酒を呑んでいた。
「ハハハハハ」
自然に笑いがこぼれる。
「まんまと水戸家を出し抜いてやったわ」
周りには誰もいない。いないから声をだして、ひとりごちる。
平蔵から取り上げた人魚は、台所の釜の中に隠していた。
他の誰かに自慢したいが、他人には言えない。だからひとりごちる。
シタシタ、シタシタ。
雨音にまみれて、異様な音が庭から聞こえてきた。
最初は見回りの者かと思ったが、部下の足音とは違う感じだ。
「おい、誰かおらぬか」
愉快な気分から、不快な気分になる。
もしかしたら、平蔵が人魚を取り戻しに来たのかも知れないと思い、部下の者を呼んだ。
しかし返事がない。いつもなら側近の者が飛んで来るのだが、その気配もない。
「くそっ!」
三山はイライラしながら立ち上がり、障子戸を開け、庭へ通じる縁側に出た。
ドカ!
何かが庭から飛んできて、三山の身体に当り下に落ちた。
三山は下を向き、何が飛んで来たのかを確認して蒼ざめた。
部下の生首が足元にころがっている。
庭に目を向けると、部屋からの明かりを受け身体を反射させる、無数の生き物が蠢いていた。
地面には無数の人間の部位が転がり、雨の中に血だまりを作っている。
ウヮーーーー!!
生き物、半魚人の群れが縁側になだれ込み、三山の悲鳴は、雨音と共にかき消された。
「ご隠居!」
一時経っ頃だろうか、二階の窓から代官屋敷の方を見ていた助三郎が声を上げた。
「戻ってきましたか」
光圀は、まだ震えている駒吉に声をかけ、窓の方へ移動する。
駒吉は、恐ろしさからか、窓から下を見ようとはしなかった。
光圀も無理強いはせず、下の行列を観察する。
先頭に丸く陣形を組んで進む集団がいる。恐らく、人魚を抱え護っている集団だろう。そこから、雨に逆らうように、瘴気が立ち昇っている。
その後は行列を組み、進んで行く。半魚人の中に、生首を引きずりながら歩く物がいた。
三山、三山の部下達、そして平蔵。
平蔵は、人魚を取り戻そうと屋敷に侵入して、巻き込まれたようだ。
「自然の裁きですか」
光圀は顎鬚を一二度さすり、遠い目をして、海がある方を見た。
風が吹き、雨水が老人の顔を叩く。
雨水は、これ以上の介入無用と、海神からの警告のように、老人の顔を叩き続けた。