寄生虫
「やっと見つけたぞ」
僧侶が二人、静かに流れる川で、女の前に戟を突き付ける。
戟を振るう僧侶達、ただの僧侶ではない。僧兵、もしくは退魔師だろう。
川は浅く、三人の足首位までしかないが、陽が沈みかける川の水は、三人の体温を奪う。
女は僧侶に追い詰められているようだが、余裕があるのか、白い頭巾から覗かせた顔が笑っているように見えた。
「キェェェーーーーーー」
一人の僧侶が、戟を女へと突き出した。
女は川面の水を乱しながら、跳躍して戟の一撃をかわす。
白い頭巾に黒い袈裟。尼僧のようだが、身のこなしからただの尼僧ではないようだ。恐らく忍びの訓練を受けているのだろう。
「ナウマク・サマンダバサラダン・カン」
もう一人の僧侶も、マントラで念を紡ぎ、女へと戟を振りかざす。
女が再び跳躍して戟の攻撃から逃れる。しかし、跳躍したその先に僧侶が走り込み、女の足へと戟を打ち込んだ。
バキ!!
骨が折れる音が川面に響いた。いや、折れただけでは無く、骨は砕かれたであろう。
しかし女は、痛みを感じていないかのように、頭巾から覗く顔は笑みを絶やさない。
笑みは絶やさないが、砕けた足が動かないのだろう、その場で倒れ込み、水に濡れる。
「キェェェッ!!」
僧侶が女の頭へ戟を打ち込んだ。
鮮血が川面を染める。
女は三度、痙攣した後に動かなくなった。
「殺ったか?」
「ああ」
一人の僧侶が女の髪を掴み、頭を持ち上げた。
もう一人の僧侶が戟を打ち込んだ頭部へと、小刀を差し込み開く。
夕日のなかで開かれた女の頭部には、脳を覆うかのように、甲虫の幼虫のような物が数匹へばりついていた。
いや、幼虫よりもかなり大きく、色は血に染まってはいるが、元々朱色がかっているのがわかる。
「これは!」
中の虫を見て、僧侶が唸るような声を上げた。
「どうした?」
「背が割れている奴がいる」
「何!!」
僧侶が声を荒げた時、背後から昆虫の羽音と共に衝撃を受け、川面へと飛ばされた。
「大丈夫か?!」
飛ばされた僧侶の元へと、もう一人の僧侶が駆け込んでい助け起こす。
しかし、抱き上げた僧侶には首が無かった。
ブブーーーーーーン
空から再び、虫の羽音が近づいてくる。
僧侶は戟を握り、空中で振り回す。
音はするが、姿が見えないのだ。
いや、全く見えないわけではない。羽音と共に透明がかった影が、時折見え隠れする。
羽音が聞こえなくなった。僧侶は戟を握りしめ、目を閉じた。
ブブーーーーーーーン
羽音が近づいてくる。僧侶は五感を研ぎ澄ませ、心でマントラを唱える。
ブブブブーーー
僧侶が戟を前方に薙ぎ払った。物が当たった感触はない。が夕日をシルエットに何かが川面の上を舞う。
ポチャリ!
舞っていた物が川面に落ちる。戟をにぎる腕だ。
ポチャリ!
僧侶の首も川面に落ちた。
夕日で染まる川が、更に赤く染まり、流れていく。
川の上を風が運ぶかのように、女の笑い声が流れていった。
「虫が孵っただと!」
高野山金剛峰寺。真言宗の総本山にある、退魔堂と書かれた建物の中で声が響いた。
「声がでかいぞ」
「これが荒げずにいられるか! 事態は深刻だぞ」
部屋の中には五人の僧侶がいる。三人の僧侶は立派な袈裟を纏っているが、二人の僧侶は僧兵に近い着物を着ている。声を荒げたのは、僧兵の着物を着た一人だ。
「蔵按が言うように深刻な事態だ」
この場の長のような空気を纏った男、空慈が目を閉じたまま口を開いた。この部屋にいる中では、一番位が高い人間のようだ。
「俺が四国へ行く!」
蔵按が立ち上がり、場に背を向けた。
「待て、蔵按」
空慈がそれを引き止める。自分よりも上の人間の言葉に、勢のついていた蔵按も立ち止まった。
「ぬしの配下は今、北におるじゃろう」
「一人でもいける!」
蔵按は北での退魔を終え、帰ってきたばかりのようだ。配下の者は後始末のため現地に残っているのだろう。自分の力に自信がある蔵按は、空慈を見下ろし言い放った。
「いや、次は逃がせられない。高野衆の威厳にかかわる事態じゃ」
空慈は静かにに目を開き、向かいに座っている男を見た。
「慈按、ぬしとぬしの配下の者に任せる」
慈按は立ち上がると、睨みつける蔵按の肩を叩いた。
「蔵按、お前は働き過ぎだ。今回は俺達に任せろ」
高野衆の中では、ライバルであり、仲間である慈按の言葉に蔵按が表情を緩めた。
「分かった。お前に譲ろう」
「ああ、任せろ」
慈按が空慈に向き直り、頭を下げ部屋を出る。
「慈按、陰陽網の情報では、今は水戸家が四国にいるという事じゃ」
部屋を出かけた慈按の背に、空慈が声を掛ける。
「知っている。利用はすれど、先をこされはしない」
「・・・頼むぞ」
慈按の姿が見えなくなった部屋で、空慈の声が静かに響いた。
「ご隠居、筑前へ出るなら一度備後へ出て、府中あたりから船で渡った方が無難だと思うのですが」
「そうですな、備後へ出ますとしましょう」
光圀一行は九州へ出るため、瀬戸内海から中国地方へ渡り、九州へ抜けるルートを選択していた。
「しかし、この天気では、しばらく船が出ないかもしれないですね」
「仕方ありません、自然には勝てません」
今でいう秋雨前線のせいか、しけの為に船が出せない状態のようだ。
「今日はこの町で宿をとりましょう」
光圀達は町で宿を探すが、この雨のせいで足止めを喰らった人が多く、中々宿が見つからずに困っていた。
とりあえず雨宿り兼、食事をするために飯屋に入った。
「本当か?」
「本当だよ」
「信じられないな」
光圀達と同じような境遇の人が多いのか、飯屋の席はほぼ埋まっていて、満席状態だった。そんな中で相席をした男達が不穏な話をしているのが耳に入る。
「俺も信じてないよ、しかし死人の数が異常だろう」
「確かにな」
光圀は相席の男に酒を勧める形で相手に取り入り、不穏な噂話を探った。
この地四国はお遍路さんが仏閣をめぐるので有名だ。その八十八か所以外にも寺は多い。一つの寺で昨晩住職が何者かに殺されたらしい。住職だけではなく、その寺にいた僧も何人か殺され、遺体は全てバラバラに切断されていたという。生き残った者の話では、僧の悲鳴と虫のような羽音が響いていたそうだ。
「生き残った者は女だったんだとよ」
「寺に女? 尼寺ですか?」
「少し違うな、その寺の敷地内に尼寺のような施設を設けていたんだと」
男が言うには、その寺では事情があって逃げてきた女を匿い、住まわせていたそうだ。
「尼僧達は無事だったのですか?」
「尼寺は空っぽだったそうだ」
「良い住職だったのですかな?」
「噂ではね」
男の口ぶりに含みがあったが、それ以上は話さずに、雨が止んだので急ぐように店を出て行った。
「ご隠居、何か匂いますね」
「うむ、弥晴に調べてもらうとしましょう」
光圀は飯屋の入り口から外を眺めた。すると、ぬかるんだ道の上に黒猫が現れる。
黒猫は光圀と目を合わすと、一声鳴いて町中へと姿を消した。
猫を見送る光圀の耳に、雨上がりの町から、虫の羽音が聞こえたような気がした。
丸亀藩城下の武家屋敷で、白髪交じりの曲げを結った男が庭で月を眺めていた。
秋深い夜、夜風が寒さを感じさせる時期。寒さと共に風に乗って、虫の羽音が男の耳に届いてきた。
「ふっ やはりあの坊主、他にも飼っておったか」
男は懐から呪符を取り出し、空へと掲げた。
近づいてきた羽音が、掲げた呪符に吸い込まれるように聞こえなくなった。
男が呪符を懐に入れた時、背後に気配を感じ振り向いた。
「直保か」
月明りの下で、小柄だが、がっしりとした体格と思しき男が立っている。
「その様子ですと、上手くいったようですな。阿部殿」
「ああ、だが戻るまで時間がかかる」
「成虫となって間がないから仕方がないのでは、それに姿は見えないので大丈夫でしょう」
「しかし高野衆がな」
「阿部殿、高野衆でもそいつは殺せませんよ」
直保は少し笑いながら白髪交じりの男、丸亀藩家老の阿部群治を見た。
「支藩の話はどうなったのでしょうか」
「うむ。のままでは、高通様に支藩を与える方向になってしまうだろう」
「丸亀藩を分けると言う事になりますか」
「儂はそれを阻止したい」
「分かっております。その為の虫です」
直保の虫という言葉に阿部は懐を押さえた。
阿部の胸中ではまだ葛藤があるようで、月を見上げ静かに息を吐いた。
「高通様を確実に亡き者にするには、もう少し訓練がいりますかな」
「声に出して言ううな!」
「これは失礼を」
直保は悪ぶれる様子もなく頭を下げた。
直保と呼ばれた男、阿部の配下の人間ではなさそうなだ。客人という扱いかもしれない。
「後、一度位は試しておきたい」
「ですれば、次は大庵寺を」
「大庵寺?」
「はい、その寺は昨日の按廟寺と親密な関係にあります」
「按廟寺と?」
「虫の証拠を掴まれるかもしれません。この機に潰しておくのが得策かと」
阿部は返事を言葉にせずに静かに頷き、再び懐を押さえ月を見上げた。
「ご隠居、弥晴は何と?」
翌朝、光圀達は確保できた宿屋で、弥晴からの文を受け取っていた。
取り急ぎの報告だが、陰陽網にも伝わっていた案件だったらしく、事件の概要が記されていた。
「事件があった寺、按廟寺は何かが保管されていたそうです」
「何かとは?」
「不明です」
光圀は顎に手をやって髭をさする。不明と言いながらも何か思いあたる節があるのだろう。
「按廟寺は真言宗のお寺みたいですね」
「真言宗・・・ 高野衆と関係があるのでしょうか?」
「ふむ、按廟寺と縁が深いお寺に大庵寺があるそうです」
「では、そちらへ向かいますか?」
「いや、その前に按廟寺を見てみましょう」
一行は宿を後にして、按廟寺へと足を向けた。秋雨前線が空をおおい、陽が当たらない道中は、肌寒さを感じさせる。幸い、雲は厚めだが、雨はまだ降りそうになかった。
「この上のようですな」
光圀達の前に石段が並び、その上に門があり、按廟寺と書かれているのが見える。
事件が起きて間もないせいだろう、辺りは閑散として、お参りに来る人の気配はない。
一行は石段を登り、門をくぐり中へと入った。
寺の中に人の気配はない。取り調べを終えたのか、役人の姿も見えない。
「殺人があってまだ二三日ですが、人の姿がありませんな」
「寺の者もいないようですが」
角と助が不信感を口にした。この時代、現代のような捜査はしないだろうが、生き残った寺の者までいないのには不自然さを感じさせる。
「事件を調べるのをやめて放棄したような感じですね」
皆が思っていた事を角が代弁した。
「放棄と言うよりも、やめさせたと言う方が正しいかもしれません」
光圀は含みのある言葉を言って本堂へと向かった。
本堂へと向かう途中に、飯屋で耳にした尼寺らしき建物があった。寺というよりも、普通の家に近い。家の周りには柵が設けられていて、寺とはべつの敷地のようにみえる。訳があって逃げてきた女を、匿うだけの施設だったのかもしれない。
光圀は先に尼寺へと足を踏み入れた。中は風が入らないせいか、少し暖かく感じられる。
今は襖で仕切られていないせいだろう、大広間のような広い部屋の正面に、大日如来像が祀られていた。
如来像の後ろに曼荼羅が描かれている。胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅の両部曼荼羅ではない。
「別尊曼荼羅ですかね」
光圀は一人ごちながら、曼荼羅への距離を縮め息を飲んだ。
曼荼羅は十二天法曼荼羅のように描かれたいて、中央に釈迦如来、それを虫の頭部を持った仏がとり囲む構図になっていた。
「これは! 外法曼荼羅!」
五道輪廻を説く釈迦を、虫たちがとり囲んで輪廻を妨害しているように見える。
「やはりここに、虫が祀られていたのですね」
「虫を祀る?」
光圀の言葉に角と助が顔を見合わせた。
ムカデを毘沙門天の使いとして信仰するのを聞いた事があるが、目の前の曼荼羅にはムカデや毘沙門天は描かれていない。
「ムカデではありません。寄生虫です」
「寄生虫ですか?」
「正確には寄生魂虫。魂に寄生する虫です。大庵寺に急ぎましょう、寄生虫の事を何か知っているかもしれません」
一行は急ぎ按廟寺を後にする。空の雨雲は光圀の心中を察してか、更に厚みを増し、陽の光を遮っていた。
三人の僧が四国に姿を現わした。
慈按、澐鄭、玄妬の高野衆だ。
「慈按、これからどうする?」
玄妬が長めの戟を杖のように持ちながら、後方を歩く慈按を見た。
「陰陽網に大庵寺の情報を流しておいた。光圀ならば動いているだろう」
「良いのか?、先に行かせて」
後方を歩く澐鄭が暗い空を見上げた。
「今回の件、丸亀藩が関わっている。水戸家に入ってもらう方が得策だ」
「丸亀藩か・・・ 内輪で揉めているらしいな」
「ああ、揉め事を水戸家に任せて、我らは虫を回収する」
慈按が空を見上げた時、雫が頬を濡らした。
「降ってきたか」
「我らも急ごう」
三人の僧は小雨の中、街道へと姿を消した。
「ご隠居、降ってきましたね」
「丁度良いです」
光圀一行が大庵寺の前まで来た時に、ポツリと冷たい雨が降り出した。
大庵寺は山の上にあり、朝から雲行きが悪かったせいか、お参りする人の姿は見えない。
一行は雨宿りを口実に寺での宿泊を申し出た。
「大変ですな、これから酷い降りになるかもしれません。ぼろ寺ですがどうぞ」
出迎え出た住職の趙芹が、快く了承してくれた。
趙芹は光圀と同じ位の歳だろうか、穏和そうだが、堅物なイメージを抱く。
「大庵寺では、ご趙芹住職一人ですかな?」
客間に通された光圀は、お茶を運んで来た住職に尋ねた。素朴な疑問だ、住職自ら客人に茶を運んで来るのは不自然だったからだ。それに、寺に入ってから住職以外の人の姿を見ていない。
「ははは、こんな山奥のぼろ寺に修行にくる若い僧はいませんよ」
嘘だろうと光圀は思った。客間に入る前に拝んだ本堂は掃除が行き届いていた。廊下も庭も荒れている個所はなく、一人で管理しているとは思えない。恐らく、ごく最近までは数人の人がいたはずだ。
「それは大変ですな」
光圀は話を合わせて、茶を口に運んだ。
「ここに来る途中の寺で殺しがあったと聞きましたが」
湯呑を置いた光圀は、さりげなく探りを入れる。親密な関係にある寺の話だ、何か聞けると考えたのだろう。
「噂で聞きましたが、按廟寺は内のぼろ寺とは違い栄えている寺だったので、何か揉め事を抱えていたのかも・・・。お疲れでしょう、持て成しはできませんが、ゆっくりとして行きなされ」
趙芹の態度は変わらなかったが、話を切り上げるように客間から出ていった。
「ご隠居、何か知っていそうでしたね」
「うむ、恐らく虫の事でしょう」
光圀は顎鬚をさすると縁側へと足を運ぶ。暗い空から降る雨が、紅葉を迎えようと、赤く色づき始めた葉を濡らし始めていた。
庭から聞こえる雨音が大きくなってきた。
雨音に紛れ、虫の羽音らしき音も、耳に届く。
「助さん、角さん」
光圀達は寝床から立ち上がり、庭に出ようと襖を開けようとした。
「ご隠居、開かないです」
角が光圀のほうへ振り返った。
「無理やり開けますか?」
「いや、待って下さい」
光圀は襖の前に行くと印を結びはじめた。
「ナマサマンダバ・サラナン・トラダリセイ・マカロシャナ・キャナヤサルバダタアギャタネン・クロソワカ」
マントラを唱えたあと、襖に軽く触れる。
「金剛力士の結界が張られていました、これで開きます」
角が光圀の言葉の後に襖を開け放った。雨が降りしきる暗い庭、白い影が見える。 趙芹だ!
趙芹は雨に打たれながらも、必死の形相でマントラを唱えていた。
集中しているのか、光圀達が結界から出て来たのを気づいていない。
雨音に混じり、虫の羽音と女の笑い声が聞こえる。
趙芹の印を結ぶ速さが加速する。マントラが雨音をかき分けるように暗い庭に響く。
マントラを裂くように虫の羽音が大きくなった時、趙芹が後ろに飛ばされた。
「助さん、角さん!」
光圀の指示で助と角が庭に飛び出した。角が趙芹の元へ、助が庭の中央へと走る。
魂に寄生する寄生魂虫は、角の物理的攻撃では倒せない。助の妖刀「暁宗」と光圀の葵退魔銃の方が有効なのだ。
羽音が雨音に混じり聞こえて来る。客間の明かりの中、透明な影が浮いているのが見えた。
助が暁宗を抜いて透明な影に切りかかった。刀身が影に切り込んだ瞬間、影が消え、違う空間に現れる。
光圀が葵退魔銃を影へと放つ。しかし銃弾は雨の中、暗闇に吸い込まれた。
羽音と共に女の笑い声が、雨音と共に強くなる。
「オン・アミリティ・ウン・パッタ!」
女の笑い声を一瞥するように、光圀のマントラが闇に響いた。
雷鳴が轟き、閃光が透明の影を貫いた。
女の笑い声が聞こえなくなり、羽音が徐々に遠ざかっていく。やがて雨も小雨になってきた。
「あなた達は?」
角に支えられた趙芹が光圀を見る。
「中々の結界でしたよ。趙芹殿」
光圀は微笑みながら住職に近づき、懐から印籠を取り出した。
趙芹は角に支えられながらも、光圀の前にひざまずいた。
「改まらなくても良い。事情を話してくれるか」
趙芹は地面を見たまま頷いた。
「あれは十日程前の事でした」
明かりを灯した本堂で、衣を着替えた趙芹が覚悟するように口を開いた。
十日程前に暫く疎遠になっていた按廟寺住職の慶捉が訪ねて来た。
「久しいなー 趙芹殿よ」
「おおー 慶捉殿か、久しぶりだな」
慶捉が話があると言うので、趙芹は客間に通した。
慶捉は趙芹と違い寺の経営が上手だった。檀家も増やし、役人にも顔がきく位の地位にいた。敷地内にある尼寺もそんなアピールの一つだった。
「お前に儲け話を持ってきた」
「儲け話?」
趙芹は不審に思った。按廟寺と大庵寺は確かに近い関係にある。でもそれは御山の事情柄での事だ。実際、趙芹と慶捉はそんなに親しくない。
「卵を分けてもらいたい」
二人きりの客間で、慶捉は小声でささやき趙芹を見た。
渋る顔をした趙芹に、慶捉は大庵寺の状況を尋ねる。
今の大庵寺は、御山からの援助でなんとかやっているが、このままでは廃寺になるのが目に見えている。
慶捉は「この話は丸亀藩からの要望だ」と伝え、断れば大庵寺は直ぐに潰されるかもと、脅し的な言葉も言ってきた。
「卵を分けるだけで、寺は安泰になるんだぞ」
趙芹は仕方なく承諾し、その日の内に慶捉は卵を持って帰って行った。
「卵というのは虫の卵ですな」
「はい」
光圀の問いに趙芹は素直に頷いた。
「虫が孵化するには、按廟寺と大庵寺の卵が必要なのです」
「ほう、それは初耳ですな」
白髪の老人は少し目を輝かせた。寄生魂虫を高野山が管理しているというのは知っていたが、孵化するのに単体では出来ないというのは知らなかった。妖魔に対しての知識が増えるのを、この老人は楽しんでいるのだろう。
「私は卵を渡した過ちに気付き、御山に連絡を入れました」
「とすると、高野衆がこの地に来ているという事ですな」
「私は会っていませんが・・・・ 多分・・」
光圀は顎鬚をさすりながら暫し黙り込んだ。丸亀藩が虫を所望した事からこの事案が発生した。
何故虫を欲しがったか、そこが今回の重要な事柄だろう。そして高野衆が今回の事案にどう絡んでくるか。
「助さん、角さん。丸亀藩にむかいますか」
光圀は大庵寺を護るために、周りに軍荼利明王守護結界を張った。
慶捉が殺された事を知った趙芹は、虫が襲って来ると予測して若い僧に暇を出し、寺から離れさせたのだ。
光圀達が泊まる事を断れなかった趙芹は、彼らに危害が及ばないように金剛力士結界を客間に張っていたのだろう。
「虫が来ても、この結界で入れないじゃろう」
「ご老公様自らの結界、感謝いたします」
「いやいや、其方には虫の事を、まだまだ教えてもらいたいからのう」
頭を下げる趙芹に、光圀は笑顔で応じ肩を叩いた。
「この件が片付くまで結界を解いてはならぬぞ」
白髪の老人は、念押しの言葉を残し、大庵寺を後にした。
雨は上がっているが、どんよりと重い秋の空が、まだまだ解決しない事案を物語っているようだった。
「ぐぉーーーー」
小雨がぱらつく武家屋敷の庭で白髪混じりの侍が悲鳴を上げた
「どうなされた、阿部殿?」
傍らにいた直保が、少しよろめく阿部群治をを支える。
「虫が突如に返された!」
「ほおー、 虫が返された」
突然の異変に阿部は動揺しているが、直保は落ち着いた顔で彼の手に握られた呪符を見た。
阿部のような常人には見えていないが、直保には禍々しい瘴気を纏う呪符に光る紙片がまとわりついているのが分かった。
直保は指先で紙片を挟み、口に入れると奥歯で噛み潰した。
「ほう、軍荼利明王の閃光破術ですな」
「軍荼利? どういう事じゃ?」
「相手に有能な術者がいたという事です」
「まさか、高野衆が!」
術を返された動揺とは違う動揺に、阿部の顔色が悪くなる。
「心配めさるな、私が居りまする」
「そう、そうだな」
阿部からの信用度が高いのだろう、直保の言葉で阿部は少し落ち着いき、自力で起き上がった。
「ですが、事を急いだ方がよいでしょう」
「分かっている」
阿部は呪符を握る手に少し力を込め、見つめた後に懐へとしまった。
「迷っている暇はありませんぞ」
阿部の心中を察してか、直保は念を押す言葉をかける。
「明日には決行する・・・・ お家の為だ」
直保の言葉に背中を押された阿部は、自らを納得させるよに言葉を吐いた。
苦渋の決断を下そうとする男の顔に水滴が落ちる。その傍らで卑屈にほくそ笑む男の顔を、夜の闇がそっと隠した。
「高通様、今日の視察はこの辺まででよろしいかと」
丸亀藩の領地を、馬に乗り視察する京極高通に、脇に控えた家臣が進言する。
「そうだな、雲行きも悪いし、引き返すか」
家臣の言葉に高通は素直に頷いた。
京極高通。丸亀藩藩主の京極高豊と側室の子供だが、才を認められてか、丸亀藩から一万石を譲り受け、支藩を設立する事となっている。
「丸亀は良い土地じゃ。私は恵まれている」
あいにくの曇り空だが、田んぼには首たれる稲で埋め尽くされていて、それを見る高通は満足気に頷いた。そんな高通の耳に虫の羽音が聞こえて来た。
ふふふふふ
羽音に混じり、微かに女の笑い声も聞こえる。
「何やつじゃ!」
控えていた家臣が刀に手をかけ、高通の前に出て空を見上げた。
羽音が大きくなってきて、微かに聞こえていた女の笑い声も、はっきりと聞こえ出した。
厚い雲を背後に、透明な影が見え隠れするのが見て取れる。
家臣が刀を抜いて、空を切る。しかし手応えはない。
他の家臣達も刀を抜き、空を切り始める。しかし、羽音の主は切れない。そんな家臣達を嘲笑うかのように、女の笑い声が曇天の下に響く。
「いえーーーーー!!!!」
一人の家臣が気合と共に、透明な影へと飛び掛かり、刀を振り下ろす。
腕に重い衝撃が伝わり、手応えを感じた家臣だが、自分の手を見ると、手首から先が無い事に気付いた。
「ぎゃーーーーー」
気合が悲鳴へと変わり、瞬時に悲鳴が聞こえなくなった。
ドスン!
首が地面に落ち、胴体が地に倒れた。
家臣達は目の前の光景に恐怖しながらも、円になって高通を囲み、防御の姿勢をとる。
羽音は上空高くから聞こえたり、近づきながら、笑い声を響かせ通過したりしていた。
ブブブブブーーーーーーンン!!!!
羽音が覚悟を決めたとうに、一気に空から降りてきた。
ピキーーーーーーーン!
空間を切るような音がして、羽音が瞬時に遠ざかる。
高通を中心として、円陣を組む家臣達の前に、地に転がる法輪が見えた。
「オン・ヂリタラシュタラ・・・・」
「オン・ビロダキャ・・・・」
「オン・ビロバクシャ・・・ オン・ベイシラマナヤ・・・」
三人の僧兵姿の男達が、円陣を組む家臣達を、四方から囲むように、瞬時に錫杖を地に差し込んだ。
「丸亀藩の方々、四天王守護結界を張った。そこから出ぬように!」
どっしりとした体格の僧、慈按が空を睨みつけながら印を結ぶ。
玄妬が戟を持つ手を握り直し身構える。澐鄭が独鈷杵に念を込める。
「そち達は!?」
馬上から高通が、暴れる馬を操りながら、三人の僧を見た。
「我らは高野衆!」
ブブーーーーーーーーンン!!!
曇天の空を背後に、透明な影が慈按を襲う!
玄妬が慈按の頭すれすれに戟を薙ぎる!
その間も慈按の印を紡ぐ指の動きは止まらない。
透明な影が速度を速め、消えたり、現れたりしながら、威嚇するように羽音を響かせる。
影が慈按の横に現れた
澐鄭が独鈷杵を慈按の左耳すれすれに放つ!
ピキーーーーーーン!!!
空間を切るような音と共に、独鈷杵が弾かれたように地に落ちた。
羽音が再び上空へと遠ざかる。
侍が持つ刀では透明な影に触れらないが、高野衆が持つ、念をこめた法具は虫に通用するようだ。しかし、致命傷は与えられない。
ブブーーーーーンン!!!
上空からの羽音が凄い勢いで近づいてきた。いや、上空から加速して落ちてくるという表現の方が適切かも知れない。
「大威徳魂返行!! オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ!!!」
慈按がマントラを叫び、上空へと気功を放つように、両手を投げだした。
まるで地上から放たれた稲妻が、曇天に吸い込まれるように天へと昇る。
キキーーーーーーーキーーーン
雷鳴が轟く事はないが、耳に刺さるような音が空気を震わせる。
ポトリ!
空気の振動が止んだ後、空から羽がある虫が落ちて来た。
いや、虫らしき物だ。甲虫が羽を出した状態みたいだが足が無く、芋虫のような胴体。頭部と思われる個所は触覚で埋め尽くされ目や口が分からない。しかし生きているのか、胴体をひねりながら動いている。
「オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ」
慈按がマントラを口にしながら、呪符を虫に被せた。
「オン、シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ キェェェーー!!」
澐鄭が呪符の上から、独鈷杵で虫を刺した。
呪符ごと貫かれている虫を持ち上げ、玄妬が用意している木箱へと、独鈷杵ごとほり込んだ。
直接梵字が刻まれている木箱は、それだけで法具の力があるのだろう。蓋を閉めた慈按が印を結び、小さくマントラを唱えた。
「我らはこれで」
三人の僧は高通に一礼した。
「どういう事で、何がどうなっているのだ?」
困惑する高通が馬から降りてきて、三人の前に歩み出てきた。
「詳細は水戸家からあるでしょう」
「水戸家から?」
高通が更に説明を求めようとした時には、三人の僧の姿は、目の前から消えていた。
曇天の空から雨粒が落ちてきて、高通を濡らし始めていた。
「一気にやらねばなりませんぞ」
「分かっておる」
丸亀城下の武家屋敷、裁断が設けられた部屋で、白髪混じりの男が浮いている呪符と向かい会っている。
浮いている呪符、上から吊るしているわけではない。その場で浮いている。
蜂が花の前で羽音を立てて飛んでいるかのよおうに浮いている。しかし羽音は聞こえない。羽音の替わりに禍々しい瘴気を纏いながら浮いている。
白髪混じりの男、阿部には呪符からの映像が送られているのだろう、目を見開き、額には大きな汗が浮かばせながら、一心で呪符をにらむ。
脇に控える男、直保の口元には微かな笑みが見えている、しかし外からの喧騒で笑みが消えた。
「来たようですな」
「何がじゃ」
直保の言葉に、阿部が少し集中力を切らしかけた。
「阿部殿はそのまま虫を操りなされ。後は私にお任せを」
外の喧騒を気にする阿部に、「この機会を逃すと終わりですぞ」と忠告して、直保は部屋を出ていった。
「何奴じゃあ!」
「私は阿部殿に用があるだけじゃ」
「ご家老は今、忙しいのだ」
曇天の下、武家屋敷の庭で光圀達が侍と対峙している。
大庵寺で施した閃光破術と、弥晴の報告から、家老の阿部が絡んでいると、光圀は推測してここに来ていた。
「何事じゃ」
間に入るように、阿部が姿を現した。
光圀は何か違和感があるのか、阿部を凝視する。
「者ども! であえ! 曲者じゃ! であえ!」
光圀の視線を不快に思ってか、阿部が屋敷中の部下に声を掛けた。
阿部の号令の元、わらわらと侍達が庭に集まってくる。
「仕方ない、助さん、角さん」
「はっ!」
助と角が次々と向かってくる侍達を迎え撃つ。
助三郎は、刀で切りかかってくる者の刃を刀で受け止め、足で蹴り飛ばす。次に襲ってくる者の刃をかいくぐり、みねうちで仕留めていく。
角之進も、腕にはめた防具で刃を受け止めた後、正拳で相手を倒していった。
屋敷中の部下が出て来て乱れる庭で、光圀と角と助の距離が離された。
この機を狙っていたのか、阿部が光圀の前に出て来て、刀を抜いた。
シュッ!!
光圀は間髪を入れずに、懐から葵退魔銃を取り出し、引き金を引く。
銃弾が阿部の額に風穴を開けた。
「ご家老!!!」
阿部の死が、武家屋敷の喧騒を止めた。
「この紋所が目にはいらぬか!」
取り乱しかける侍達に、助三郎が印籠をかざす。
「こちらにおわすお方をどなたと心得る。さきの副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ!」
「水戸のご老公様!!」
家老が殺され、殺したのが天下の副将軍と、訳がわからなくなる侍達も、三つ葉葵の印籠の前に跪き頭を垂れた。
「そちが阿部の家臣か」
「はい、八木十郎と申します」
光圀は跪く家臣の中の一人の声を掛けた。
「阿部は死んでおらぬ、それを見よ」
光圀は額に穴を開け、倒れている阿部に指をさした。いや、阿部だった物だ。
曇天の下で倒れているのは木で出来た傀儡だった。
「幻傀儡じゃ」
「幻傀儡?」
人型の人形に式を忍ばせ操る。外観は幻術で、いかようにも作れると光圀は説明した。
「阿部はどこの部屋におる」
「はっ、こちらに」
八木が先頭に立ち、光圀達を屋敷内へと導いた。
空を敷き詰める厚い雲から、雨粒が落ちだし、屋敷の屋根に音をはじき出し始めていた。
「ご家老!」
阿部がいる部屋へ、光圀達を連れてきた八木が大声を上げた。
部屋の中で阿部が白目を剝いて倒れていたのだ。
「大丈夫じゃ」
すかさず阿部の腕を掴み、脈をとった光圀が八木を見た。
阿部を八木に託して、光圀は落ちている呪符を拾い上げた。
「ふむ、虫の気配は消えているが、女の魂がまだ縛られているようじゃ」
「虫はどうしたのでしょうか」
「恐らく、高野衆が捉えたのだろう」
光圀は呪符を祭壇に祀り、印を結ぶ。
「ナウマク・サマンダボダナン・バク」
釈迦如来のマントラを唱え始める。
虫に捕らえられ、輪廻の輪から外れた女の魂を、再び輪廻の輪に戻しているのだ。
もし虫が退治されていなかったら、女の魂は未来永劫、虫に縛られたまま、この世に彷徨い続けていただろう。
「ご老公様!」
弥晴からの文をうけた、丸亀藩藩主の京極高豊が、慌てふためきながら駆けつけて来た。
「高豊殿か」
輪廻の儀式を終えた光圀が、事の経緯を説明する。
阿部の回復をを待たないと分からない事もあるが、光圀は自分の推理を交えて話し始めた。
藩を分ける事を怪訝に思った阿部に、幻傀儡を操る何者かが彼に近づき、高通の暗殺を持ち掛けたのだろう。そして、暗殺の為に利用されたのが、証拠が残らない虫だった。
阿部は自分に仕える女の忍びを、逃げ込み寺と称している按廟寺に入れさせた。忠実な忍びの方が、虫に憑りつかれた後、使いやすいと幻傀儡に言われたのだろう。
虫の方は高野衆が捕らえ、こちらは水戸家が対処し、阿部が倒れたのは、恐らく高野衆が虫を回収した術による反動だろうとも付け加えた。
「高豊殿、支藩の件はもう一度、家臣との話が必要じゃのう」
「はっ、納得のいく会合を開きます」
「うむ」
光圀は再び祭壇へと向き直り、呪符を手にした後、火をつけた。
呪符から立ち上がる煙に手を合わせ、般若心経を唱える。
昇っていく煙からは、笑い声ではなく「ありがとう」という女の声が、光圀の耳に届いた。
「直保という男は何者なのでしょうか?」
阿部の処遇は高豊に任せ、光圀達は丸亀城での接待を嫌い、「忍びの旅じゃ」と言葉を残して、丸亀の地を後にしていた。
「うむ、直保も幻傀儡じゃろ」
武家屋敷の者の話では、直保という侍はいつの間にか屋敷にいて、いつも阿部の傍にいたという。屋敷の者も一切、不審に思わなかったそうだ。
「皆、幻術にやられていたのじゃろう」
南光坊天海の昔名、随風を名乗る僧、今回の幻傀儡を操る者、結びつきがあるのか分からないが、平和な徳川の世を乱そうとしているように思えてならない。
秋晴れからは遠い曇天の空は、光圀の心を更に曇らせていった。