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この小さな箱庭の中で

歴史を語るその人は

作者: 猫柳

 ――勉強をする必要があるのは、何故だと思いますか?


 柔らかく垂れた青い目を軽く細めて、初めて顔を合わせたその日、その人はくすりと笑った。

 俺の仕掛けたおもちゃの蛇をヒョイっと片手で掴んで、彼は僕の前に立ち、視線を合わせるためにしゃがみ込む。

「知るか、んなこと!俺、勉強なんてしたくねぇもん!」

「おや、そうですか」

 年は、多分二十までいかない。しかし、彼はどこか不思議な空気を纏っていた。思考が読めない。

 今まで来た家庭教師たちは、どこか偉そうで、見栄っ張りだった。そんな奴らにいたずらして、恥をかかせて、それで追い返すのが俺の趣味。

 なのに、この人は他の家庭教師達とは違うと、本能的に感じた。

「なら、これは宿題です。何故君は勉強をするのでしょうか。僕は何故、貴方に勉強を教えたいのでしょうか」

 俺は気を削って作ったおもちゃの剣を身を守るように構えながら、頭をフル回転させた。宿題になんかされなくても、答えようと思えば即答できる。

「親父が俺に勉強をさせたいから。あんたは親父に雇われてるから」

 どうだ、とばかりに俺は彼の顔を見上げたが、彼はやはり読めない笑顔を浮かべるだけ。

「宿題ですよ。貴方がなぜ学ぶのか。僕が何故教えるのか。いつか君自身の答えを聞かせてください」


 結局、その答えは、子供だったその頃の俺には、見つけることはできなかった。



  ◇◆◇◆◇



 木の扉が立てた軋んだ音に、俺はあぁ、そろそろ油を挿したほうがいいなぁ、と考えながら本から顔を上げる。どうもここ最近俺は絶賛ものぐさ&引きこもり人生まっしぐらで良くない。昔の俺よ、一体どこへ行った。

 凝り固まった肩を軽く解しながら振り返れば、懐かしい友が「お久しぶりです」と変わらぬ笑みを浮かべていたので、俺は一瞬固まる。

「フィー!?うわぁ、なんだ、来るなら先に一報入れてくれよ。もてなしの準備できねぇじゃん」

「そういう驚いた顔を見るのが僕の楽しみでして」

 性格悪ぃ、と俺がぼやけば、君の子供時代ほどではありませんよと返される。その笑みは俺の家庭教師をしていた時代と寸分違わぬ――十数年の月日に無視されたかのような、未だ若々しい青年のものだった。

 俺はぐしゃぐしゃと頭を掻いて、「茶でも淹れるよ」と立ち上がった。俺の書斎は至るところに書類と本が積み上がっているが、脇には一応小さなソファーとテーブルがある。俺はフィーにそこへ座るよう指示すると、廊下へと出て台所へ向かった。



 フィー。俺の家に来た、確か七番目の家庭教師。勉強嫌いの俺に、学ぶことの楽しさを教えてくれたのはこの人だった。

 特に彼が得手としていたのは、歴史の授業だった。というよりも、彼はその分野にのみ特化していた。子供が母親から聞かされる有名な御伽噺から派生して、彼の授業は時を超え、英雄達が生き生きとその武勇を轟かせた世界へと俺を誘った。

 暗黒時代を打ち破った五英雄達の壮大な旅路。女だてらに剣を握り、男衆を従えて賊を打ち破る有名喜劇の裏話。魔王と呼ばれた男の陰謀渦巻く戦いの物語。小さい頃ベッドに潜り込みながら遠い世界を夢見ていたあの頃の感動を、彼はゆっくりと肉付けし、物語の深みへ、深みへと誘った。

 やられたと思った頃にはもう遅い。俺は彼の話に夢中になって、家にあった本棚を片っ端からひっくり返して、歴史書を追うようになってしまった。

 彼が教えてくれたのは、堅苦しい文章の裏に潜む、人々の息遣いの拾い方。

 文章の上に並ぶ人物名は、ただの記号ではない。かつて懸命に生きて、その生き様――それは必ずしも良いものだけではないが――を人の心に刻み込んだ、一人の人間なのだ。人間味溢れる微笑ましい逸話、歴史を動かした輝かしい、あるいは愚かしい政策。


『さて、君から見てこの方は、良い人ですか?悪い人ですか?』


 それが彼の最もよく聞く問いだった。最初の頃俺は手近な本の中の評価を拾って口にしていたが、そういった答えには大概、彼は笑み以外の反応を見せなかった。

 歴史上の偉人を調べれば分かるが、悪人・愚人だと語られる人間が、必ずしも『完全なる悪』であるとは限らない。愚かしいことをしたこともある。非道な判断を下したこともある。 けれど掘り下げてみれば、そこに人間らしさを感じることもある。彼らなりに考えて出した答えが、結果的には状況にそぐわない場合などもある。聖人と讃えられたものもまた然り。

本に頼らず、自らの善悪の指標を作るのは、随分と大変な作業だった。いつの間にか政治学も覚えたし、多方向からひとつのものごとについて考える力も得た。

 しばらく経つと本を追うのではなく、いろんな逸話を拾うために様々な施設に足を運び、多くの経験を得させられた。

少々一分野に偏りすぎている部分から、他の家庭教師は彼の教育に否定的だった。、が、俺に学習意欲を与える、という面に関しては、まったくもって有能な家庭教師だった。

 やがて父親は俺の偏りすぎた知識の天秤を戻すために、彼を罷免して新しい家庭教師を雇った。その後彼ほど馬の合う家庭教師はいなくて、くるくると教師を変えながら、俺は大人になった。

 家を継ぐのは兄の役目。生まれた時から、俺の存在価値なんて、兄のスペアぐらいでしかなかった。大人になれば何か適当に生きられるだろうと思っていた、俺の考えは大きな間違い。フィーによって学んだ知識がなければ、きっと俺は一家の腫れ物、役立たずの放蕩息子に成り下がっていたに違いない。彼に出会うまで、自分が将来学者になるなんて、考えたことすらなかったのだから。




 銀の盆にカップを二つ載せて戻ってくると、フィーは俺の机の傍で、広げっぱなしの書類を眺めていた。その内容を思い出して、俺は思わず声を上げる。

「ちょ、勝手に見るなよ!」

「おや、お帰りなさい」

「おかえり、じゃなくて……勝手に人のもん覗くなよな」

彼の自由奔放さは昔からのことで、ちょっとした書き物を覗き込まれるのは慣れたものだった。でも、今まで書いていたそれは、ちょっと違う。

フィーはクスクスと笑いながら、「申し訳ありません」と眉を下げた。あぁああああ、これは全部見られたな。畜生。やられた。

「いやぁ、君もいつの間にか、随分と大きくなったんですねぇ」

「その分あんたは変わんねぇけどな」

小さなカップを一つ手にとって、ズズズズズ、と紅茶をすする。

「そういえば、正式に文官としての雇用が決まったそうですね。おめでとうございます」

「親のコネみたいなもんだから、大してめでたい話でもないさ」

「そうですか?少なくとも、勉強嫌いを克服できたようで、かつての師としては喜ばしい限りです。……歴史を、まとめているんですね」

「ん、あぁ。先王の治世をな。といっても、俺はもっぱら資料集め、まとめてるのはもっとお偉い方々さ」

ひらり、と手を振れば、「あの悪ガキが良くここまで成長したものです」とフィーはしみじみ紅茶を啜る。失礼だな。俺もそう思ってるよ。

 悪態をつこうとして、やめる。昔と比べて、彼が随分と小さく感じた。恩師と呼ぶには、あまりにも若い。きっと、傍から見れば同年代の友人同士に見えるのだろう。彼は変わらない。昔も今も。

 その理由を、俺はずっと探し続けてきた。

「……あんたは、なんで俺に教鞭を振るったんだ?聞くところによると、家庭教師の真似事をしたのはあれが最初で最後って聞いたぜ?」

 先程まで紙に書き留めていたのは、家庭教師を辞めた後の彼の足跡。そして、それ以前の――出会う前の彼の、足跡。

 最初はただの好奇心だった。あまり良いことではないだろうと分かってはいたが、あまりにもあっさりと、この恩師が姿を消したので。少しだけ、悔しかったのだ。

 しかし、追いかければ追いかけるほど、この恩師は得体が知れなかった。年も分からない。生まれも分からない。ただ、所々に点々とその目撃証言だけが残る。ある時は本屋を営んでいたという。ある時は占い師の真似事をしていたという。そんな記録が、途切れない。何年、何十年遡っても、ポツリ、ポツリと同じような記録が点在する。

「あんたはすぐふらりと姿を消す癖に、、積極的に人と関わる。それは何故だ?」

 フィーは笑った。いつも通りの、思考の読めない笑みだった。

「さて、何故でしょう。君から見て、僕はどんな者に見えましたか?」

 少し考えてから、俺は返答した。

「あんたは歴史家に向いてない」

「おや。それは何故?」

「好奇心を持たせるという点において、あんたは上手かった。が、歴史家としては主観が混ざりすぎる。あんたは、歴史をまるで見てきたことのように語るが、歴史考察ってのはそもそも確定事項が限られている。裏付けのない歴史はただの空想ファンタジーだ」

 少しだけ、彼は虚を突かれたような顔をした。それから、彼の笑みが深まる。

「あんたが歴史を語るのは、歴史が好きなんじゃない。人間が好きだから。だからあんたの語りは人間性と感情に重きが置かれる。歴史家と言うより、物書きの方が似合ってるよ」

「すごいな。僕より僕の適性が分かっていそうだ」

「それでも、分かるのはそれだけ。あんたの主観、思考は読めない。だから教えてくれよ。なんであんたは、俺の師になったんだ」

 そこで初めて、彼は人間らしく笑みを消し、深く考え込むような顔をした。

「まぁ、気まぐれですかね」

 まぁ、そんな気はしていたが。彼の軽い返答は、すとんと胸の中に落ちてきた。

「君の言う通り、僕は人間が好きなんだと思いますよ。けれど、長らく彷徨っていますと、自分を見失うんです。だから自分を映し出す鏡が欲しかった。そんな頃に丁度君の両親と会いまして。その子供がまた随分と素直で生意気な少年なものだから、少し関わってみようかな、と思ったんです」

「ほんと気まぐれだな」

「人と人の出会いなんて、そんなものですよ」

「にしても、鏡か。あんたの似姿にでもなったってか?」

 澄ました顔のフィーに問いかければ、これには真剣な声で「いいえ」と返答が来る。

「鏡というのは、先程あなたが述べてくれたように、他者の目を通して自分を見つめ直したかったということです。人は、他者と関わることで自分を確立する。僕は、こうやって話すことのできる友を作りたかったんです」

 へぇ、と俺は軽く相槌を打った。

「俺は、あんたの期待に添えたか?」

「もちろん。君とこうやって狩る愚痴を買わせるのが、僕はとても嬉しい。それに、君が歴史を見つめる存在の一人となってくれたことも。僕は、人々の歩いてきた歴史を忘れないでほしい。僕の関わった人々の感情、優しさと強さ、それを語り継いでいきたい。そう思っているんです」

 ぬるくなり始めた紅茶を啜りながら、ぼんやりと相槌を打つ。

 やはり彼は、人ではない。歴史を探る者ではなく、歴史を『見届けてきた』者。

 彼の語った物語は、空想なんかではなくて。彼が直接、目にした光景。

 あぁ、知りてぇなぁ。彼が語る他人の物語ではなく、彼自身の物語を。それはさぞかし、苦労に満ちた物語であることだろう。彼は多くの英雄と、何を語らい、何を思ったのだろう。そして、彼の歩いた足跡は、どんな文様を描くのだろう。

 自然、笑っていたらしい。何を笑っているんですか、と声をかけられ、俺は小さく首を振る。

 いつか、晩年になり、自分の人生を振り返る時。俺の描く足跡は、彼のように満ち足りたものになるのだろうか。

「やっぱ、あんたは俺の師だなぁ」

「何です?急に」

「いや、なんでも」


 彼のように、いつか、何かを語り残せるように。

 俺は、そんな風に生きていきたい。

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